こんにちは
最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。
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駒込の聾地蔵
大正7年8月4日、5日 / 国民新聞
駒込郵便局の集配人は心得たもので「駒込聾地蔵様」と書いて出せば、手紙でも葉書でも間違いなく正行寺境内の年古き石地蔵の許に配達される。そこには一個の箱があるばかりで集配人は郵便物がそこに放り込んで、黙々と帰っていく。正行寺は本郷区駒込追分町にある寺で開基は元禄のことと伝えられる。石地蔵の建立も同じころであるようだ。
話は遡り、山伏覚法院は元禄十五年五月十日をもって遷化した。彼は正行寺地蔵の帰依者であった。その信心によって数々の奇蹟を体現している。覚法院は大男で酒と唐辛子が無二の好物であった。正行寺地蔵は全ての痰、咳に霊験あらたかで信仰を培っていた。覚法院は慢性の気管支カタルで医薬の効なく苦しんでいた時、地蔵の霊験を三河町の八百久に聞き、毎夜毎夜唐辛子を捧げることにした。二十一日間経った満願の日、彼の病気は平癒した。そんな彼は「お前たちにはわかるまいが、地蔵様は目を病み、耳も病んでござる」と語った。「わしは地蔵様の化身じゃ。霊験は一切わしが体得した」とも言った。そして彼はやがて地蔵と同じく目と耳を病んだ。この山伏による様々な奇蹟は多くの人々に首肯されるまで多少の年月がかかった。そんな彼の命は明日をも知れぬ状況となった。「わしは地蔵様共々永く後世まで痰、咳に苦しむ人をお助けする。しかしわしも地蔵様も聾じゃから、願意は口上で述べずにすべて書付にして出してくだされ」
今、正行寺の境内にある二間の堂は覚法院の白木の座像を安置している。地蔵はその後ろにある。
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令和の世を生き、具合が悪いと病院に行くわれわれにはわかりにくいですが、医者も薬も“遠いところにあった”昔の人にとって、神頼み、加持・祈祷は医療でした。お金のない人は漢方や蘭方の医者にお願いすることができず、山伏の祈祷や民間療法の怪しげな薬をもらって服用していたのです。覚法院の具体的な治療はふれていませんが、病状が改善した人もいたのでしょう。霊験あらたかになっていたようです。江戸時代までは神仏習合であり、寺に修験者がいてもおかしくない時代で、お寺で住職と修験者が一緒に護摩だきをするなんてこともあったそうです。明治になり、神仏分離、修験道廃止によって「非科学的医療」は廃れ、西洋医学がすすめられていきました。それでも病気平癒のため、お地蔵さんに手を合わせたりする人がいるのは、なんとなくホッとするのはなぜでしょうか。
▲正行寺 文京区向丘1丁目 ※Wikipediaよりお借りしました
▲左上に正行寺 最下部の信号機マークが追分です ※GoogleMAPからお借りしました
注2. 駒込郵便局
注3. 聾
注4. 正行寺
注5. 駒込追分
注6. 気管支カタル
注7. 三河町
注8. 二間の堂
●参考 とうがらし地蔵 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)11月
この寺の境内にまつられている地蔵尊は「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり。」とある。
寺に伝わる元文3年(1738)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄15年(1702)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が”とうがらし酒”を好んだことから、とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。
尊像は、昭和20年(1945)5月の空襲にあり、その後再建されたものである。なお「とうがらし地蔵」とともに名の知られた「とうがらし閻魔」は、焼失したままとなっている。
江戸時代、「旧岩槻街道」の道筋にあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから「小苗木縄手」それがかわって「うなぎ縄手」と呼ばれていた。
●参考文献
湯本豪一編
『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会
『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会
拝