
日本の皇室が世界から驚きのまなざしを向けられるようになるのは、
十世紀の頃までさかのぼります。
『宋史』日本伝によれば、
宋に渡った東大寺の僧奝然(ちょうねん)は、第二代皇帝太宗に謁見し(984)、
日本の律令や王年代記、考経注釈本などを献じ、大いに喜ばせた。
また、宋の官僚に対し、日本には儒教の古典、仏典をはじめ白居易文集など多くの書があり、農作物、通貨(乾文大宝)、気候、産物などについて語り、
転じて皇統の歴史に話が及び、王年代記を示しました。
そこには、天地開闢の天御中主神に始まり、神武天皇の即位から、当時の円融天皇まで、六四代の天皇とその事績が記されていた。
とりわけ太宗を驚かせたのは、
天皇を「一姓伝継(いっせいでんけい)」の君主として継承し、臣下も代々世襲しているとの話でした。
太宗は「これ蓋し古の道なり」
「これ朕の心なり」と嘆息し、ひるがえって
中国は唐末から戦乱が続き、天下の諸地方は分裂し、王朝も短命で、大臣や名家でも後を継がせた者は少ないと述べました。
奝然より後に入宋した成尋(じょうじん)も宋の官吏から天皇の姓名を問われ、
「帝王姓なし。名ありと雖も庶人(しょにん)知らず…」と答え(1072)、易姓革命のない一系の皇室について伝えた。
それ以前にも、寂照(じゃくしょう)は、
著名な詩人楊文公(ようぶんこう)と語り、日本に存する中国の数多くの古典や名著、日本書紀などを挙げており(1006)、
これは五代の動乱で散逸した書籍の蒐集・復興につとめた宋朝では、
羨望に堪えなかったろう(森克己)といわれています。
すでに遣唐使は廃止し、唐・宋の混乱、衰退の実情も広く伝わり、
かつては漢学を尊重し、漢才の貧弱を嘆いた時代もあったが、
平安後期には、逆に国書に関する知識の欠如が、軽蔑される時代になります。
従来、善政や吉事には、漢籍を引いて称賛するのが例なのに、
改元に際し、関白藤原忠実は
「今後は永く、異国の年号を推進してはならない」と述べ、
鎌倉期には、
異国では不快でも、本朝で吉例とすればよい、憚る必要なしとして「天福」の年号を採用します(森)。
鹿ケ谷の変(1177)では、平清盛は関係者の処分を後白河院に奏上し、
強制的に源定房を上卿(しょうけい。主宰者)として院の定議を決めさせますが、
九条兼実は「我が朝之風、已に漢家之礼に同じ」(玉葉)と評し、
中国の政治は、権力支配や武力政治の典型と目されていたことがわかります。
「わが朝風俗は和歌を本とす」
こうした論法も平安末期から現れ、やがては
「和歌は礼楽を整え、国は治まり、異国に敗れず、仏法も、大国を上回るのは、まさに和歌の徳である、宋は和歌なく、礼楽を助けず、仏法は廃れ、異賊のため国を失った」(野守鏡。現代語訳)
とする歌論も現れます。
西欧が自分たちの模範としたギリシャ・ローマなどは、いわば「滅亡した文明」であるのに対して、
中華文明は、日本にとって「唯一の…永続性をもった巨人」であり、
その「圧倒的優位は常に日本人の旺盛な自我意識を覚醒」させたといわれます(Ⅿ・ジャンセン)。
しかし日本における「中国批判」とは、じつは一千年以上の歴史を持ち、
その自意識と批判の基点には、
彼の地にはみられない一系の皇室、社会の安定性や継続性、非権力的な「有徳」のイメージがありました。
つまり、自国には世界に通じる普遍的価値があると考える確信こそが、
中国批判の史上最初にして、最大の根拠であったと考えてよいようです。



