〈繁栄は、結局、人口減少をもたらす―〉
マルサス『人口論』(一七八九)の有名な定理ですが、
社会が発展すれば、人口は増加する一方で、
農地や食料は不足し、
所得も伸びず、貧困化が進み、
戦争や飢饉を招き、
しかし、こうしたマルサスの陰鬱な予言は、
イギリスの産業革命によって
一度は否定されました。
人口が増加しても、所得は減少せず、
食料も不足しなかったからです。
現代フランスの経済学者Ⅾ・コーエンによれば、
「その答えは単純だ。イギリスは、工業製品を輸出し、農産物を輸入した…
一九七〇年代に新興産業国が採用したモデル…
現在では中国が採用している経済モデルを採用したのだ」(『経済と人類の一万年史から、21世紀世界を考える』)
つまり、産業革命にともない、
工業製品の輸出・農産物の輸入といった世界貿易の国際的なシステムができたことによって、
人口が増えても、
食料も、所得も、減少しないような豊かな社会が生まれた。
けれども、
上記のマルサスの陰鬱な予言は、
まったく別の形で
実現することになります。
二十世紀末、先進国では、
所得は増加しても、
人口は明らかに停滞したからです。
そして、マルサスのいう
〈繁栄が人口減少をもたらす〉という法則は、
西側先進国ばかりでなく
やがては中国やインドなどの成長国にも波及する――。
コーエンによれば、
それは「イメージがグローバル化したからだ…
自由な女性という『アメリカ・モデル』がテレビ放映されたのと
直接的なつながりがあると思われる」(同)
つまり、人口変動の決め手は、
もはや食料でも、農地でも、
物質的条件でもない、
女性の地位向上や社会進出といった、グローバルなイメージが
世界にあたえた影響を考える必要がある。
また、国連の専門家によれば、
二〇五〇年には、
世界中の女性の合計特殊出生率は
西側と同じ一.八五になる、といいます(同)。
Ⅾ・アセモグルら『経済学者、未来を語る』によると、
国連によって近年想定された、
高程度、中程度、低い程度の「三つの出生率の予想」においても、
「中程度」の出生率の予測では、
二〇五〇年ぐらいから世界人口はほぼ停滞状態になるとされ、
「低い程度」の出生率の予測では、
むしろ減少に向かうと予想されています。
世界的に著名な
エマニュエル・トッドの人口論によれば、
歴史的には、第一段階として《男子識字率の上昇》が起きると、
知識・情報を習得しても
十分な所得やポストは得られないなどの社会的不満が高まって、
次に《革命・戦争・クーデター・独裁などの暴力的変革をともなう移行期危機》
が訪れるという。
しかしながら、
第三の段階として
《女子識字率の上昇(50%超)》が起きると、
受胎調節が始まり、
《出生率の低下》から社会は鎮静化に向かって、
最後には《民主化の定着》にいたるという(鹿島茂『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の真相』)。
これを近代日本の場合にあてはめると、《女子識字率上昇》は、明治期に、
《出生率低下》は大正期の一九二〇年に始まります。
また、日本の《移行期危機》は、
昭和戦前期における動乱・混迷状態を考えると、
出現の順番が違っているようにも見えますが、
しかし《女子識字化→出生率低下》はトッドのいう通りであり、
これは近年のイスラム社会でも
ほぼ一斉に起きたことでした(『帝国以後』等)。
たとえ《収奪的》ではない《包括的な制度》の民主的国家に生きているとしても、
それだけでは安心できる将来は約束されないようです。
むしろ《包括的制度》であり、
民主的国家であるがゆえに、
「租税国家」として、
「最終的に、国民のあらゆる部分が、私的所有についてまったく新たな概念を持つよう」になる危機が
つねに存在していると考えておいた方が、賢明であるように思われます。
また、世界経済の牽引役を新興国にのみ委ねるのは、
いぜん無理があるのが「現代化」という時代であれば、
われわれ《包括的な制度》の社会が「租税国家としての危機」に陥ることは、
民主社会ばかりか世界的な危機を呼ぶ事態になりうることも、
考えておく必要があるといえるようです。
日本の通信産業は、
よく閉鎖的で独占的、単に国内市場が大きいがために、
他国システムとの互換性を考えず、独自開発に突き進んだといわれます。
「ガラパゴス」と揶揄されるゆえんですが、しかし十数年前、
スマホの将来を予感した米国人は、そのガラケーを駆使するJKの姿に「明日の世界」を見ていた。
いまに世界中のだれもが、
高性能カメラ、音楽、アプリなどをたった一個の端末で、
いつでも自由自在に楽しむ時代が来ると考えた。
新たなトレンドを探る人は「エッジケース(限界的事例)」
すなわち世界に広く普及する前に、特定の集団だけに広がる先進的現象に注目します。
日本のガラケーは「そのわかりやすい例」であり、
女子高生文化には「誰も気づいていない、細かな違いや意味を見つけ出していく」発想があった。
大量の商品が行き交う中でも、
わずかな差異の持つ価値を楽しむ態度が、
戦前の女学生文化以来、ファッションから音楽の嗜好に至るまで通底していた(『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』)。
考えてみれば、
「すべてをシンプルに…とてもシンプルに」(S・ジョブズ)との
簡素化一辺倒のシリコンバレー的な発想から、
多機能性のスマホが生まれたというのも奇妙な話でした。
実際は、ガラケーを使い倒す、
最末端のJK文化的な微細な思考が貢献していた。
IT企業のⅭEOといえば
絶対君主のごとき権力者のように言われますが、
大企業も競争相手に対して明らかに脆弱化し、
顧客の感情の微妙な変化に戦々兢々としている(Ⅿ・リドレー)。
彼らが夜も寝られぬ思いをする競争とは、
ライバルが価格を下げることではなく、
自社製品を時代遅れにする起業家の革新(イノベーション)だと指摘したのは、
経済学者のシュンペーターでした。
彼はそれを創造的破壊と呼びましたが、
かかる革新を引き起こす要因は、
いまや天才の発明や国家的計画よりもJK文化のような卑近な趣向に始まり、
何の権力も陰謀も使わず、
声高にデモに訴えるでもなく、
いつの間にか社会を彼女達にとって好ましい世界へと変化させました。
かつて思想家や哲学者は、
革命はバリケードや暴動、権力の謀略などから生まれると言った。
しかし彼らは弱者や労働者を守ると言いながら、
そのじつIT長者を封建領主のごとく見る旧思考と同様、
下から湧き上がる自然発生的な「創造的破壊」の影響力をあまりに過小評価していた。
もはやかつてのような
闘争的で喧噪的、決定論的な思考では
「エッジケース」のもたらす明日の世界は見えてこないことを、