こんにちは

 

猩々暁斎ほ群を抜いてござる。故事と未知なる世界の探究者、松浦武四郎は偉業を残しもうした。

 

丸の内の静嘉堂文庫美術館で『画鬼河鍋暁斎×鬼才松浦武四郎』が開催されています。狩野派の絵師として将来が約束されるかという時に江戸時代が終焉を迎え、安定したくらしを望めなくなり、江戸から東京へ遷り変わる時代をその才能で生き延びた河鍋暁斎。蝦夷地をその脚力を駆使してくまなく歩き、アイヌの人々と文化も調べ上げ、怒りをもって官を辞した松浦武四郎は「北海道」の名づけ親でもあります。

 

  

▲展覧会チラシ表・裏

 

年齢は武四郎が13歳上ですが、ともに幕末から明治を生きた“達人たち”でした。武四郎が生まれた1818年は奇しくも伊能忠敬が逝去した年でした。脚力を発揮した二人が継承されたような気がします。余談ですが、伊能忠敬は平戸を測量した時に松浦静山と約束し平戸の地図を贈っています(逝去後でしたが)。平戸の松浦家から分かれた人々が伊勢に落ち着いて、その子孫が武四郎、縁は異なもの、味なものです。

 

6度の蝦夷地調査、縄文から江戸に至る様々な文物蒐集、それらを記録した武四郎は挿絵などを外注することもありました。その一人が、浮世絵や錦絵で当代きっての名人とうたわれた暁斎でした。展示された文化財とそれを写しとった暁斎の画は記録としても貴重です。

 

  

▲「老猿面」年代不詳・静嘉堂 中国か朝鮮半島から伝わる    右:暁斎の絵 角度をつけています   ※撮影OKです

 

この展示会の「ミソ」は『武四郎涅槃図』です。「涅槃」とは煩悩がなくなり解脱した状態をいいますが、大満足した、大安心の境地と言えます。原語は「ニルヴァーナ」、通常は釈迦が入滅した時をあらわすものが「涅槃図」です。この暁斎の画はある意味でパロディ、同時にリスペクトを感じるものになっており、真面目なお坊さんは怒るかもしれませんね。国内で有名なものは清水寺のものがあります。検索いただくと詳しい説明があります。塑像では法隆寺五重塔の北面が有名です。嘆きの僧侶の表情が豊かです。武四郎は注文をつけ、催促もしたらしく、“やかましいお客様”だったようです。

 

▲「武四郎涅槃図」河鍋暁斎・松浦武四郎記念館蔵・1886年  ※撮影OKです

 

▲エントランス 二人の化学反応が産んだ精華がつまった展示会とでもいいましょうか

 

偶然かと思いますが、二人ともそれぞれ写真は1葉しか伝わっていないそうです。おもしろいですね。

 

▲正確には図録ではありません。『武四郎涅槃図』に絞った本です。静嘉堂さん、ナイスプレーです。SHOPで購入できます。

 

武四郎は亡くなる寸前、大台ヶ原に再び登ろうとしていました。奈良県と三重県にまたがるエリアで、山伏もなかなか踏み入れられない険しいところだそうです。

 

武四郎は神田五軒町の自宅で亡くなります。脳溢血でした。葬られた染井霊園は平戸藩主だった松浦伯の墓所でもありました。これも縁でしょうか。

 

一年後、河鍋暁斎は病床で死にゆく己の姿を描きました。胃癌でした。今は谷中瑞輪寺で眠っています。


■概要

4月13日(土)~6月9日(日)

静嘉堂@丸の内 明治生命館1階

公式ホームページ

 

撮影できないエリアもありますが、たくさん写真を撮ることは可能です。わかりやすい展示構成で、二人がつくりあげた洒落を堪能できるのもうれしいかも。