トムのブログ -6ページ目

ほんのちょっとですけど…

ほんのちょっとですけど…「だれしもが面倒だなって」思う事を、

面倒だと思わずにやれる人が尊敬できる。

僕は今でもいつでも「面倒」しか考えない時点でマダマダですが。

それでもやれることはやろうと思う…

もちろん人には人の事情がありますね。

人は誰しも主観的に忙しい(笑)

学問について(儒学)

前回に引き続き、儒学ネタです。学問に関して書き散らします(*_*;

古之学者為己、今之学者為人
「古の学者は自分の〔修養の〕ためにした。このごろの学者は人に知られたいためにする。」
(論語憲問二十六)

論語には以上の一説があります。最初に読んだ時は、「人の役に立つために学問するんだからいいじゃないか」と思ったものです。

一端納得してからも自分の修養のために学問するのは崇高だが、それは結局自分の事しか考えないのかともちょっと悩みました。

しかし儒学では”自分を修める”ことが、社会を幸福にするという論理的連結がなされているのです。

それが以下の「大学」の一説。

「古の明徳を明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんとする者は先ずその身を修む……」
(大学)
要は自分を修める事のできないものに、国や世界を治める事ができないっと言っています。
逆に自分を治める事は、国や世界を治める事につながるということ。
だから学問の目的は自分を修めることが大切だという事。

以上学べることは、まず儒学は決して論理的に破たんしている学問ではない事。
論理性は十分あります。ただ論理的連結が本当かどうか、科学的に実証できない事(怪しいこと…)
経験的に正しそうではありますけど。

もう一点は。
社会に役立ちたいと思うことに対して、すぐに政策や法律を学ぶ事も大切ですが、それと同時に自分を”修める”ことも大切だということを気付かせてくれること。
そういう意味では、儒学の価値は十分ある。

書きながら疑問だったのですが、それじゃあ自分を”修めた情態”ってどう説明したらいいんだろう?
怒らない人?動揺しない人?恐れない人?
儒学ではどう説明しているんだろう気になった…
どこかで言及していた気がするんで、どっかで見つけます。

さぁ寝よう(^^♪

大学

「大学」の由来が気に成りました

大学って同じ字義で、四書(朱子学)の一書にもあるんです。

四書の大学は礼記の一章を個別に取り出したもので

礼記自体は紀元前からある。

学校の大学の名称自体は、どうも前漢ぐらいからある。

そうすると何となく関係性があるのではないのかって気になって。

日本でも平安時代から官吏養成の学校の意味で大学と呼んでいた。

日本でも大学を呼称に使ったのは、中国の影響を受けているのは自明ですけど。

そして明治時代に、西洋のUniversityかCollegeの制度を見て

高度な教育養成機関だという事で、王政復古の意味も込めて

平安期からある「大学」という名称を使った。

あくまで推論ですけど。

なんでこんな事を言うのかというと、

もしもともと、教育養成機構に大学という名称を使った事に、

四書の「大学」と関連性があるなら、

現在の大学にもその固有性がなんらかの影響を受けているのではないか。

そしてその要素を考える事は大学教育の本質を考える上で重要なのではないか?

という問いです。

最近大学は「就職養成機関ではない」という批判を聞きますが、

もともとの用法から考えると怪しいですね。

東洋の大学にはもともと、官僚養成という意味合いが濃いはずですから。

西洋の意味はまだ知りません。

ただ学術的研究を深めるという意味合いが濃いのでは?

まあ、今の大学は明らかにどちらの要素を含んでいるし、

どちらも達成されなければならないんだと思っています。

その意味で「中庸」ですよね。

よくまとまっていない(*_*; 書き直して分かりやすくしなきゃ。