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最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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不思議の境 鉄路の怪談二題

  明治45年6月10日 / 東京毎日新聞

 

 奥羽線赤岩トンネル近くの大沢鉄橋手前で四月十九日深夜、貨物列車がさしかかると行く手で赤い提灯をふる者がいる。機関士は故障か何かかと列車を停め、近づいて声をかけようとするが、二間ばかりの距離をおいて提灯は後ずさりする。変だなと思っていると、近くの山に入ってパッと消えてしまった。
 ロッキー山脈の麓で岩村透氏が実見した話がある。ニューヨークからサンフランシスコへの帰り道、最大急行列車に乗ってロッキー山の谷あいにさしかかった。この線路は世界屈指の難工事で、幾万の人命を殉じた箇所、列車の窓から大いなる風景を眺めていると、突如大鉄橋の真ん中で停止した。立ち騒ぐ人々を押しのけて前方に向かうと、三人の機関士が危険信号旗をふりながら「退去、退去」と叫んでいる。半身を乗り出し前方を見ると、十数間前に幾千の数えきれない土工の群れが鶴嘴やシャベルを高く頭上に掲げ、こちらを睨んでいる。不思議なのは人影がおぼろに見えたり、はっきり見えたりしており、しかも声ひとつたてていない。かくしてこの光景が十五分ぐらい続くが、主任機関士が大きく頷き、発車合図の汽笛を鳴らし、遮二無二列車を走らすと今までいた幾千の人々はたちまち消え失せた。後で話を聞くと、米国鉄道の難工事個所には時々このような怪異が現出するらしい。

 

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 1909年、「奥羽線赤岩信号所構内列車転覆事故」が起こります。明治42年6月のことでした。Wikipediaによると、赤岩信号所を発車した列車が急勾配の第13号隧道内において空転を頻発し、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し昏倒します。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたが後退し始めてしまいます。そのまま列車は赤岩信号所構内に侵入、脱線転覆しました。木造の客貨車は粉砕され、旅客は1人死亡、27人負傷。職員は3人死亡、3人が負傷する惨事となったのです。つまり、この怪異は事故より3年後に起きているのです。事故との関連はわかりませんが、怖い話です。
 
▲廃線のトンネル<本文とは関係ありません>  ※©フリー素材サイト「ぱくたそ」からお借りしました

 1863年に設立されたセントラル・パシフィック鉄道は、西海岸から東へ鉄道工事を進めました。建設は荒っぽく、周辺の山から切り出してきた木材を枕木に加工して並べ、その上にレールを固定するだけのものだったそうです。当時、南北戦争後で黒人解放が進んでおり、建設作業には黒人の代わりに中国人の苦力(クーリー)が多く雇用されていたようです。シエラネバダ山脈を越える経路は難工事で、まだダイナマイトは利用できなかったため、発破による路線の開削やトンネル工事は特に困難なものでした。
 ユニオン・パシフィック鉄道はオマハから西へ建設を進めていました。沿線はまだ先住民が多く住んでおり、白人の横暴に怒って襲撃することもあり、南北戦争の英雄であったシャーマン将軍が軍隊を率いて鎮圧にでることもありました。しかし広い原野、原住民の数が多かったことなどで根本的な解決はできず、鉄道の建設は血を見ながら進められることになったそうです。
 1877年の鉄道大ストライキと呼ばれた騒乱がウェストヴァージニア州マーティンズバーグで起きます。労働者は線路を封鎖し列車の運行を阻止したため、会社の要請で連邦軍が出動する事態となります。会社側は組合に加入していない労働者を使って列車を動かそうとしたため、組合員は投石を始め、これを阻止しようとして連邦軍が発砲、10人が死亡する騒ぎとなりました。ストライキは全国の鉄道にも広がり、各地で連邦軍と群集が衝突して多数の死傷者を出してしまいます。結果的にこのストライキは失敗に終わりましたが、こうした血なまぐさい時代だったことが、この話の背景にあります。犠牲や労使の対立が怪奇現象として現れたということですが、事実であれば驚きですね。
 
▲セントラル・パシフィック鉄道のトレッスル橋、1869年頃(イメージ:本文の橋ではないと思います)  ※Wikipediaよりお借りしました
 
注1.    奥羽線  
1894年(明治27)奥羽北線、青森~弘前間が開業 1899年(明治32)奥羽南線、福島~米沢間が開業 1905年(明治38)南北がつながり青森~福島間が全通しました。1909年(明治42)赤岩信号場で列車脱線転覆事故が発生。
注2.    アメリカ横断鉄道
1869年、最初の大陸横断鉄道が開通します。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道が、オマハからサクラメントまでの山岳路線を建設し、同年オークランドに到達しています。1882年、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が、アッチソンからデミングまでの路線を完成させ、東部とロサンゼルスとつなぐ第二の路線となりました。1883年、サザン・パシフィック鉄道が、ニューオーリンズとロサンゼルスとの間で開通、メキシコ湾岸から太平洋までつなぎます。同年、ノーザン・パシフィック鉄道が、シカゴとシアトルとを。1893年、グレート・ノーザン鉄道が、セントポールとシアトルの間を結びました。1909年、シカゴ・ミルウォーキー・セントポール・パシフィック・ロード(ミルウォーキーロード)が、シアトルまでの延伸を完成させ、1909年にサンフランシスコからトレドまでが繋がりました。これはウェスタン・パシフィック鉄道、デンバー・リオグランデ鉄道、ミズーリ・パシフィック鉄道、ウォーバッシュ鉄道からなる経路でした。
注3.    岩村透  
1870-1917 明治後期から大正期の日本の美術批評家。男爵。東京美術学校教授。怪談会にも参加するほどの好事家でした。1904年のセントルイス万博で美術部審査官を務めるなど、欧米での活動も盛んでした。記事は1912年のものなので、芸術の革新運動を取り組もうとしていた頃です。
 

●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

        同  『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会