こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

◇       ◇       ◇       ◇       ◇

芸術倶楽部に須磨子の凄い幽霊

  大正8年1月29日 / 鹿児島新聞

 

 年をまたぎ、わずか二か月の間、抱月と須磨子が死んで劇界をして激しく驚かしただけでなく、世間の目もそばだたせた。
 須磨子の白骨にはまだ縊死の苦痛の呻きが残っているかと思われる。牛込の芸術倶楽部は一種の凄惨な空気の中に、謎の如く魔の如き空気がある。室内に大きな穴ができたと伝えられ、毎夜須磨子の幽霊が出て屋上を徘徊しており、その大穴から出るらしい。新しい芸術を生命とする芸術倶楽部において、その女王たる須磨子がいかにも古めかしき幽霊になって妄執の形相を現すとは、普通人の信じられない話であろう。縊死したときにテーブルを蹴った音が今なお午前四時くらいになると聞こえ、須磨子が「カチューシャ」を唄う声も聞こえてくる。多門院と芸術倶楽部から一尺ほどの人魂が現われ、俱楽部の屋上で合体して色が濃くなり、軒をグルグル廻っているのを見たという人もいて、近所の女子どもは身を震わしているという。

 

◇       ◇       ◇       ◇       ◇

 
 島村抱月は島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に生まれました。東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙らから学び、卒業後「早稲田文学」誌の記者を経て、読売新聞社会部主任となります。その後母校の文学部講師、1902年(明治35)から3年間、イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しています。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、自然主義文学運動の旗手の一人にもなります。1906年坪内逍遥とともに文芸協会を設立、やがて新劇運動をはじめます。1913年(大正2)、妻子ある抱月は松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となり、逍遥との関係が悪化し、文芸協会を辞めることになりました。同年、劇団・芸術座を結成し、翌1914年(大正3)にトルストイ原作、抱月が脚色した『復活』の舞台で須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』が大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献することとなります。その後ロシア公演にて大好評を博しました。これからという時に、病床に就き、回復できず亡くなりました。
 須磨子は激しい感情を持った女性だったらしく、訪ねてきた抱月の娘を追い返したりしています。抱月の死で虚脱状態になっていることが目撃されていますが、2か月後の月命日である5日に縊死したのです。当時、二階の奥に抱月と須磨子の部屋があり、道具部屋はすぐ横でした。大きな穴は須磨子が開けたのでしょうか、不明です。
 遺書で抱月の墓へ一緒に埋葬されることを望んでいた須磨子でしたが、抱月の妻が拒否、墓は長野市松代町清野の小林家墓所(本名が小林正子、生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓があります。芸術倶楽部から近いです(現代の草間弥生美術館の向かい側です)。
 こんな話があります。須磨子の自殺の音を身近で聞いたのが、演劇研究家の飯塚友一郎氏でした。当時、芸術倶楽部の隣に住んでいたそうです。本人の著作『腰越帖』に「中一日置いて五日の未明、私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段気にも止めず、又、ぐつすり寝込んで」・・「そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞い込んでくる。『物置で椅子卓子を踏台にして首を縊つたのだとさ。』と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した。」(「松井須磨子の臨終」)
 また、新宿中村屋の創始者、相馬黒光は須磨子の思い出を書いています。須磨子の生前の行状を非難し、結びに「就眠前又動悸激しくなる。須磨子の祟りかもしれない」。彼女は中村屋サロンと呼ばれる芸術家たちが集まる場を提供し、須磨子もそこに集う一人でした。
 二人の死後、芸術座は解散となり、芸術俱楽部は人手に渡り、アパートとなります。まさに事故物件のようなものですが、戦争で焼亡しました。
 
▲松井須磨子   ※Wikipediaよりお借りしました
 
注1.    抱月と須磨子  
1918年(大正7)11月5日、スペイン風邪に罹患し闘病中だった島村抱月は牛込にあった芸術倶楽部の居室で死去しました。享年47歳。2か月後の1月5日、看板女優で抱月と不倫関係にあった松井須磨子は、芸術倶楽部の道具部屋で後を追って首を吊ったのです。
注2.    芸術倶楽部  
島村抱月が近代演劇や文学、音楽、芸術の普及・発表・交流のために設立した芸術座の拠点として1915年(大正4)に建てられました。場所は神楽坂の横寺町、袖摺坂の先にありました。
注3.    多門院  
新宿区弁天町にある真言宗のお寺です。創建は不詳ですが、寛永の頃に牛込外濠近くから弁天町へ移ってきたといわれています。芸術倶楽部から1kmも離れていない場所になります。
注4.    一尺ほどの人魂  30cmぐらいの人魂
注5.    近所の女子ども  原文のまま。差別表現であり、現代では不適切な表現です。
 
▲島村抱月  ※Wikipediaよりお借りしました
 

 

●参考ブログ 「てくてく牛込神楽坂」
https://kagurazaka.yamamogura.com/sitemap-2/
 

●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

        同  『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会