こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

◇       ◇       ◇       ◇       ◇

役者の怪談 ~ 瓢箪が祟った澤村源之助

明治42年9月3日 / 都新聞

 澤村源之助が経験した怪異。
 宮戸座で女形として活躍する源之助が若い頃の話。贔屓客に連れられて神奈川神風楼に出かけた。酒席も盛り上がり、贔屓客が『柳々』をリクエストした。二番の「瓢箪」に合わせて瓢箪の振り真似をするのだが、演奏している芸妓が顔色変えて瓢箪と歌わない。変だなと思いながら宴会も終わり、帰る段になった。はしごを降りようと歩み出した源之助だったが、踏み外して落っこち、生爪をはがし、血が随分と出た。
 別の日。ある客が花魁を身請けする話がまとまり、花魁とさしつさされつしていた。ビールをコップに注ぎ、花魁に差し出すと、花魁は驚いた様子でそのコップをはねのけた。壁にあたったコップは砕け、その破片が客の鼻にあたり、そいでたいそう出血した。よくよくわけを聞くと、客の羽織の裏地に瓢箪が染め付けてあったからだという。
 神風楼の先代の時、ある花魁を瓢箪攻めしたことがあり、その祟りがあるという。瓢箪攻めとは腹部を太い縄などできつく縛って吊るしたりするものであり、死ぬ確率が低く、傷もつかないので、多用された拷問法である。この花魁の恨みゆえ、瓢箪の言葉を使うと怪異があるのだという。

 

◇       ◇       ◇       ◇       ◇

 

怨霊の話ですが、妓楼の主人を恨むのが本当であって、瓢箪云々は何の因果かよくわからりません。江戸から明治、大正はこうした怪異が多いのですが、講談や落語、さかのぼれば中国故事の影響によるのでしょう。何かもっと深い呪詛でもあればべつですが。
 
横浜遊郭は明治21年開設なので、源之助は30歳になったころ登楼したのでしょう。明治になってもまだまだ折檻は行われていたことになります。花魁は“人権ゼロ”の時代は扱いが悲惨であり、人間扱いされてはいませんでした。反抗すれば折檻され、時には殺されます。売れっ子でなければ、いついなくなっても困らないわけです。時代にもよりますが、吉原の平均年齢は23歳だったという話もあるぐらい、遊女は長生きできませんでした。
 
▲四代目澤村源之助 切られお富 Wikipediaよりお借りしました

 

注1.    四代目澤村源之助(1859-1936) 

屋号は紀伊国屋。しゃがれ声と錦絵のような容貌を特徴に、江戸の最後の女形として尊敬を集めたそうです。記事には四代目という記述はありませんが、三代目と五代目は時代が合いません。
注2.    宮戸座

歌舞伎芝居を上演していた常設の芝居小屋。浅草寺の北側にありました。明治29年9月に開業され、新派の俳優で興行したこともあり、ほとんどの俳優が宮戸座の舞台をふんでいるといわれるほど、多くの俳優が巣立っていったといいます。それにちなんで、別名、出世小屋ともいわれていたとか。宮戸座跡之碑があります。
注3.    神風楼

横浜遊郭にあった店。南区永楽町1丁目にありました。絵葉書が多数のこっています。横浜遊郭は明治21年より真金町と永楽町にて営業を開始、二つの町名から永真遊郭ともよばれました。故桂歌丸さんは真金町の「富士楼」で生まれたのはご本人も語っていました。
注4.    柳々 

江戸端唄の一つ。上方発祥で、「日増しに惚れてついぐちになる 昼寝の床の憂き思い どうした拍子の瓢箪で あた腹の立つ 好きじゃえ」という歌詞があります。
注5.    身請け 

遊女などの身の代金や前借金などを代わって払い、その勤めから身を引かせることです。落籍。
注6.    瓢箪攻め

顔などに傷は残りませんが、腹部をきつく縛るため、内臓の損傷などにより死ぬこともあったとする説もあります。吉原のような遊郭でも足抜け(逃亡)しようとした遊女に責め苦を負わせる際、使われた拷問法の一つです。「瓢箪責め」のほうが適宜と思われます。
 

●参考文献 湯本豪一編『明治期怪異妖怪記事資料集成』2009年・国書刊行会