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最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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祟られた蛇殿様

大正5年3月2日 / 鹿児島朝日新聞

 東京報土寺境内にある雷電為右衛門の墓で有名な赤坂台町に面白い評判がある。63番地には新男爵の大倉鶴彦翁の寵妾田中た愛が住んでいる。今では四十五六の姥桜で男爵のお出では稀になってしまった。上原参謀長の御邸は舅の故野津侯爵の旧邸、工学博士の妻木頼黄の家もある。3連隊の側に三分坂表町から上る薬研坂などと数えていくと63番地に「蛇の殿様」がいるのはいかにもはまった話である。昔々にありそうな話だが、大正の御代にあるのだから、町内の評判も高まるばかりである。主人公は赤坂台町62番地、楠田申八郎男爵である。先代で父の英世は佐賀の志士で、維新の戦争では仁和寺の宮様の副参謀で明治33年に男爵となった。旧幕の水野家の邸跡を購入したのだが、邸内に大きな池があり弁天様が祀られていたのを埋めてしまった。その夜、英世男の夢に弁天様が現われ「居所を奪われては困る」と言った。英世男はかえりみず、池の埋め立てを完了すると、その跡からやたらと蛇が出る出る。そのたびに片っ端から打ち殺してしまった。すると再び弁天様が現われ、「自分の使いを殺すとは残酷である。祀ってそのみ霊を慰めて呉れ」とのことだが、それも聞かなかった。
 明治39年11月、当主を申八郎が襲爵すると蛇の姿をちょくちょく見るようになった。じっとしていても袂の中からニョロニョロ出てきたり、襟から黒い舌が出たり、裾の裏に冷ややかなものが絡みついているような気がする。男爵は今から5年前にとうとう病気になってしまった。45歳の分別盛り、腕の振るい盛りというのに、看護婦がついて蛇の妄想に苦しめられて夢幻の生涯を送っている。じっと座っていることもできなくなり、家の中でも一本の杖を持って、目先にちらつく蛇を追い払っている。気になる袖は二の腕まで捲り、裾は尻までからげ、座敷の真ん中にうずくまってキョロキョロとあたりを見回している。朝夕のご飯も「何だこのメシは蛇臭くて食べられない」と言う。「どんな臭いがしますか」と尋ねると「青ぐさいような臭いがする」とのこと。箸の先がニョロニョロと踊りだしたり、米粒が蛇の目のように光ったりするのだから、たまらない。看護婦どもがうっかり襷の紐でもぶら下げておこうものなら、大変な騒ぎとなる。傍へ寄りつけなくなる狂乱を演じる。町内の評判は「弁天様の祟り」という決めつけになった。男爵は寝ても蛇の夢を見ていることであろう。
 

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 赤坂や麻布には狐狸や蛇、蝦蟇などの話が多くありました。これは蛇そのものというより弁天様を軽んじたために祟られる話ですが、蛇が活躍します。弁天様は宇賀神と習合した形で現されることありますが、宇賀神は人面蛇身の神であり、出自も謎です。楠田邸の弁天様は宇賀神だったかもしれません。

 現在は跡形もありませんが、赤坂小学校のそばで人通りはありました。坂は多いです。上がったほうには青山墓地もあります。帝国陸軍との関連も多く、伝説の多い地なので、知っていると歩いていて楽しいところです。 

 

▲旧赤坂台町62番地あたり 現在の赤坂7丁目  撮影:どこ山

 

注1.    報土寺  

浄土真宗大谷派の寺。1614年創建、1780年より現在の赤坂7丁目6-20にあります。
注2.    雷電為右衛門  

らいでん ためえもん 1767~1825 信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市大石)出身の力士。現役生活21年間で黒星が10個しかない強豪でした。勝率.962で大相撲史上最強の力士といわれています。当時の通例であったお抱え力士であり、松江藩(雲州)に使えていた。横綱にならなかったのは諸説あり、真相はわかっていません。Wikipediaによれば大関だった把瑠都の背格好と同じだったそうです。
注3.    赤坂台町  

家康の江戸入府以降、赤坂や麻布の開発がすすめられます。「町域に青山御掃除町家専福寺門前(北東部)、種徳寺ほかの寺地(東部)、小身の武家屋敷などが区別されるようになりました。1869年(明治2)、青山御掃除町を中心とする区域が合一されて赤坂掃除町となり、1872年(明治5)にその他の区域も加えられて赤坂台町と改称されました。丘続きで地勢が高いため「台町」と命名されたといわれています」(港区赤坂地区総合支所協働推進課「旧町名由来版」)1966年から赤坂7丁目になっています。青山通りの向こう側が赤坂御所、エリア内に高橋是清記念公園があります。
注4.    大倉鶴彦  

大倉喜八郎 1837~1928 新潟の新発田生まれで幕末から武器商人として財をなし、大倉財閥を築きあげます。偉人、死の商人と評価は分かれます。
注5.    田中た愛  

詳細不明。赤坂には7000坪の本邸もあったのですが、武家屋敷を買収したものなので、同様に買って愛妾を住まわせたものだろうと思います。
注6.    姥桜  

女盛りを過ぎても、なお美しさや色気が残っている女性のことをさします。現代はセクハラと言われるかもしれません。
注7.    上原参謀長  

上原勇作 1856~1933 陸軍元帥 都城出身で薩摩の軍閥の一人 日清・日露の両役にも参戦、フランス留学で学んだ工兵科の戦術も駆使しました。陸軍大臣、教育総監、参謀総長を歴任しました。これはいわゆる陸軍三長官であり、すべてに就任したのは上原と杉山元しかいません。1912年、西園寺内閣を総辞職に追い込んだ「二個師団増設問題」の当事者でもありました。妻は元帥陸軍大将野津道貫の娘で、上原は野津家の書生でもあったことが知られています。
注8.    野津侯爵  

野津道貫 1841~1908 元帥陸軍大将 鹿児島出身の陸軍軍人。上原勇作の岳父でもありました。鳥羽伏見の戦いより薩摩の兵として参戦、西南戦争ではかつての師である西郷隆盛と辛い戦いをくり広げたことがあります。日清戦争では第1軍、日露戦争では第4軍を率いています。
注9.    妻木頼黄  

つまき よりなか 日本の建築家で、明治建築界の三大巨匠の一人とよばれる。大蔵省営繕の総元締めとして権力を持っていた官僚でもありました。生家は幕府の旗本で、工部大学校(のちの東京大学建築学科)に入学、後コーネル大学建築学科に留学、帰国後数多くの官庁建築を手がけます。日本橋(装飾担当:重要文化財)などが現存しています。

 

▲妻木頼黄  ※Wikipediaよりお借りしました


注10.    3連隊  

ここでは近衛歩兵第三連隊をさします。現在の赤坂5丁目、TBSがある場所にありました。赤坂7丁目と隣り合わせです。歩兵第3連隊と混同されがちですが、そちらは現在の国立新美術館(旧龍土町)の場所にありました。
注11.    三分坂表町  

赤坂5丁目と7丁目の間にあるのが三分坂です。TBSの裏手です。急坂なので車力賃が銀三分増しだったという逸話が残ります。
注12.    薬研坂  

薬を砕き粉末にする薬研に似た地形からついた名前と言われています。赤坂4丁目と7丁目の間にある坂です。
注13.    楠田申八郎男爵  

楠田英世の長男。英世の死後、家督を継いで男爵となりますが、子どもがなく保科家から養子をとっています。
注14.    楠田英世  

1831~1906 佐賀藩士 会津戦争で仁和寺宮嘉彰親王の副参謀になります。明治2年から新潟県知事を務め、明法権頭、司法大丞、司法大検事を兼任し、江藤新平らとともに旧民法の編纂に従事しました。
注15.    仁和寺の宮様  

小松宮彰仁親王 1846~1903 仁和寺門跡でしたが還俗し、仁和寺宮嘉彰親王として戊辰戦争の指揮を執りました。近衛師団長、参謀総長を経て日清戦争では征清大総督に任命されています。上野公園に騎馬像があります。

 

▲小松宮彰仁親王  ※Wikipediaよりお借りしました


注16.    弁天様  

仏教の守護神である天部の一つです。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名です。サラスヴァティーは川の名前でしたが、水の神となります。財や音楽の神でもあり、戦闘の神の性格もあり、近世になって七福神のメンバーになっています。蛇を使いとし、宇賀神と習合したかたちもあります。狛犬の代わりにとぐろを巻いた蛇が守護する神社もあります。
注17.    袂  

たもと 和服のそでの下の袋状の所。用例「-を分かつ」

注18.  襲爵  

爵位を継承すること
注19.    看護婦  

女性の看護師のこと。2001年(平成13年)の保助看法改正時で、「看護婦」や「看護士」が全て「看護師」に統一されました。 
注19.    尻までからげ  

着物の後ろの裾をまくり上げて、その端を帯などに挟むこと。尻ぱっしょりとも言います。
 

●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会

        同  『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会