こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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不思議に焼け残った御行の松

  大正14年3月20日 / 万朝報

 

 日暮里の大火の中、根岸の御行の松(おぎょうのまつ)と日暮不動堂はその類焼を免れた。堂守清水亮盈さんをたずねると「とにもかくにもあらたかな不動様や松のあるところは焼けるものぢゃありません」と語った。御行の松の根下に住む市川寿美蔵君の妻女も「手前どもでは御行の松は決して焼けるものじゃないから何にも手出ししませんでした」当の寿美蔵君も「いくら風下にあっても傍らに住んでいるから安心でさ。舞台が終わってから帰るぐらいで」と異口同音。今さら御行の松の伝説でもあるまいが、三代家光が京都魚所の鬼門に比叡山があるのを倣って、千代田城の鬼門の上野に寛永寺を建立して親王御一方を迎えた。徳川の政略であったと思うが、その法親王が日暮ヶ岡と呼んだ現在の下谷区中根岸57番地、御行の松の傍らに御隠殿を造らせられて、そばを流れる音無川の水を浴びて行を遊ばされた。その頃は日暮松と呼ばれていたが、誰言うとなく御行の松と呼ぶようになったといわれている。徳川の末期までは根岸の里御行の松の片ほとりなどといって粋な寮があって、ウグイスの初音を連想したところであったが、焼ける前はトタン屋根がゴチャゴチャ並び、びんつけ油でコッテリ髪を膨らました姐さんたちがストトンを唄い、音無川も名ばかりの臭いドブ水が流れるところであった。

 

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▲御行の松(初代)が飾られています ※Wikipediaよりお借りしました
 

注1.日暮里の大火
二日前に日暮里で起きた大火のことと思われます。昭和になり、1963年にも大火がありました。
注2.根岸の御行の松     
記事から1年経った1925年(大正15)に「根岸御行ノ松」として天然記念物指定されました。その時は高さ約13.6メートルあったそうですが、1928年(昭和3)夏に枯死。現在は四代目です。
注3.日暮不動堂  
今は西蔵不動または松不動と呼ばれています。台東区根岸4-9-5。
注4.堂守  
お堂を管理し、世話をする人。出家していなくてもかまわない。
注5.市川寿美蔵  
1886-1971 六代目 日本橋蛎殻町生まれ 戦後は壽海として関西で活躍した。
注6.鬼門  
陰陽道で、邪悪な鬼が出入りするとして万事に忌み嫌われた艮(うしとら:北東)の方角。また、その方角にあたる場所。
注7.法親王 
寛永寺住職は三代目以降から京より皇族を迎えることになりました。「輪王寺宮」と呼ばれ、日光山や比叡山の座主を兼ねる場合は「三山管領宮」ともいいました。
注8.下谷区中根岸57番地  
中根岸町は1891年(明治24)に設置されました。現在は「中根岸児童遊園」に名前が残っています。現在は台東区根岸3~4丁目にあたります。
注9.御隠殿  御隠殿は輪王寺宮の別邸で、寛永時本坊で公務を執られていた法親王が、時折り息抜きにこられた屋敷です。敷地は三千数百坪で、月見に適したところでした。1868年(慶応4)上野戦争によって焼失しました。台東区根岸2-19-10
注10.音無川  
石神井川の支流です。王子から分かれ、田端、日暮里を流れ、山谷堀を経て隅田川に注いでいました。今は暗渠になっています。
注11.びんつけ油  
鬢付け油とは、結い上げた日本髪を固め、乱れを防ぐために使うものです。現代では力士など、使用する人が限られています。最近は木蝋が入手しにくい状況で、昔ながらの鬢付け油づくりはむずかしいようです。
注12.ストトン  
ストトン節は大正末期の流行り歌で、「すととん」という囃子言葉が入っています。 
参考:「ストトン節」https://www.youtube.com/watch?v=MYPeFwCc0bg
 

▲御隠殿坂 輪王寺宮はここを通って御隠殿にむかいました。さらに右手の方角に御行の松があります ※撮影どこ山

 

●参考文献 湯本豪一

『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会