ハツばっぱ物語ー9(最終回)
友人そして多くの人たちの援助・協力があったことでしょう、ハツさんは幼い子供たちを連れて帰国することになりますが、ここから先の最も大変であっただろう帰国の旅の話、苦労多かったその後は語られておりません。苦労話は自分からは語らないハツさんですから胸に仕舞ったことでしょう。ハツさんが晩年に心血をそそいで書き綴った五十余ページ、その手記の最後を以下のように締め括っています。「今は帰国40年余も過ぎたるば、時代は平和な時代となり、文化も開け人心も教育も進歩して立派なエス村になったことと思う。付けても当時の日本人の功績は偉大なもので、日本国民の模範として恥じない人格者が居たためである」とその後ハツさんと子供たちは難儀なことも多かったと思いますが、多くの人の助けを借りて無事に帰国し、子供たちに心血を注ぎしっかりした教育も受けさせ、それぞれ立派な社会人に育て上げました。母親としてのハツさん、そこまで至るにはいろいろ苦労の物語があったことでしょうね。ですから社会人に成長した伯父・伯母そして父の、ハツさんへの感謝の気持ちと愛情はとても深かったように思います。ハツさんをママさんと呼んで(当時ママさんと呼ぶのは珍かったと思います)とても大事にされていた様子が窺えます。戦後は息子娘たちに敬愛され一緒に過ごした穏やかで幸せな晩年だったと思います。孫から見たばっぱは穏やかで優しい、時に孫の下手なダジャレを受けて忍び笑いが止まらなくなる、おちゃめな面も見せるおばあちゃんでした。昭和49年4月に私は結婚して、病気で入院していて式に出席出来なかったハツさんを、妻と一緒に見舞いに行き、私たちの代理だよと言ってめおと人形を枕もとに置いてきました。それがハツばっぱと会った最後となってしまいました。それからわずか一か月後の5月末日・・・ハツさんは天国に旅立ちました・・・・88歳でした。雲の上では六十年ぶりに夫レンジと再会し、二人はどんな話をしたのでしょうか。レンジはハツさんに感謝しその60年の労苦をねぎらい、心からの抱擁でハツさんを包んだことでしょう。エス村には葬儀の後、レンジの村人への適切な医療奉仕に感謝して、近隣3村の総意で立派な頌徳碑が建てられ、また住いのあった前の通りをドクトル○○通り(レンジの名字)と名付けられ、今も大切に残されていることを紹介してこの物語を終えます。長い話をここまで読んでくださった方には心から御礼申し上げます。また今回この物語を紹介するのに多くを参考にさせてもらった冊子「日墨親善のかけ橋 明治の日本人達」をまとめた伯父に感謝して。