こんにちは

 

最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。

 

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川上銅像の怪談

大正2年1月12日 / 函館毎日新聞

 

 新俳優高田實は藤澤浅二郎ら一派の発起によって東京芝高輪泉岳寺に建設される筈であった高さ八尺の故川上音二郎の銅像は昨年六月以来東京下谷区谷中三崎町の彫塑家山田泰雲氏の手によりて製作されおり極月二十九日をもって原形の竣成を見る予定であったところ、前日二十八日夜山田氏のアトリエより出火し、全焼するとともに備えつけてあった貴重な各種の参考品は悉く灰燼に帰した。氏が数か月の間苦心努力したかの銅像の原形も取り出すことなく、魔舌のごとき猛火になめられ惨憺たる一塊の焦土と化してしまった。氏はまるで狂人がごとき態であったが、やがてこのことを報ずべく、高田實の寓居を訪ねたが、あいにく高田は大阪角座の興行に出発した後で、誰にもこの変事を通知すべくもなかった。ただ、この銅像消失と同時刻に京城にて興行しつつあった川上貞奴は、どうしたわけか舞台において卒倒し人事不省に陥ったので、一種不可思議な因縁話をつくったといえる。
 上阪中の高田實は(それを聞いて)「川上の銅像については従来も怪談話がありますよ。今度焼失したのもそうだが、以前につくった床置きの小さな銅像の折にも妙なことがあった。製作者の名前は憶えていないのだが、その原形ができて鑑査することになり、藤澤とでアトリエに行ったときに不思議なことに銅像の首がコロリと落ちた。今回の椿事も照らし合わせて考えてみると、銅像の製作は故人の意に反しているのかもしれぬ。実際御幣を担ぐようだが、今回の焼失といい、貞奴の卒倒といい、実に妙ではありませんか」と語った。

 

▲谷中霊園に残る碑 戦前は銅像がありました

Wikipediaからお借りしました

 

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 川上音二郎が自分が銅像になることを嫌ったかどうかはわからりませんが、川上と縁が深い福沢諭吉はいやがっていたという話があります。生前に関係者がつくったものは不快の種だったようでしまわれたままだったそうです。逝去された後はいろいろ像がつくられるわ、肖像が紙幣になるわ、ひょっとすると苦笑いされているかもしれません。

 貞奴は渡欧中、ロダンからモデルにしたいという申し出があったのを断った話があります。ピカソからも評価されていたようですし、もし受けていたらと考えると残念です。

 

注1.   新俳優高田實  ここでは「新俳優」とは新派の俳優を指していると思われます。
注2. 高田實    1871~1916 新派俳優 千住生まれ 川上音二郎一座に入門し、初舞台。1896年(明治29)には活動の場を大阪に移し、喜多村緑郎らと共に「成美団」を結成します。「角座」や「朝日座」等関西における新派を生み出しました。
注3. 藤澤浅二郎    1866~1917 日本の俳優、劇作家、ジャーナリストです。京都市大黒町の生まれ 新聞記者となり、川上音二郎一座に参加、副将になります。明治末から吉沢商店、日活向島撮影所の映画に出演しました。
注4. 泉岳寺と音二郎    音二郎は福沢諭吉と出会い、慶應義塾で働いていたころ、近くの泉岳寺の四十七士の墓が荒れていることに心を痛め、後に大改修の費用を出したと伝わります。音二郎の死後、彼の銅像を建てる計画もありましたが、反対の声が出て実現できず、谷中天王寺に建立されました(戦中、金属供出のため現存せず)。
注5.    八尺  約2m42cm。
注6.    下谷区谷中三崎町  台東区「旧町名由来案内」から引用します。
「旧 谷中三崎町」「三崎」のいわれは諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向かっていることから名付けられたとする説が一般的である。本町は、元禄年間(1688~1704)のころすでに谷中村からわかれ町屋を形成していた。その後、明治4年(1871)に南北二町にわかれ、谷中三崎町南側および谷中三崎町北側となった。しかし、同六年には付近の大円寺をはじめとする六カ寺を合併するとともに南北二町は再び一つになり、もとの一町にもどった。本町の中心を東西に通る坂が三崎坂。谷中には、由緒ある寺院が数多くあるが、この三崎坂の途中に大円寺がある。
注7. 山田泰雲  彫刻家ですが、詳細は不明。
注8. 極月  陰暦の12月のこと。きわまりづき、1年の最後であることから。
注9. 大阪角座  かつて大阪市中央区の道頓堀にあった劇場、演芸場、映画館。江戸時代は「角の芝居」とも呼ばれた芝居小屋で、浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋を「五つ櫓」(いつつやぐら)と呼びました。宝暦8年(1758)、歌舞伎の舞台に不可欠である廻り舞台が初めて採用されたのも角座でした。大正9年(1920)松竹の経営に移りましたが、戦災で焼失しました。
注10. 川上貞奴  1871~1946 日本橋芳町の芸妓を経て、自由民権運動家の川上音二郎と結婚、一座の一員として欧米を巡り好評を得ます。音二郎の死後、一座をまとめて興行を続けます。引退後は福沢諭吉の娘婿福沢桃介と浮名を流し、二人で名古屋に住みました。NHK大河ドラマ『春の波濤』は貞奴を描いた作品です(演じたのは松坂慶子)。
注11. 御幣を担ぐ  つまらない縁起や迷信を気に掛けること。御幣で不吉なものを祓うところから。御幣(ごへい)は神祭用具の一つで、紙または布を細く切り、木に挟んで垂らしたものです。
 

◆注はどこ山が調べたものです

 

●参考文献 湯本豪一編『大正期怪異妖怪記事資料集成』2014年・国書刊行会