こんにちは
最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。
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麻布の屋敷にのっぺらぼう
大正14年8月25日 / 読売新聞
将軍は十代家治、天明のはじめ頃のお話です。麻布に「だまって居よ屋敷」というのがあって、なかなかの評判だったそう。四谷通りの小鳥屋で、手広く諸家へ出入りしていた喜右衛門という者が通りかかると、その屋敷の武家からうずらの注文を受けました。武家は今持ち合わせがないから屋敷で払いたいというので、喜右衛門はうずらを届けに麻布まで行きました。通された八畳間で煙草を吸いながら待っていると、座敷の様子はひどく朽ち果てており、敷居、鴨居などところどころ曲がり落ち、茶色に焼け、じめじめした感じで唐紙も穴だらけでした。これは殊のほか困窮している屋敷だなと思っていると、カサカサと紙を巻く音がするので見ると、いつの間にか入ってきた十ばかりの男の子が、床の間にかかった掛物を上へ巻き上げ、中途でバラリと落とし、また巻き上げる、それを繰り返しているのです。安物らしいがそんなことをしていると破れてしまいそうなので「そんなおいたをしてはいけませんな」と声をかけたのです。すると子供は「だまって居よ」となりに合わないしわがれた声で言いながら、ひょいっと振り向いたのです。喜右衛門はびっくり仰天、顔は真っ白で目も鼻も口もなく、向こうずねから胴の上がついたようなもの、つまり怪談などによく出るのっぺらぼうなのです。わあと言ったまま、あおむけに倒れ気絶してしまいました。屋敷の者がこれに気づき、駕籠で四谷の店に送り届けました。こののっぺらぼうは一年に四五度は出るよしをその武家方の者が話したと言います。この年の春にも奥方が一人でいると、どこから来たのか小さな禿が菓子閉箪笥から菓子を出して黙って食っていたので「何者ぢゃ」と声をかけると「だまって居よ」とたった一言、ふり向くとのっぺらぼうでそのまま姿を消してしまいました。
一説には顔の真ん中に一つ目があったといいますが、喜右衛門事件以来、世上の噂になり「だまって居よ屋敷」は巷談にやかましかったといいます。屋敷の名前ははっきりわかっているが書かないと一つ目説の平秩東作が書き残しています。八十いくつかで死んだ豊後藩士太田逍遥翁の実談と伝えたもので、本物でありましょう。
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この記事は「のっぺらぼう」ですが、「一つ目小僧」として伝わる話もあります。水木しげる氏の一つ目小僧はこの話に拠るものと思われます。小泉八雲ののっぺらぼうの場合はムジナが正体らしいという話になっています。いずれにせよ、子どもの背丈の妖怪が「だまって居よ」というわけです。ある意味で「妖怪だまって居よ」と呼んでもいいのではないでしょうか。ムジナはだまって居よと言うわけではありませんが、同じ類の怪であることはまちがいありません。
これまでの記事の紹介の中で、武家屋敷が幽霊屋敷・化け物屋敷になっているものがいくつかありました。現代社会では「事故物件」のマンションやアパートが話題となりますが、東京になったばかりの江戸には「事故物件的屋敷」がごろごろしていたということになるわけです。それは江戸時代の終えんで、軒並み“空き家”になって荒廃した武家屋敷が全国にドッとできたということになりますね。そのような歴史的背景が「事故物件的屋敷」を量産していったと思います。
▲のっぺらぼう 竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』 ※Wikipediaよりお借りしました
注2.十代家治
注3.うずら
注4.唐紙
注5.禿
注6.巷談
注7.平秩東作
注8.太田逍遥
●参考文献
湯本豪一編
『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会
『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会
拝