こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

◇       ◇       ◇       ◇       ◇

下駄の音  小葩吟香

  大正2年8月5日 / 満州日日新聞

 

 近々怪談会を開く計画ですから、その前座としてこのようなものを書いてみます。四十二年の十二月に喜多村緑郎が道頓堀の朝日座に出て「無花果」を演じた時、ある夜天王寺の紅葉寺に京阪の文士書家および鏡花君、宗の芸妓等を招いて怪談会を開きました。私も物騒なお仲間入りをして語った中の一つです。世の中で事実の不思議ほど、不思議なものはありません。
 伊井蓉峰の家は、東京は根岸御隠殿の踏切りのそばにある。今からちょうど六年前のことだった。伊井が新富座に出勤していたころで、大阪朝日座の座付作者をしていた岩崎瞬花君が上京して伊井の家で次の狂言について、三四の文士も交じって相談を受けたことがあった。秋も半ばを過ぎ、その日は村雨の雲がむらむらと立ち迷う晩だった。上野の鐘に夜も更けて虫の声ばかり聞こえる一時過ぎ、鉄路線路を伝って日和下駄の音がかすかに聞こえてきたが、踏切あたりに来たらハタと聞こえなくなった。「今の下駄の音はまぎれてしまったね」と岩崎君がけげんそうな顔をしながら一座を見渡すがみなは不思議にも思っていないようだった。かくて二十分たったころ、再びカラコロカラコロと同じ下駄の音が南からしてきたが、又踏切りの前で止まった。「おや、どうしたんだろう。又踏切りまで来たぞ」とは下駄の主の声。一人でつぶやいている。「どうしたんだろう」と言ったのは小山内薫君、「なあに暗がりだから迷って同じ道に出たんだろうさ」と誰かが言う。しかし私は急に悪寒がして襟首から氷を入れられたようだった。ちょっと申し上げておくと、この御隠殿の踏切りで轢死した者は十数人あり、同じ場所であった。時計は二時二十分をさしている。わたしたちはロメロ、デュリエットの恋語りなどに談論の花が咲いていたので、いたずらに時が経っていたのを忘れていた。かくて四時近くなってみな床に就いた。わたしはなぜか神経が興奮して眠れない。あたりはシンとしているが、遠くの寺の鐘がボンと聞こえてくると、先ほどの下駄の音が聞こえてきた。はてなと思っていると、踏切りのところにきて「おや、又踏切りに来た」という若い男の声、下駄の音は遠ざかっていき、私はいつしか眠ってしまった、
 翌日、目を覚ますと伊井が、また轢死者があるという。門の外に出てみると、今まさに検視のすんだところで、手や足のちぎれた身体が線路の外に横たえてあった。その横に日和下駄が一足ころがっている。昨夜、何度も迷った男がこの轢死者なんだろう。それにしても、どうして道を迷ったのか、しかも死に場所が例の同じところである。世に言う死神とか死霊とかいうものがあって、手招きして誘ったのだろうか。今でもこの夜の下駄の音は、事実の不思議として伊井も伝えている。

 

◇       ◇       ◇       ◇       ◇

 
 御隠殿坂は谷中の霊園の中にあるので、なかなか訪れにくいかもしれません。まもなく1万円札の肖像になる渋沢栄一(および渋沢家)の立派なお墓の脇を抜け、鉄道線路の方へ向かうと坂があります。現在は架線橋になっていますが、この話のときは踏切りだけでした。明治から大正の頃、線路内に立ち入るのが現代よりも容易であり、安全策は弱かったので轢死は比較的多かったやもしれません(データまで手が回らずすみません)。
 喜多村緑郎は売れっ子の役者であり、怪談好きな人でした。知る人ぞ知る「田中河内介の最期」で人が亡くなった京橋画博堂の怪談会にも出ていました。伊井蓉峰家での出来事から15年ほど後の話になります。
 話はずれますが、日和下駄といえば永井荷風を思い出します。荷風といえば下駄ばき、コウモリ持参で都内を散歩した方です。『三田文学』に掲載された「日和下駄」は愛すべき散策記です。谷中もカラコロお散歩したかもしれません。

 

▲御隠殿坂 現代は跨線橋が架かっています  ※撮影 どこ山

 

▲旧踏切り ここで轢死事件があったそうです ※撮影 どこ山
 

注1.    小葩吟香 作家。詳細は調査中
注2.    喜多村緑郎  

1871~1961 新派を代表する女形 東京都生まれ(今の浜町) 1896年、高田実らと成美団を結成し、「瀧の白糸」が好評を博しました。その頃に大阪の朝日座と角座が中心だったのです。1917年ごろから新派の三党目と呼ばれるようになります(伊井蓉峰・河合武雄)。1955年、人間国宝。
注3.    「無花果」  

いちじく。中村春雨が東京専門学校(早大)在学中に書いた小説。その後、劇作家としても活躍したので、戯曲化した話です。
注4.    紅葉寺  

谷中の天王寺をさします。紅葉の名所でした。五重塔は幸田露伴の小説で有名でしたが、1957年心中放火事件で焼失し、今に至っています。

 

▲天王寺五十塔址  ※撮影 どこ山


注5.    朝日座  

大阪市中央区道頓堀1丁目4-23にありました。いわゆる道頓堀五座の一つです(弁天座・朝日座・角座・中座・竹本座)。1877年(明治10)新派中心に興行を行います。空襲で失われます。
注6.    伊井蓉峰  

1871~1932 新派の俳優として活躍しました。川上音二郎一座から独立し、成美団を結成しました。
注7.    御隠殿  

寛永寺別当である輪王寺宮の別邸でした。宮さまが息抜きしたい時に訪れていました。上野戦争で焼亡しています。寛永寺からこの邸に行くために坂道が作られ、途中鉄路を過ぎるのですが、踏切から跨線橋に代わっています。つまり、踏切はもうありません。
注8.    新富座  

1875年、守田座を改称して誕生しました。現在の中央区新富2丁目6-1にありました。関東大震災で被災後、再建されていません。
注9.    岩崎瞬花  

座付き作家。詳細はわかりません。
注10.    日和下駄  

晴天の日に履く葉の低い下駄です。
注11.    ロメオ、デュリエット  

ロミオとジュリエット
注12.    小山内薫  

1881~1928 劇作家、演出家であり“新劇の父”と呼ばれました。映画やラジオ劇などにもかかわり、多くの演劇人を育てました。1928年、食事中に急死、享年48歳でした。小山内薫にかかわる怪談もありますが、後日ご紹介します。

 

▲小山内薫   ※Wikipediaよりお借りしました

 

●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

        同  『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会