歴史のことば劇場37

また、その条約の不参加に対しても、
目立った批判は出ませんでした。
コロナの影響もあるとはいえ、
いわゆる「核の抑止機能」の持つ有効性や説得力が、事実上あらためて認められた形といえますが、
そもそも、現代の主要国ほど、
長い間平和を享受した国は、近代以後は一国も存在しません(K・ウォルツ)。
昭和39年12月、
佐藤栄作首相は、ライシャワー駐日大使と会談し、
二人だけの会話では、
同年10月に核実験を行った中国に対抗して「相手が核を持つならば、自分も持つのは常識だ」として
核装備と憲法改正の認識を示しました。
翌正月、日米首脳会談で、ジョンソン大統領は、日本の核保有に反対し、
核攻撃には米国が防衛する意思を伝えると、
佐藤は「まさにそれは私が問いたかったこと」と応じ、
日米共同声明では、沖縄の施政権の「できるだけ早い機会に返還」との日本側の要望が表明され、
これに対して「(米国)大統領は…理解を示し」との一定の譲歩(日米関係資料集)をも引き出すことに成功します。
佐藤は、有名な沖縄初訪問(40年8月)を前にして、
核武装や改憲を持ち出し、米国に日本防衛を確約させ、
同盟関係の強化から、沖縄返還への道を切り拓いたわけです。
じっさい、
同年7月のライシャワーによるラスク国務長官充て書簡を契機に、
米政府内の沖縄政策の本格的な見直しが始まります。
そして42年秋、
スナイダー国務省日本課長らは、返還後の基地機能に影響するのは、
核貯蔵とB52の自由発進の二点にすぎず、それは日本のアジア防衛への積極姿勢で補えるとする報告書を提出し(細谷千博)、
返還は現実化に向かいます。
佐藤は、自らの政策スタッフに対し、
東西冷戦による「現状凍結の平和」への疑念をよく口にしており、
「この世界で最も貴重なものは自由である。自由の下においてこそ、政治的成功があり、経済的繁栄がある。
われわれは一歩も後退してはならないし、それ以上に、政治、経済、軍事のすべての面で、共産主義陣営より少しでも優位に立たなければならない。
バランス・オブ・パワーではなく、われわれが少しでも優位に立つことが自由と平和を保つ道である」
とのドゴールの言葉を肝に銘じていました(千田恒)。
1980年代、“デタントで西側は弱体化した”と考えたレーガン大統領による記録的な軍拡が始まり、
レーガンが「核兵器を無力で時代遅れにする」と述べた戦略防衛構想(SDI)を前にして、ソ連指導部は全面的に退却します(N・ワプショット)。
レーガンの有名な「悪の帝国」演説(1983)には、次のようにあります。
「世界で今進行している戦いは、爆弾やロケット、軍隊や軍事力によって決せられるものでは全くないのです…
真の危機は精神的なもの…根源的に、それは道徳心と信仰の試練なのです」
時流に抗して全体主義と鋭く対決した西側の指導者の原動力には、
「自由への結束」の信念とバランス・オブ・パワーを超える戦略構想があり、
いわゆるリベラル平和勢力とは明らかに次元の異なる思考や言動が、
後の政治状況や世界地図を一変させたということを、いぜん真剣に受けとめないのは、
当時の奇妙な報道姿勢や敵対陣営の思考法と同じく、
重大な誤りを犯しているのではないでしょうか。














