精神修養 | ドイツのブログ

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私が、博士号を取り、子供と同居し、芸能人になるまでを描きます。

実際の生活をしながらの精神修養は、難しい。
 
 
僕の周りにも、精神修養のためではなく金のため生活のため、などのために仕事に来ていた。
 
 
私は、精神修養、修行だと思っていたが、周りの人は違った。
 
 
もちろん、違ったといった方がいいだろう。誰も精神修養のためなんかに生きていない。金のため、しょうがなく資格をとるだとか考えていた。
 
 
例えば、精神病院で私が精神修養だと、例えば人に親切にしてみた。
 
 
 
すると、精神病院の人は、精神修養どころか精神を壊していて、遊んでいるので、暇であり、私が親切にすると、その反応は?
 
 
 
 
なんと、遊んでいる人の中では(この人は気が弱いからやっているのだろう)と思われ、いじめられていたのだ。なんと、それがいじめられていた。
 
 
誰も精神修養だとは思っていない。実際生活の中で、精神修養、修行するのは、このように難しいのだ。
 
 
 
よっぽど鍛えた人は、しかし私の冗談が分かるようだった。
 
 
 
 
 
 
ただ、体力の増強は精神の強さを伴うことは間違いない。
 
 
 
 
お寺に行って修行するのは楽(?)日常生活で修行をしていると周りの人は修行のつもりでやってないから、精神病院の例のように誤解は産んだ。
 
 
 
 
 
例えば、スケベなことをいうと、「セクハラだよ」と誤解は受けたし、日常の凡人のふり(?)をして、修行していると例えば「偉そうだ」と思われがちだ。精神病院の遊んでいる人の中で、親切にすると気が弱いと思われたように、仕事をしていても「偉そうだ」「セクハラだ」と誤解を受けた。
 
 
 
 
 
 
 
(煙草を吸った)
 
 
 
こんなことを書いていても、文は分かりにくい。
 
 
 
 
 
 
 
 
詩で…・・
 
 
 
 
 
空に浮かぶ雲は
 
 
いつかどこかへ飛んでいく
 
 
そこに何かがあるだろうか?
 
 
それは誰にもわからない(吉田拓郎「人間なんて」)
 
 
 
 
 
 
 
風になびく
 
富士の煙の
 
空に消えて
 
行方も知らぬ
 
我が思いかな(西行)
 
 
渡る鳥や
 
いずれの空も
 
悲しからんに
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人間何かを求めては生きている。
 
 
 
そこに何があるだろうか?
 
 
 
わからない?いずれの空も悲しからんに?
 
 
 
 
 
 
しかし、しかし、ただ言えることは、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孤独に夜の星を眺めよ!