歴史のことば劇場89 

 国家の法と社会の法 




 夫婦別姓の国家による法制化は、家族云々というより個人の自由や権利の実現だとする議論がありますが、

かつて末弘厳太郎は「国家の法と社会の法」に関して次のように述べました(『法学入門』昭和22年)。 

  曰く、従来の法律論は、国家的要素を重く考えすぎであり、社会学的考察と論理的思弁の問題とを混同している。

国家主権による命令や規範が法律だと説明するが、事実を観察すれば、社会の法律は国家の法律と独立して別に存在する。

実際よくある話だが、ある男が村の規則に違反したため「村八分」として共同絶交を喰い、これを名誉毀損として誹毀罪で告訴したとする。

この場合、村民がみだりに私的制裁を加えることは国家として是認しがたいから、被告は有罪になるだろう。しかしそれでは村内の秩序は一人の異端者により蹂躙される結果になる。

現に大審院(現・最高裁)ではこの種の問題に苦しみ、

「…多衆共同ノ絶交ガ正当ナル道義上ノ観念ニ出デ、被絶交者ガ其非行ニ因リ自ラ招キタルモノナルトキハ之ニ対シテ救済ヲ与フルノ必要ナク、絶交者ガ之ニ依リ被絶交者ヲシテ義務ナキコトヲ行ハシメ又ハ行フベキ権利ヲ妨害シタル場合又ハ其絶交ガ正当ノ理由ナキトキハ、玆(ここ)ニ初メテ違法性ヲ有スル」

と論じた。 

  つまり、村の定めた法は国家の法とは別に存在し、国家と地的範囲を同じくする社会にも特有の統制力や権利、義務の関係がある。

それは形式的にハッキリした形こそとっていないが、実質的に社会を秩序づけて大きく働いており、

例えば「借りた金は返さねばならぬ、物を買ったら代金を払わねばならぬのも、国家法たる民法第何条が云々というより、むしろかかる内容の社会的法律が存在する」結果である。

民法は法律上の婚姻は婚姻届を出して成立すると規定するが、社会の法律は必ずしもそれを要求せず、三々九度の盃でもして社会上婚姻と認むべき事実関係が成立する。

  それなのに、社会の法という独自的存在の否認から出発する人々がおり、ガムシャラに国家的統制の下に置こうとし、一面で社会を害し他面で国家そのものを傷つける。

国家的統制力のみ行われる社会を考えるのは「机上の空論であり…畢竟宗旨狂的な国家主義者に利用されるにすぎない」と。 

  この国家法だけが自由や権利を守るのではない、むしろ中間組織として社会の法や慣習が根底で働いているとする論理は、レヴィ=ストロースの展開した次の考え方に通じます。

すなわち、自由とは、歴史的経験の成果であり、抽象的な人権などでなく、文化遺産や慣習、信仰などからなる多元的自由が、真の普遍性を持っている。

「自由に合理的とされる基本原理を与えることは、自由の豊かな内容を排除し、自由の基盤そのものを打ち崩す…

現実の自由とは長い間の慣習、好みなど、つまりはしきたりの自由である」 

  明らかに歴史的な所産である自由を、誤って合理的で、抽象的なものにすり替えることは、

社会的多元主義と衝突し、恣意的な立法や法解釈となり、全体主義をもたらす「衰退する文明人の考え方」であることを、「社会の法」の論理は警告しているのではないでしょうか。