歴史のことば劇場39

皇位の男系継承は、現憲法の「当然の前提」であり、
「千数百年を経ての憲法慣習」「実質的な憲法」である、
この問題に関する皇室典範の改正は、国会の議決では行えず、
憲法改正か国民投票が必要で、
それは殆ど不可能、
あるいは不適切との話をしました。
どうやら女系容認は、法律的な無知や逸脱の産物のようで、
憲法を遵守すべき行政府には
男系継承以外は選択の余地がなく、現実の施策の方針として取りようがない。
また上記の説は、
皇位は「世襲」とある憲法条文を、男系継承の意味と解釈(小嶋和司)した従来の「憲法解釈」や「条文解釈」の次元とは異なる
「憲法慣習」といういわば原理・原則の問題であり、
「実質的な憲法」(渋谷)との高次の次元でとらえた所に、
議論としての優れた画期性や妥当性があると思います。
しかし一方で、同書は、
第二次安倍政権による集団的自衛権の一部容認も「憲法慣習」に反するとも主張しました。
すなわち、集団的自衛権の行使を認めない戦後の政府解釈は「憲法慣習としての規範力」を持ち、
「憲法慣習を政治部門が変更することは法規範の論理上不可能で…憲法改正手続を必要とする」
また憲法慣習は、次の二つの要因を満たす必要があるという。
第一には、物的あるいは客観的要因であり、
「長期にわたり継続または反復してなされていること」。
第二には、人的あるいは主観的要因であり、
第一の要因を「主権者が支持し…規範としてまもらなければならないという確信をもっていること」
たしかに、昭和31年、内閣法制局は集団的自衛権に関する違憲解釈を出します。
けれどもこれは集団的自衛権と個別的自衛権とを峻別し、
前者を違憲、
後者を「自衛のための必要最小限度の実力」とすることで自衛隊合憲論を辛うじて守り、
当時の社会党やマスコミなどによる囂々たる自衛隊違憲論に対処した「知的アクロバット」(田中明彦)でした。
またそれは吉田茂が
「国防は今日では一国を守るのではなく…自由国家群が共同で自由、繁栄、文化を守る集団防衛を根本方針とする」と述べたような、
戦後の安全保障の基調とも明らかに乖離していました。
いっぽう、皇位の男系継承が
「長期にわたり継続または反復」する憲法慣習であることは疑えず、
いかに主権者の「国民」であれ、
天皇の地位の「継続性」を、前回述べた横田耕一氏の断絶説のごとく否定するのは無理があります。
しかも主権は「もっぱら、そのときどきの権力の現実を正当化するイデオロギー」となりうるし、
国民主権といっても制度上の決定権は議会にあり、「政治的実力」の次元ともなれば、
官僚機構、軍、資本、外国勢力にすらなりえます(樋口陽一)。
英国の市民革命における権利章典(1689)は、
正式名が「臣民の権利及び自由を宣言し、王位の継承を定める法律」であり、
これは、王位継承は「王家の家族法ではなく、国民代表が決めるとした点に革命的意味があり、日本国憲法はその275年後にこれに追従した」(渋谷)とされます。
けれども、日本の皇室の男系継承は、
そもそも家族法ではなく、千数百年を経ての「憲法慣習」であり「実質的な憲法」でした。
E・バークによれば、民権と王位継承は「密接不可分」のもので、憲法とは「道徳的な拘束」である。
「この道徳的限界は、国家のあらゆる権威を行使する人々を完全に拘束する……肩書の違いも、身分の違いも、そこにはない」
「先祖からの遺産」であり「実質的な憲法」である憲法慣習は、
国会の議決や有識者会議の議論などを本来なら強く拘束します。
現政権に限らず、いかなる政権であれ、この当然の原理・原則を無視する行動は、
皇位の正統性はもちろん国民の「権利及び自由」をも危険にさらす「権力の濫用、逸脱」ではないか。
それゆえ、男系継承の模索や推進以外には行政府に取るべき道はない、
それ以外の施策は現憲法の許容するところではい、
と考えるのが、法律的で、常識的な思考ではないか。
改憲や国民投票の手続きを無視する女系容認論とは、
要するに立憲主義や法の支配の精神に反しており、
あらゆる国民が従うがゆえに権力が抑制され、自由や権利が保証される「憲法慣習」の原則に反している
と考えられます。









