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最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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怪談 七代の祟り

大正3年3月24日 / 朝鮮新聞

 

 過日、その訃報が伝えられた式守伊之助に関する怪聞にて、その起こりは明治の初年、六代目式守伊之助の弟子で幕下力士の榊山梅五郎というものあり。重い脚気にかかったのだが、師匠伊之助はむごく当たり無念に思う榊山は、草木も眠る丑三つ時にままならぬ体をよろめきながら百本杭まで辿り着き、この恨みを長きこと式守家七代に祟ってみせると歯噛みして入水した。その後、兄弟弟子の猪王山というも同じような事情で同じく師匠に恨みを抱いて、竪川にて野垂れ死にした。一人の老婆も伊之助の虐待に耐えられず、隅田川に身を投げた。

 以来、六代目より七、八、九の四代続けて(現役のまま)命を落としている。十代目になった庄三郎はこのことを心苦しく思い、川施餓鬼を営んで怨霊を慰めんと一昨年五月に隅田川で盛大に執行した。同時に代々の伊之助につきまとう前記の三者の位牌を伊勢ノ海の菩提寺の深川萬徳院に納めた。彼はわずか一場所で木村庄之助を襲名したので、木村進が継いだのだが、またも怪しや病気に罹ったので仲間の行司が心配して庄之助に相談した。そういうわけなら自分が発起人となって来る五月場所前に大供養をなさんと庄之助は伊之助の同意を取り、三者の石碑を回向院に建設しようと計画していたのだが、伊之助の病状は悪化し、死に至った。返すがえすも悔しいことである。ちなみに十二代目の伊之助は木村誠道が継いだ。

 

▲五代目伊勢ノ海だった柏戸利助(大関)萬徳院に眠る  ※Wikipediaからお借りしました

 

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 この話は何が祟りか、がポイントではないでしょうか。行司が現役のまま死ぬことは残念なことですが、戦前においては珍しいことではないようです。また定年制がなかった頃は70歳近くで現役死しているケースもあります。その点はどうとらえればよいか。怨みの種をまいた六代目は現役中に亡くなっていますが、66歳まで生きました。怨みは「成就」したと言えるのでしょうか。
 後日譚も含みますが、十代と十二代を除けば十五代まで九人の伊之助が現役死でした。“七代”ならぬ“九代”に祟ったわけです。十代伊之助も木村庄之助を襲った後、行司差し違いで引退する意志を固めます。慰留する声の多い中、土俵を去ることになりました。3年後病没、享年64歳。怨霊3者のためにいろいろお祀りした彼ですが、長生きしたとは言えません。寿命が70歳を超えたのは十二代(78歳)だけです。
 現在、式守伊之助は41代目を数えます。40代がセクハラ等で辞めざるを得ない事件を起こしてますが、祟られているような最期はないようです。祟りというには偶然性が高いですが、一応怨霊話ではあるようです。

 

注1.    式守伊之助  大相撲の立行司の名前。行司としては木村庄之助に次ぐ二番目の地位です。この名跡は代々三役格から立行司に昇格する行司が襲名し、軍配に紫白の房、装束に紫白の菊綴じを着用し、庄之助同様に軍配を差し違えた際に切腹する覚悟を意味する短刀を左腰に帯刀しています。初代は18世紀後半に活躍し、以来41代目まで数えます。
注2.    六代目伊之助  1814~1880年/仙台生まれ/伊之助在位28年、53場所は史上最多の記録。明治10年(1877年)1月から首席(木村庄之助の上位)に就いた。
注3.    脚気  ビタミン欠乏症の1つであり、重度で慢性的なビタミンB1(チアミン)の欠乏により、心不全と末梢神経障害をきたす疾患です。白米中心の食生活、アルコール依存、人工透析、慢性的な下痢、利尿剤の多量投与などが原因となります。
注4.    百本杭  岸に近い水中に数多く立て並べてある波よけの杭。また、その場所。隅田川に架かる東武鉄橋あたりに多くにあったものが知られています。隅田川テラスにモニュメントがあります。
注5.    竪川  墨田区及び江東区を流れる人工河川。江戸城に向かって縦(東西)に流れることからこの名称となったそうです。
注6.    川施餓鬼  施餓鬼(せがき)とは、餓鬼道(がきどう)にあって飢えと渇きに苦しむ餓鬼に飲食を施し、仏に供養することによって餓鬼を救済し、自身も長寿することを願う仏事をいい、特に川辺で死者の霊を弔う施餓鬼を川施餓鬼という。ここでは怨霊を鎮めることを目的とした供養と思われる。
注7.    木村庄之助  大相撲の立行司の名前。行司の最高位で、およそ9年間襲名者が不在であったが、2024年1月場所より41代式守伊之助が38代目を襲名した。軍配に紫の房、装束である直垂に紫の菊綴じ、伊之助と同様で帯刀しています。18世紀初頭から四代目の実在が確認されており、初代から三代目は不詳です。
注8.    伊勢ノ海  初代は江戸中期の力士。三代目以降は柏戸を名乗ることが続いた。初代から九代までが萬徳院に眠っている。
注9.    深川萬徳院  高野山真言宗の萬徳院は、瑠璃光山萬徳院と号し、寛永6年(1629)八丁堀材木町に創建、その深川に移転しました。伊勢ノ海墓、佐渡ケ嶽墓や六代目式守伊之助墓など相撲関係者の墓が多く、相撲寺とも呼ばれています。
注10.    回向院  ここでは両国の回向院をさすと思われます。江戸時代、明暦の大火で亡くなった無縁仏を祀る「万人塚」を供養することが回向院の始まりでした。以来、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として回向を続けているお寺です。小塚原の回向院は別院だったが、現在は独立して別の寺院です。

 

[現役死した伊之助]
 六代 1814~1880/在位28年/66歳没(長寿?)
 七代 生年不明~1883/在位7か月
 八代 1843~1897/在位13年/54歳没
 九代   1854~1910/在位12年/56歳没
十一代   1860~1914/京都相撲出身/在位1年10か月/55歳没
十三代 1869~1932/在位4年/64歳没/十九代庄之助を襲名
十四代 1870~1925/襲名後すぐ死去、実質の在位なし/55歳没
十五代 1876~1940/在位6年/63歳没/二十代庄之助を襲名

 

◆注はどこ山が調べたものです

 

●参考文献 湯本豪一編『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会