こんにちは
最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。
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芸術倶楽部に須磨子の凄い幽霊
大正8年1月29日 / 鹿児島新聞
年をまたぎ、わずか二か月の間、抱月と須磨子が死んで劇界をして激しく驚かしただけでなく、世間の目もそばだたせた。
須磨子の白骨にはまだ縊死の苦痛の呻きが残っているかと思われる。牛込の芸術倶楽部は一種の凄惨な空気の中に、謎の如く魔の如き空気がある。室内に大きな穴ができたと伝えられ、毎夜須磨子の幽霊が出て屋上を徘徊しており、その大穴から出るらしい。新しい芸術を生命とする芸術倶楽部において、その女王たる須磨子がいかにも古めかしき幽霊になって妄執の形相を現すとは、普通人の信じられない話であろう。縊死したときにテーブルを蹴った音が今なお午前四時くらいになると聞こえ、須磨子が「カチューシャ」を唄う声も聞こえてくる。多門院と芸術倶楽部から一尺ほどの人魂が現われ、俱楽部の屋上で合体して色が濃くなり、軒をグルグル廻っているのを見たという人もいて、近所の女子どもは身を震わしているという。
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須磨子は激しい感情を持った女性だったらしく、訪ねてきた抱月の娘を追い返したりしています。抱月の死で虚脱状態になっていることが目撃されていますが、2か月後の月命日である5日に縊死したのです。当時、二階の奥に抱月と須磨子の部屋があり、道具部屋はすぐ横でした。大きな穴は須磨子が開けたのでしょうか、不明です。
遺書で抱月の墓へ一緒に埋葬されることを望んでいた須磨子でしたが、抱月の妻が拒否、墓は長野市松代町清野の小林家墓所(本名が小林正子、生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓があります。芸術倶楽部から近いです(現代の草間弥生美術館の向かい側です)。
こんな話があります。須磨子の自殺の音を身近で聞いたのが、演劇研究家の飯塚友一郎氏でした。当時、芸術倶楽部の隣に住んでいたそうです。本人の著作『腰越帖』に「中一日置いて五日の未明、私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段気にも止めず、又、ぐつすり寝込んで」・・「そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞い込んでくる。『物置で椅子卓子を踏台にして首を縊つたのだとさ。』と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した。」(「松井須磨子の臨終」)
また、新宿中村屋の創始者、相馬黒光は須磨子の思い出を書いています。須磨子の生前の行状を非難し、結びに「就眠前又動悸激しくなる。須磨子の祟りかもしれない」。彼女は中村屋サロンと呼ばれる芸術家たちが集まる場を提供し、須磨子もそこに集う一人でした。
二人の死後、芸術座は解散となり、芸術俱楽部は人手に渡り、アパートとなります。まさに事故物件のようなものですが、戦争で焼亡しました。
注2. 芸術倶楽部
注3. 多門院
注4. 一尺ほどの人魂 30cmぐらいの人魂
注5. 近所の女子ども 原文のまま。差別表現であり、現代では不適切な表現です。
●参考ブログ 「てくてく牛込神楽坂」
https://kagurazaka.yamamogura.com/sitemap-2/
●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会
同 『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会
拝