こんにちは

 

京橋にあるアーティゾン美術館で開催中の『ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎』を見学させていただきました。

 

アーティゾン美術館はかつてのブリヂストン美術館です。ブリヂストンの創業者である実業家石橋正二郎が収集した美術品を展示するため、1952年に本社ビル内に開館した美術館でした。2015年5月からビルの建替えに伴ない長期休館、館名をアーティゾン美術館に変更し、2020年1月にオープンしました。従来の西洋美術、日本近代絵画に加えて、再開後は古美術品や現代美術なども幅広く収蔵・展示する施設となりました。ARTIZONはART(美術)とHORIZON(地平)を合わせた造語だそうです。

 

日本の洋画家はいわゆる画壇から認められず、死後に才能を評価される人が少なくないのですが、青木繁はその一人です。28歳という若さで夭折した彼の代表作二点がアーティゾン美術館に収蔵されています。その二つの作品の紹介から始めましょう。

 

『海の幸』1904・油彩・カンヴァス  重文指定 1967年

 

『わだつみのいろこの宮』1907・油彩・カンヴァス  重文指定 1969年

 

おそらく、教科書などでご覧になったことがありましょう。少しひいた写真にしましたが、ぜひ会場でご覧ください(会場では間近で拝することができます)。「海の幸」は想像で描かれたものでありながら、生きることや働くことのエネルギーを感じられます。「わだつみは~」は『古事記』に出てくる山幸彦と豊玉姫の出会いのシーンであり、洋画の影響を受けていますが見事に調和されています。

 

両作品は重要文化財になっておりますが、発表時は評価がわかれました。青木繁は1911年に他界しており、高い評価をえられたことは承知していません。彼が認められるのは、坂本繁二郎と友人たちの活動が大きく寄与したそうです。遺作の展示はもちろん、画集の刊行にもこぎつけています。

 

二人は同じ年(1882)に生まれ、故郷も久留米、小学校の同級生でした。この展示会“ふたつの旅”は、スタート時期・地点が同じ二人が、いかに歩み生きたのかということを意味します。青木の旅は長くはなかったかもしれませんが、強く輝くものでした。坂本は長い時の中でじんわりと、そして自分の目指すものを追い求めた人生でした。

 

坂本繁二郎は「神童」といわれるほど絵が達者で、地元で研鑽していました。『立石谷』は15歳の時に描かれたものです。その才能に驚くばかりです。

 

『立石谷』』1897・絹本墨画 久留米市美術館 
 

この滝は鳥栖市にある「御手洗(おちょうず)の滝」で、現在も名瀑として知られています。この頃は繁の絵を描く技術は高くなく、東京で腕を磨くことになります。その修練の結果、帰郷した繁の絵を見た繁二郎は己も東京へ出ることを決心します。

 

時はうつり、繁二郎は1921年にフランスに留学、絵を学びながら自然を愛しました。印象派の高揚を経て、フォービズムやキュビズムの時代にならんとしていた頃です。どことなく、繁二郎の描く空や雲はセザンヌを思い起こさせます。そんなことを思うのはわたしだけでしょうか。

 

大正末期には故郷に戻り、八女に居を構えます。戦後、繁二郎は洋画家の重鎮となりますが、独自の境地に至ろうと絵を描き続けます。馬や牛の姿、栗・柿などの静物、様々な能面、地元の空と雲、そして何とも言えない月の絵が残されています。

 

展示スペース

 

そして忘れてならないのは石橋財団が二人の作品をたくさん収蔵していることです。事業で成功した石橋正二郎は久留米の生まれ、高等小学校で繁二郎に絵を習っていた縁があり、繁二郎から繁の作品の散逸を防ぐため、購入を依頼されます。これがきっかけで近代洋画の収集をはじめ、美術館創設につながりました。現在は、久留米市にも石橋美術館があります。

 

石橋正二郎氏 アーティゾン美術館ホームページからお借りしました

 

ふたつの旅は京橋をゴールとし、そこで月光の如く輝いています。石橋正二郎の旅をあわせれば、三位一体の旅とでもいいましょうか。

 

◆『ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎』アーティゾン美術館

~10/16(日) ☆学生の方、無料です☆

 

展示替えもあります。“銀ブラ”もできます。ぜひ、足をお運びください。