もしも横縞になっていたら〜清原和博阪神入団〜(会長記) | 堂島猛虎会のブログ

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タイガースファンの3人が綴る、猛虎愛ゆえの強く厳しい評論を発信していくブログです。

 

 

ご好評の「もしも・・・だったらシリーズ」(2回目だが)

 

暇で暇でどうしようもない時(あまりないが)ふと妄想することがある。

 

1997年。

提示された3倍もの金額に素直に清原がうなずいていたら・・・

果たしてどうなっていただろうか。

 

もしも1997年、

清原和博が阪神に入団していたら

 

いざ。

 

 

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まずタイトルの元ネタは言うまでもなくFA宣言した清原和博への口説き文句として吉田“よっさん”義男が発した決め台詞「(伝統である)縦縞(のユニフォーム)を横縞に変えてでも君が欲しい」からである。

 

1985年の虎フィーバーを巻き起こし2度目の就任で優勝・日本一監督となった吉田監督だが退任から10年の時を経て藤田平の監督退任を受ける格好で3度目の監督となっていた。

 

1996年は前年最下位から脱出を図る藤田平監督2期目のシーズン。

ヘッドコーチは後半代行監督となる柴田猛

時代はまさに暗黒時代真っ盛り。

 

開幕オーダー。

 

 

新庄剛志6年目のシーズン。

 

開幕は1番で迎える。

松永浩美に続き「無かった事にしたいFA」の石嶺が4番でスタートするも前年(打率.240 9本塁打)よりもさらに成績を落とし26試合で打率.161に低迷しこの年で引退。

 

開幕前に同じオリックスから獲得した平塚がレギュラーとなり4番の座には桧山が座る。

グレンとスコット・クールボーの両外国人は6月に早々と解雇。

 

「THE★暗黒」

 

結局4月開幕から10月まで最下位をキープし、54勝76敗で首位読売に23ゲームもの大差をつけられてのどん尻ゴール。

まさしく...

 

「THE★暗黒」

 

投手陣は川尻13勝、藪11勝が両輪。湯舟が5勝で既定投球回数に達したのはこの3人のみ。

 

打撃陣は新庄がこの年19本塁打を放つ。桧山が22本塁打を打つもこの二人で合計214三振。

他には二遊間を和田豊、久慈照嘉が守り規定打席到達はわずかにこの4名だけ。

 

チーム防御率は4.12、チーム打率は.245

 

「THE★暗黒」

 

シーズン終了で石嶺和彦、中西清起、木戸克彦が引退。

 

そんな1996年。

 

払拭すべく投げられたサイコロが示した目は

 

「吉田義男3回目の監督就任」

 

この年新外国人に迎えたのは「あの」マイク・グリーンウェル。

神のお告げで帰国してしまったメジャリーガー。

「ミスター・レッドソックス」とまで言われた男が高年俸がために契約できずNPBにやってきたのだ。

当時のレートで3億3千万と言われ球団史上最高額での契約は思えば「清原和博獲得予算」を使ってのことだった。

 

この年ドラフトでの新入団は

1位:今岡誠、2位が関本健太郎、3位が濱中治であった。

 

1997年開幕オーダー

 

 

前年の200三振コンビが3・4番。結局この年このコンビは270三振をマークする。

(新庄120、桧山150)

しかし平塚と3人で二桁本塁打に到達するなど新庄もこの年久しぶりに20ホームランする。桧山23本、平塚17本。

 

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さて今回の記事では、

 

「もしもこの球団に清原和博が入団していたら?」を検証する。

 

まず

 

ユニフォームは横縞。

 

・・・・・・・これは。。。

 

 

 

いや・・ユニは縦縞がいいかな。。。。やっぱり。。。。

 

 

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さてこの年清原は130試合に出場し本塁打32本を放つ。

■一旦この年の清原の数字をそのままチームに加算してみる。

この年、ファーストを守っていたのは主に八木とコンラッド。

コンラッドはサードを守る。

 

■当然八木は守備位置がなくなるのでここから八木の数字を引く。

 

■八木はこの年から代打の適性を見せ始め、翌年には開幕から代打成功率5割をマークし、「代打の神様」としての地位を築く事になる。

なのでこれに1998年の八木の成績をプラスする。

 

 

 

チーム本塁打は103→134本

得点は504→564点

OPSも0.679→0.754にアップした。

 

同様に読売の成績も

 

■清原の数字をそのままチームマイナスする。

 

■清原が加入しなかったら落合博満は残留していたはずなので落合の1997年成績をプラスする。

 

 

 

この年の優勝は野村克也率いるヤクルト。2位に11ゲーム差をつけての独走。

ホージー、古田、池山が打ちまくった年。

 

 

通常リーグ順位というのは防御率の順になるのが普通ではあるが、特にセリーグではたびたび逆転現象も起きる。

タイガースも防御率では3位であるが5位に沈んだのは打てていなかったからだ。

 

清原が入ることでアップした数字がそのまま順位に反映されるとしたら。

 

 

一つ上の順位にいるジャイアンツは

 

チーム本塁打は150→121本

得点は550→520点

OPSも0.723→0.716にダウン。

 

これはドラゴンズと最下位争いをする数字だろう。

 

その上の広島は得点がヤクルトに次ぐ2位。

金本・江藤・前田のクリーンアップにロペス、緒方、野村謙二郎。

しかしながら防御率がワーストだ。

横浜が2位にいるのは防御率の問題か。

 

だとすればその数字に肉薄する打撃成績になったタイガースは当然、広島の上になる。

 

そして横浜と遜色のない打撃成績なら防御率で上回るタイガースが2位に浮上するかと思われる。

 

それでも優勝のヤクルトを超えることは出来なさそうで、この年、清原和博が加入した1997年の横縞阪神タイガースは2位でシーズンを終えることとなる。

 

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翌年、タイガースは再び最下位に沈むこととなりそのまま5年連続最下位を爆走するのだ。

 

清原が契約年数も多く、提示された金額も阪神が大きく上回っていたのにジャイアンツを選んだ理由として、幼い頃からの夢をかなえた、とか母親にそのことを後押しされたからだとか語られてきた。

 

実際、清原も本心はタイガースに心が傾いていたと言っているが翻意させたのが父親の

「お前が打たれへんで負けたら家に火ぃつけられる」と言う言葉だったと最近語っている。

 

これが冗談ではないところが関西だと思うが・・・。

 

しかし心配は無用だった。

 

清原和博がタイガースに加入した年は優勝は及ばずとも2位だ。

そしてフラれた長嶋巨人は中日と最下位を争う。

 

この翌年1998年、吉田タイガースは関川と久慈を放出して矢野と大豊を獲得するのだが

このトレードも当然なくなる。

 

そうなると久慈はまだ正遊撃手で居座ることとなり、今岡が三塁を守る。

1974年生まれの今岡は、そう・・・PL学園。

 

7歳上の先輩となるともう神様扱いだろう。

清原は神戸・・おそらくは芦屋に転居していたはず。

今岡も芦屋で、完全に今岡は清原の舎弟扱いとなり清原の自宅でPLチャーハンを作ったはず。

 

1998年には「KKに憧れて」PL学園に入園した坪井智哉がドラフト4位で入団。

舎弟をまた一人増やす。

 

1999年には「ヘルメットが結んだ縁」の野村克也がタイガースの監督に就任する。

(頭が大きく合うサイズのなかった清原は西武時代にノムさんが残したヘルメットを色を塗り替えて引退まで使う)

 

野村監督に嫌われてくすぶっていた天才・今岡誠は兄貴分の清原和博の計らいで監督にとりなしてもらいレギュラーの座につき、清原の後ろを打つ。

 

ジャイアンツでは松井秀喜に4番を奪われ、その影響下打撃改造に取り組んだせいで下半身の故障にたびたび見舞われることになるのだがタイガースで不動の4番に居座っていればそのような無理をすることもなかっただろう。

 

翌年には開幕早々から藪に死球を受け、左手を骨折するのだが当然自軍なのでこの怪我もなくなる。

 

2002年には1969年生まれ、清原がPL学園3年生の時の1年生、直属の部下である片岡篤史がFA入団。PLチャーハンにマルシンハンバーグも追加される。もちろん隠し包丁入りだ。

 

 

サードは片岡、今岡がセカンド。レフトに坪井とPL学園で内外野の4ポジション~投手以外のポジションの半分~を占める。

 

2002年には星野仙一が監督就任。翌2003年には金本知憲がFA入団。

1番 今岡~2番 赤星~3番 金本~4番 清原~5番 濱中~6番 アリアスと破壊力満点の猛虎打線になる。もちろんぶっちぎりで優勝するだろう。

 

 

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その後のことは分からない。想像でしかないが(いや、ここまでも想像だけれど)・・・

 

松井秀喜、マルティネス、後年にはペタジーニなどと張り合う形で肉体改造、身体の大型化に取り組みその代償として下半身の故障が起きたのだとしたら。

 

阪神に入団していればそこまで追い詰められることもなかったかもしれない。

「ジャイアンツ憎し」のキャラクターで行けばファンにも受け入れられただろう。

 

そりの合わなかった堀内の下で煮湯を飲まされる事もなかっただろう。

 

後輩の立浪に2000本安打を先に記録されることにもならなかったはず。

 

 

桑田との対戦も名勝負と語り継がれた事だろう。

 

 

 

 

 

 

 

清原はノムさんの死後に番組企画でノムさん宛に手紙を書き、「一度でいいから同じユニホームを着て野村監督の下で野球をやりたかった。野球を勉強させていただきたかったと思っていました」と綴った。

 

その願いも叶っていたのである。

 

人生の師匠と言えるべき人の下で働けていたら。

 

その後の人生を導いてくれる監督がいたとしたら。

 

 

 

もしかするとその後の・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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