こんにちは

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が話題ですね。盛り上がる鎌倉の関係者には申し訳ありませんが、個人的には“ぶっそうな歴史”を思い起こす街でもあります。

 

鎌倉にできた「大河ドラマ館」のポスターをお借りしました。行ってみたいですね。

 

 先に申し上げておくことは、鎌倉は古都であり文化の香りも高いすばらしい街、おいしいものも沢山あります。成瀬巳喜男監督の『山の音』(川端康成)では一昔前の鎌倉が出てきますが、何とも言えない味わいのある街です。以下にはひとつの側面史を綴りますが、訪れるにはすばらしい地であることは間違いありません(私もよく行きます)。多くの方々もお住まいですので、その点だけは強調させてください。

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と言いながら(すみません)、鎌倉は多くの血が流された地でもあります。大河ドラマが話題の今、その歴史をふりかえってみました。

 

 最初に注目したいのは小坪地区の歴史です。鎌倉と逗子の中間に位置する小坪一帯は、残念ながら“いわく”が多すぎ。古くは「古東海道」が通っていたとされる場所で、古くはヤマトタケルが通ったという逸話もあります。今よりも急峻で崖際から落ちて亡くなった人もいたのだとか。

 

昭和40年代の小坪の崖  逗子市「逗子フォト」(撮影:野村昇司氏)よりお借りしました

 

・・・律令時代、畿内から常陸国に至る古東海道が開かれ、鎌倉から姥子台を越えて小坪に入り、さらに披露山を越えて現在の逗子市中心部を通り、三浦半島を横断して横須賀市の走水から海路で房総半島に渡ったものと考えられている。ただし、律令時代の官道は後の街道より広く直線的に建設されたと考えられており、旧小坪路と称される、現在も所々に残る細く曲がりくねった山道が古東海道の一部であったかどうかは異論が残る。・・・Wikipedia

1180年、源頼朝は蜂起するも石橋山で敗れ、安房に落ちのびます。加勢しようと向かっていた三浦一族は間に合わず、小坪で平家方の畠山重忠勢と遭遇、結果的に戦闘となります。今の小坪海岸トンネルの辺りに陣取ったと思われる三浦勢、由比ガ浜に集結した畠山方、衝突しますが双方ともに損害を出し兵をいったん退きました。その後、河越氏などの加勢を得た畠山勢は三浦氏の本拠地である衣笠城(横須賀市)を攻め落とすことになります。城を落ちのびた和田義盛たちは頼朝と合流します。

 

小坪は鎌倉にとっては「南」にあたるそうです。現代の感覚では「えっ、南」と思いますが、陰陽道における厄除け・疫病退散の儀式の一つである「四角四境祭」では東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山ノ内で行われていて、小坪は鎌倉の南境でした。1224年、北条泰時が疫病が流行ったので行ったという記録があります。小坪は境界のひとつなのです。

 

小坪には地蔵が二体あるそうです。難所で遭難した人や合戦で亡くなった兵を慰撫するものではないかと言われています。鎌倉側は光明寺大殿脇の祠の中に。逗子側は子育地蔵(石造地蔵菩薩立像)で現在 バス停「小坪」の前の地蔵堂の中に安置されているそうです。

 

小坪は有名な心霊スポットでもあります。小坪トンネルの怪異は有名ですが、「小坪隧道」は1カ所ではありません。県道311号線にあるのが「名越隧道」「新名越隧道」の2本になりますが、小坪トンネルとも呼ばれます。ここは鎌倉七口のひとつ、名越切通があります。江戸時代にいたるまで整備が必要な道だったらしく、がけ崩れの起きるところでもあります。海岸よりに「小坪海岸トンネル」「飯倉隧道」文字通りの「小坪隧道」の3本があります。エリアが小坪なので、どうも呼称が明確に分けられていないようです。ちなみに「小坪隧道」には「隧道工事殉難者慰霊碑」があるので、そういう歴史もあるのでしょう。

 

名越切通 Wikipediaよりお借りしました

 

名越隧道の上には民間会社の火葬場があり、隣接する場所には「まんだら堂やぐら群」があります。やぐら群は一度拝見させていただきましたが、想像以上の規模で150以上あり、見ることができるものは一部だけなんだとか。記録も古いものはなく、「まんだら堂」という名前の建物があったかどうかも定かでありません。火葬のための場所や斬首されたと思われる頭蓋骨なども出ていることから、使途も様々であったことが想像出来ます。現在は逗子市が管理しており、年に何回か公開はされますが、普段は立入禁止です。なぜトンネルの上に火葬場があるのかと思っていましたが、歴史的にもそういった火葬にふさわしい場所だったので、継続して設けられているのかもしれません。

 

時代は下って、1205年畠山重忠の乱において、謀殺の首謀者とされた榛谷重朝親子が経師谷の邸で自害しています。経師谷は名越隧道の先にある長勝寺、材木座霊園あたりと推定されています。1293年には、経師谷の邸で平頼綱が北条貞時の軍勢に攻められ自害しています。いわゆる平禅門の乱です。

 

1512年、相模平定を目指す北条早雲は三浦道寸と戦火を交えます。小坪にあった住吉城は要害であり、激しい戦いが繰り広げられ、早雲が奪取しました。現在は城址に住吉神社があります。近くの海前寺には首塚がありますが、この戦いで討死した武将を葬った場所と考えられ、やぐらからは頭蓋骨や鎧片などが出土していることから、「お首さま」と呼ばれているようです。早雲は鎌倉も手中におさめ、玉縄城を構築しました。

 

終戦直後の1945年10月20日、西小坪砲台に残されていた弾薬の爆発事故があり、壕内にいた子供14名が死亡、23名が負傷するという惨事が起きました。その後事故現場近くには慰霊の地蔵尊が据えられていましたが、砲台跡は埋められ地蔵尊は移動したようです。

 

小坪砲台の入口と慰霊碑  逗子市「逗子フォト」(撮影:野村昇司氏)よりお借りしました
現在は埋められ、碑も移設され、近づくこともできないようです
 

1972年4月、小坪の海に広がる逗子マリーナ本館417号室で川端康成が亡くなりました。ガス自殺と言われています。遺書もなく、突然の死でした。作家・工藤美代子の著書『もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら』(メディアファクトリー)の中に秀子夫人の話が載っています。「(川端は)かの子さんに連れていかれた」かの子とは岡本かの子のことです。また、割腹自殺した三島由紀夫も訪ねてきたそうです。「お気の毒な」姿だったそうです。自殺する少し前に川端は「さっき三島君が来てね」などと言っていたそうです。川端の死と関係があるかはわかりませんが、川端の脳内に「死」が大きく入り込んでいた時期だったのかもしれません。

 

 川端康成氏

 

多くの事績をあげましたが、連綿と続く負の連鎖といったものではないです。多くの血がながれていますが、呪われた土地だからというものではなさそうです。それだけは明白だと思います。