こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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浅草の象潟町に幽霊が出る

  大正5年9月28日 / 万朝報

 

 浅草区象潟町5の空き家に幽霊が出る。この噂は最近知れ渡るようになっていた。象潟署は馬鹿馬鹿しいとして打ち捨てていたが、付近に毎夜見物人が押し寄せ、25日の夜から午前三時までの人出ったらない。その数およそ千人、騒ぎがどんどん大きくなるので、同署も警官を派遣し雑踏を取り締まっているが収まらず、27日には数百人の群衆から雑踏を助成する行為者を呼び処分し、この家に以前住んでいた者を調べると、幽霊の正体はわからないが、噂の元はわかった。この空き家には先日まで宮戸座の会計主任成瀬謙次郎が住んでいたのである。
 お雇いばあさんの平原お光(50)は、この家に幽霊が出ると聞いていたので、毎朝お茶の出鼻を必ず仏壇に供え、念仏を唱えていた。ある日、主人は不在で婆さんは一人で銭勘定をしていたのだが、うつらうつらしてしまっていた。はっと我にかえって框のほうへそれとなく目をやると、怪しや白衣をまとった女の上半身が見え、きゃっと驚き、隣家に逃げ込んだのだった。謙次郎はそれから間もなく、公園第5区12号に移ってしまった。幽霊の噂はどんどん大きくなり、毎夜の人出となったのである。婆さんの見た幽霊は幻覚か、そうでなければ夢でも見たのだろう。

 

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 話の中心はお光婆さんの体験ですが、元々“出る”家であることが気になります。そこは触れていないわけです。また、婆さんが“幽霊除け”にお茶を上げていたのに効果がなかったことです。なにやら肩透かしを食らったような。ついでをいうと50歳で“婆さん扱い”も苦笑いせざるをえません。厚労省のデータでは大正時代の女性の平均寿命は46.5歳なので、無理もないということでしょうか。
   新聞記事に多く見られますが、怪異の噂で当時は野次馬がすぐ集まってしまいます。警察が出動し、原因はわからずじまいというのがパターンです。場所柄もあると思われます。すぐ近くには六区があり、1887年(明治20)の「常盤座」に始まり、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来ていました。江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が人気で、人出で道もいっぱいだった頃です。1890年(明治23)には凌雲閣(通称「浅草十二階」)が建設されていました。そのまま見物人が流れてきたのかもしれません。
 象潟町は現在の浅草三丁目~五丁目にあったので、浅草寺から見ると観音堂裏の外苑東通り(都道319号線)の向こう側になります。幽霊騒ぎで引っ越したのが公演第5区なので、通りの逆側に移ったわけです。

 

▲浅草十二階(凌雲閣)  ※Wikipediaよりお借りしました

 

注1.    象潟町  

この地に下屋敷をもっていた華族の六郷政鑑(ろくごうまさかね)の旧領であった本荘の名勝「象潟」からとられた町名です。出羽国本荘藩は鳥海山麓の西側にあった2万石の小藩でした。象潟は大きな入江で九十九島などの島々がある景勝地として古来より和歌に詠まれ、芭蕉も句を残しています。江戸時代後半には流入する土砂のために少しずつ干上がり、名産のシジミを採ることも困難になりました。決定的だったのは1804年(文化元)の象潟地震で地盤が隆起し、湖が消滅したそうです。六郷政鑑は11代藩主で、戊辰戦争では政府側に加担し、知藩事を経て東京へ移り、子爵となりました。
注2.    宮戸座  

1896年(明29)、歌舞伎上演の芝居小屋として開場、新派の公演もあったそうです。別名出世小屋、関東大震災で焼失しますが再建されました。映画やレヴュー、軽演劇などの新しい波に押され、1937年(昭12)に閉座しました。
注3.    出鼻  

番茶、煎茶に湯を注いだばかりの香味の良いお茶のこと。
注4.    框  

床の間や玄関などの建具の部分に「横」に入れる化粧板のこと。床の間でいうと、床と畳の段差にある横材のことです。
注5.    公園第5区  

浅草寺の本堂裏手の花屋敷や浅草寺病院などがあるエリアで、現在の浅草二丁目28~32番地の場所が該当します。

 

▲浅草六区の賑わい  ※Wikipediaよりお借りしました

 

●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

        同  『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会