歴史のことば劇場32
日本国憲法第九条の起源とされる不戦条約(1928)は、
徹底した戦争放棄までは要求しておらず、
国の交戦権や自衛権を自明の前提としていました。
また九条第一項が
「国権の発動たる戦争」や「武力」のすべてを放棄するのでなく、
わざわざ「国際紛争を解決する手段としては」との留保を付しているのも、
不戦条約の第一条にほぼ同様の留保があり、
これらが自衛活動の放棄を意味しないことは明らかです。
ところが、不戦条約には、
上記のいわば「公的」な理解とは異なる「戦争違法化」という、もう一つの別の潮流があり、
当時の米国のレヴィンソンらによる「戦争違法化」運動は、国家の紛争解決として戦争そのものを「追放」し、
犯罪としての国際法の法典化や国際法廷による「裁き」を求めるものでした。
この「戦争違法化」運動の潮流の延長上に、かの自衛権をも否定する特定の憲法解釈、
あるいは「平和に対する罪」で裁いた東京裁判の判決文などがあります。
ところが、
これら「戦争違法化」の思考は、
不戦条約当時のケロッグ国務長官の発言、
すなわち自衛権の定義や不正な戦争としての侵略の定義は不可能であり、
「条約によって…法律的概念を定めようとするのは平和にとって利益にならない」、
かえって争いをもたらすだけであるとする公定解釈(牧野雅彦)と並べても、
明らかに異質の考え方でした。
いっぽう、ソ連「封じ込め」政策で有名な米国外交官G・ケナンは、
不戦条約違反として満州事変を弾劾した米国のスティムソン・ドクトリンなどの手法を
「リーガリスティックアプローチ
(法律道徳主義)」、
つまり米国外交によくある、法律的規制により諸国の野心を抑制できるとする信念と呼んで、きびしく非難しました。
ケナンによれば、
彼ら法律道徳主義者の脳裏にある「世界秩序」とは、
「自分たちの法律上の諸概念を国際的事件にあてはめ…他国が服従し…尊重」しさえすれば
「世界の安全と平和は保障されると信じ」るような
独善性や非現実性がある。
また対日戦争は、
ハル国務長官が法律道徳主義に「耽溺した結果」である、
米国は当時の日本が「満州や朝鮮で背負った重荷や責任の苦しみに一顧だに与えず」、
戦後になり、「(米国が)その痛さと苦しさをいやというほど味わっているのは…一種の天罰かもしれない」
と述べました。
じっさい、スティムソンやハルは、
戦争違法化を求める新・国際法学の「良き理解者」(篠原初枝)であり、
反対にケナンといえば、
スティムソンが「生みの親」とされる国際軍事裁判に対しても、徹頭して批判的でした(日暮吉延)。
さらに「平和に対する罪」は、
もともとニュルンベルグ裁判所の規定を決するロンドン会議(1945)において、
ソ連のモスクワ大学のトライニン教授の著作『ヒトラー主義者の刑事責任』の用語から命名された(大沼保昭)ように、
「侵略」をめぐる戦前・戦後の国際法の議論は、共産国ソ連の「安全保障」と親和性や関連性がありました。
そしてケナンの提唱に始まるマーシャルプランや「ソ連封じ込め」、
さらに対日占領政策の「転換」は、
ケナンの法律道徳主義批判という「歴史認識」と直接に結び付いていた(三谷太一郎)。
また対日講和への道も、ケナンと吉田茂首相との「認識の一致」を基調とし(中西寛)、
それは日本に対し、旧敵国から潜在的同盟国へ、「懲罰」ではなく「対等」の関係の構築をめざすものでした。
いっぽう、憲法九条をめぐる日本政府の解釈が
「戦力」の不保持を指すとする制憲当初からの「違憲」説から、
自衛のために必要な「戦力」保持を認める「合憲」説へと転換したのは、
昭和29年、独立後の鳩山政権にはじまります。
鳩山と同じく改憲論者の岸首相は、安保条約を双務的なあり方に向けて改定し、
また現在の集団的自衛権の合憲解釈が、安倍政権で確立されたのも、周知の通りです。
要するに、ケナンと吉田の「一致」にはじまり、日米同盟締結、あるいは同盟の強化や深化にいたる今日の安全保障の路線とは、
前述の不戦条約の「非公式な理解」や戦争違法化、自衛権をも否定する9条の特定の解釈、侵略戦争論、東京裁判など一連の歴史認識とは、
明らかに対立的な関係にあります。
むしろ、これら後者の歴史観の持つ非現実性や独善性をくりかえし指摘した、ケナンの法律道徳主義批判、および改憲論に代表される「歴史認識」こそが、
現代の私たちの自由主義と平和を守り、全体主義の脅威に対抗する安全保障政策の基盤をつくっていた
と考えてよいのではないでしょうか。
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