歴史のことば劇場50
「平和維持」「特別軍事作戦」「非ナチ化」――
ウクライナ侵攻をロシア側はこう呼び、中国はそのロシアの行動を「理解する」と述べました。
かつて「ニュースピーク」とG・オーウェルが呼んだ、典型的なプロパガンダが、
いぜんとして全体主義の社会を覆っているようです。
オーウェル『動物農場』(1945)の序として書かれた文章には、
「もし自由になんらかの意味があるとすれば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる権利をさすのである。
庶民は今でも何となくこの主張に従い、それにもとづいて行動している」
とあります。
この自由や権利が存在しないのが、全体主義の特徴であり、
G・スタイナーは、
戦後ドイツ文学の混迷や停滞は、ナチの贋(にせ)の言語による影響と論じました。
旧ソ連時代のM・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(第2版、1963)によれば、
西欧の啓蒙主義者や合理主義者に特徴的な思想とは、《モノローグ(単声法)》の思想であり、
彼らは、あまりに単一的で、二者択一的な結論ばかり求め、
この世を意のままに、統一的、画一的に操れると考えている。
だが、啓蒙主義とは異なり、ドストエフスキーの小説世界には、
相異なる思想同士による《ポリフォニー(多声法)》の「対話」が実現されている。
ドストエフスキーは「声なき奴隷たち」を描いたのではない。
むしろ、彼と肩を並べ、
反旗を翻す能力を持つ自由な人間たちを創造し、
「それぞれに独立し互いに溶け合うことのないあまたの声と意識、
それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴である」(望月哲男・鈴木淳一訳)
文学理論を超えた、巧みな思想批判に見えますが、ふたたびバフチンに従えば、
ドストエフスキーの文学の形式上の起源は、古代中世の《カーニバル》文学の笑話にまでたどりつく。
その半ば現実、半ば演技の形式による「全民衆的なカーニバルの世界感覚」に従って、禁忌や恐怖から解放され、
教条主義的な体制の絶対化や敵対的な一面性に代わって、自由で無遠慮な人間同士の接触が力を得る。
オーウェルもまた、思想と言論の自由とは、過去四百年の西欧文明の産物であり、
ミルトンの詩に「古来の自由の知られたる掟によって」とあるように、
「古来」との言葉は、「知性の自由が深い根をもつ伝統であり、これなくして文明の存在は疑わしくなるという事実を、つよく訴えている」
と論じました。
現代経済学の指摘では、
高度な技術革新には、ある特定の制度の下で自然に発生し普及するパターンがあり、
それは自由や権利が広く保証される「包括的な制度」の産物であり、
その対極にあるのが「収奪的な制度」(Ⅾ・アセモグル)といわれます。
全体主義は、世界的な収奪や衰退というばかりでなく、
「古来」の自由や多様性、
文学の伝統の持つ庶民性を高度に発展させた《カーニバル》や《ポリフォニー》の対話世界を、
暴力や恐怖を用いて崩壊させ、
啓蒙主義や合理主義の一方的な《モノローグ》が響きわたる
「声なき奴隷」の社会へと退行させるのではないか。
いまのロシア側の主張や侵攻を擁護する声が異様なほどグロテスクであり、聞くにたえないのは、
それは恐らく「声なき現代の奴隷」の言葉だからであろう。
その対話や相互理解の全てを拒否する、頑迷で、非人間的な態度は、
古来の自由の掟に反し、
文学の庶民性の伝統に反している。
また、啓蒙主義や合理主義に由来する「モノローグ」に類する、
一方的で、一面的な主張の、不愉快な繰り返しではないでしょうか。











