ASKAベストアルバム『We are the Fellows』日本一長いレビュー後編 | ただひたすらCHAGE and ASKA

ASKAベストアルバム『We are the Fellows』日本一長いレビュー後編

 ASKAベストアルバム『We are the Fellows』レビューは、長すぎて制限文字数をオーバーしてしまい、9曲目からは、後編として掲載する羽目になりました。

 後編は、CDを聴いてからアップしようと思っていましたが、まだ手元に届きません。

 まあ、それほど売れているということですね。

 

 待ち切れないので、アップいたします。

 

9. next door

 人は、ある程度の年齢に至ると、物事は期待通りに行かないものだ、と悟るときが来る。たいていの場合において、期待は、現実を遥かに超越している。その現実に打ちのめされる時期を避けることができなくなるのだ。
  それは、恋であったり、夢であったり、とさまざまだが、人は、現実の残酷さを知り、成熟していく。
  
  もちろん、現実の残酷さは、個人だけに言えることではない。たとえば、サッカーの日本代表は、ドーハの悲劇を経験し、やっとW杯に出られるようになったかと思えば今度は世界の壁に阻まれ続けている。2006年のW杯も、うまく行けば2勝1分かという日本中の期待に反して、2敗1分という惨敗に終わった。日本代表もまた、ドーハの悲劇から続く順調な成長を経て、現実の残酷さに打ちのめされたのだ。

 

  そんな日本代表と同じように、僕らも、人生における現実の残酷さを節目節目で知らしめられるのだ。

 

  この「next door」は、恋愛において現実に打ちのめされる男性を描く。瞬く間に離れていった恋人と、恋人の中にある変わらぬものに苦悩する男性。
  もはや2人が共に歩くことはできない。だが、次の恋愛にも進むことができない。 
  ASKAは、声に強弱をつけながら男性の締め付けられるような苦しい心情を表現していく。しびれるような間奏のギターと伴奏のベースがそれをいっそう引き立てている。

 

  おそらく、2人は、この終わった恋愛を一生、心の片隅に抱えながら生きていくことになるだろう。そして、苦しむ男性も、いつかは新たな道へ進むため、次の扉を開くことになるのだ。だが、今はそれができない。発している言葉とは裏腹に、心の奥底に残っている慕情と思い出をしまい込めないでいる。一度、心に染み付いてしまった想いは、簡単にはとても消すことができず、もう駄目だと分かっていながらまた何度も再生してくるのだ。
  
  僕らは、生きていく中でいくつものストーリーをつむぎ出していく。だが、そのほとんどはハッピーエンドで完結することがない。思うような結果が出なかったり、途中であきらめてしまったり、悲劇に終わったりする。
  そういった終わり方をするストーリーは、本来、望むべくして訪れた結末ではない。きっと続きがあるはずなのだ。
  その続きから、もう一度始めたい、という願望は、誰もが心残りとして持ってしまう。だが、一度、途切れてしまったものを再びつなぎ合わせていくことは不可能に近いことも確かである。

  「next door」は、そんな苦しい状況を何とか切り抜けて、成長していこうとする男性のもがく姿が見える。
  それは、人生のさまざまな局面で厳しい現実に叩きのめされたときの僕らの感情と一致するのだ。
  「next door」の男性は、その優しくも強い心を育んで、いずれ苦境を脱して成熟していくだろう。
  この歌のサビには、そんな力強さが見える。だから、僕らは、この楽曲がある程度の年齢に達した男性の失恋の歌であっても、それと同じ経験を一切していなくても、この楽曲にひきつけられるのだ。

 

 アルバム『NEVER END』に収録となった「next door」は、シングルにもベスト盤にも入っていないにも関わらず、ファンの間では根強い人気を誇る。コンサートツアー『My Game is ASKA』でASKAはこの楽曲を披露し、主人公の苦しい心の葛藤を見事に表現する歌唱にファンは酔った。たとえ、全く同じ経験はなくとも、人生のどこかでよく似たタイプの経験をし、共感できる部分をこの楽曲は、至るところに持っているからにちがいない。

 


10. Girl

 

 雄弁に言葉を詰め込んだ歌は、容易に解釈できるのだが、それ以上の広がりを持たない。逆に、雄弁に語らないことによって、人々によって十人十色の様々な解釈が生まれる歌がある。必要最小限の言葉を使い、あとはメロディーや歌唱、演奏によって楽曲を表現した場合、表面だけを聴かれて、制作者の意図と反するとらえられ方をすることがあるのだ。

  「Girl」は、まさにその代表的な楽曲ではなかったか。

  私は、ASKAのソロシングル「Girl」が発売になった当時、この楽曲を淡い青春の恋愛ソングだと思い込んでいた。それは、タイトルの「Girl」から、主人公が学生でいつかは卒業して離れ離れになってしまうことを知りながら恋愛をしている歌だと勝手に想像していたのだ。大ヒット曲である「SAY YES」のイメージが脳裏に残り続けていたいうのもあるかもしれない。世間のとらえ方も、やはり「SAY YES」の延長線上でこの楽曲をとらえようとしていたように思う。

 

  だが、私の中では、この「Girl」からどうしてここまで強い孤独を感じるのかがずっと不思議だった。演奏の核となっているアコースティックギターの音色も、明るいというよりはむしろ暗い。その上に乗せるASKAの歌声も、どことなく苦悩がにじみ出ていて、聴き終わると、もの悲しい寂寥が襲ってくるのである。
  そのため、当時流行していた他のヒット曲とは、相容れない浮き上がった存在に思えた。
  「Girl」が不倫を描いた楽曲であることを私が知ったのは、それから随分あとの話である。

 

 

  楽曲をあまり理解せずに聴いたり、歌ったりすることの危険を私だけでなく、世間に知らしめたのは森進一の「おふくろさん」騒動である。川内康範作詞で森進一が歌って大ヒットを記録した名曲だが、川内が知らないうちに関係者によって冒頭へ台詞が追加され、それを森が紅白歌合戦で歌ったため、川内が激怒して騒動となったのである。
 

 「おふくろさん」は、川内の母親の生きざまをモチーフにしており、川内が子供の頃、恵まれない人々に食べ物を配って歩いていた母親の教えを忠実に描く。母親が身を持って示した無償の愛が今の社会に、そして人間として必要であることを説いた楽曲なのである。
  しかし、川内の許可なく追加した台詞は、駄目息子で親不孝者だった自分の反省を歌うといった設定に変えてしまっている。
  つまり、台詞を冒頭に入れたことによって、川内が楽曲に込めた強い想いが全くと言っていいほど、伝わらない楽曲になってしまったのである。
  聴衆が楽曲の意図をくみとれないのは仕方ないとしても、歌い手やその周辺がくみとれなかったことに川内が抱いた失望はあまりに大きかったのだろう。
  
  「Girl」も、発売当時、短期消費型の流行音楽界でラブソングとして軽く受け流されてしまった印象が強い。この楽曲に流れている深い孤独や寂寥感を顧みられることはなかったのである。
  「Girl」の主人公がはまり込んだのは、禁断の愛である。必ずと言っていいほど、未来には悲劇的な結末が待ち受けている。常に後ろめたさを抱えたままの愛でもある。ゆえに、その愛がまっとうな愛以上の重みを持ってのしかかってくる。どれだけ愛を重ねても、周囲が温かくなることはない。前に進むのも、後ろに下がるのも辛いから身動きがとれない。苦悩の種は一向に消えてくれないのだ。
  主人公は、今、彼女と過ごすこの時間が永遠に続けばいいのに、と夢想する。しかし、あと数時間すれば、2人は、全く別の日常生活に戻らなければならないのだ。

 

  愛に浸りながらも、ため息が出てしまう苦しみが同居するメロディー、悩ましげなASKAの歌声ともの悲しい小刻みなアコースティックギターや不安を忍ばせるストリングスの音色は、終わりを予感させる孤独以上に、社会からの孤立を浮かび上がらせているのである。

 

 

  この楽曲を聴くと「禁じられた遊び(愛のロマンス)」というギター独奏曲を思い浮かべるほど、アコースティックギターの音色が映える楽曲である。このようなメロディーを作り上げたASKAとアコースティックギターのアレンジを手掛けたキーボーディスト松本晃彦は、主にピアノやキーボードで楽曲を制作するアーティストなのだが、あえてアコースティックギターを核に据えたところも特筆すべきだろう。

 

 

  現在から1998年当時を振り返ってみると、あまりにリズムや勢い重視の楽曲が多い中で、「Girl」は、メロディー、詞、歌唱、アレンジというすべての面において独自色が強いため、やはり浮いた存在である。
  しかし、中国ではこの楽曲がこの年最高の名曲とさえ評されることもあり、ファンの間でも熱狂的に支持する者は多い。そして、この楽曲の独自色は、その後のCHAGE&ASKAの楽曲群に生かされていき、彼らが他に類を見ないアーティストとなっていく過程で重要な楽曲ともなったのである。

 

 

 

 

11. HELLO

 

 楽曲のどこをとっても魅力的なメロディーが見つけられる作品は、大抵大ヒット曲である。大ヒット曲はおろか、シングルでもないアルバムの中の1曲から、それを見つけられるアーティストはそう多くはない。CHAGEやASKAは、その数少ないアーティストである。数々の大ヒット曲を世に送り出しながら、アルバムの中にはシングルにして世に広めなかったことがもったいない、と感じるほどの名作が埋もれている。

 

  1995年2月27日発売のオリジナルアルバム『NEVER END』に収録となった「HELLO」は、まさにそういう楽曲である。「ニュースステーション」の1コーナーで流れ、Count DownTVで披露されたことはあるようだが、世間に広く知れ渡ったというほどメディアに取り上げられなかったことも事実である。

 

 

  「HELLO」は、数多くの楽器の音色を使用して、ASKAの卓越した迫力ある歌唱を盛り立て、あたかも交響曲のような雰囲気を醸し出す。のちにASKAがシンフォニックサウンドへの道を歩み始める片鱗を見つけることができる楽曲である。
  主人公の感情の起伏を巧みに表現するストリングスやキーボードサウンドに留まらず、シンセサイザーによって様々な楽器の音色を組み合わせて、楽曲を壮大で華やかなものとしている。その編曲者は、様々なアーティストへの編曲を担当し、1990年代後半からは様々な音楽番組の音楽監督としても名を残すことになる武部聡志である。
  さらにソロアーティストとしても活動する宇佐元恭一をコーラスに起用し、ASKA自らもコーラスとして重厚なハーモニーを作り出すなど、Aソロ作品とは思えないほどの密度を誇る。

 

  ASKAが発表してきたソロアルバムの中でも、『NEVER END』の1曲目から2曲目にかけて見られる圧倒的な迫力は、特筆に値する。1曲目の「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」は、力強いロックサウンドなのだが、「HELLO」は、そうしたロックの要素を持ちながらも、ストリングスの柔らかく流れるような旋律が明るくも悩ましげな雰囲気を醸し出しているのである。

 

 

  楽曲の主人公は、現在の生活を抜け出したいと考えながら日々を過ごしている。あれこれ考えて悩む日々だ。
  そこから抜け出すには一歩目を踏み出すことが必要で、主人公は、新しい道を進もうと試みる。

  「HELLO」というタイトルは、ありふれた挨拶の言葉だが、この楽曲では、主人公の意気込みの表明である。人々の気分を一新させる効果さえある挨拶の言葉をASKAは、発する度に音と声の張りを上げながら、こまごまとした悩みを一言で吹き飛ばす。大抵の挨拶の言葉がその響きに特別な輝きを持ったいるように、「HELLO」という言葉も、そういう魔力を持っているのだ。

 

  人は、ついすぐに結果が出ることを望んでしまう。もちろん私も、例外でない。苦労せず、楽にお金を儲けたいと思うし、挫折を味わいそうになっても何か劇的な打開策があるのではと詮索してしまう。地道に積み上げて行くよりも、簡単に成功を導き出す方法への誘惑にとらわれてしまうのだ。
  しかし、主人公は、自らを戒める。まずは、一歩一歩着実に、そして、苦しみを抱えながらも、周囲の状況にも目を向けながら進んで行くことが大切なのだ、と。
  主人公は、自分に言い聞かせるように、そして、自らを励ましながら、誰にというわけでもなく心境を独白する。

 

  すべてがうまく行くことなんてありえない。うまく行かないことがあっても、劇的にその場を切り抜けられるような展開も、めったにあるものではない。
  そこで出てくる自らの意思は、肩に力の入ったありきたりのものに過ぎないのだ。主人公は、小さな挫折に直面しながらも、恋に想いを向けてしまう自分に、かすかな自虐をしてみる。
  突発的に湧き上がってくる感情を自制するための言葉として主人公は、また挨拶の言葉「HELLO」を口にしてみるのだ。

 

  楽曲の後半では主人公がレストランにいて、もの想いにふけっているという情景が浮かび上がってくる。しかし、それとは対照的に窓の外では子供たちが無邪気に外をはしゃぎ回る姿がある。ASKAが強調するかのように、少し沈みこんだ濁った声を変えて収録している場面だ。
  その対比こそが、主人公の心の中に抱えている葛藤を際立たせる。目の前のことを当然のこととして、受け入れ、少し先のことだけを考えて無邪気に前進する子供たちの姿が逆に教師のように感じられもするのだ。それこそが目の前に現れた知人に当たり前のように挨拶する「HELLO」という言葉そのものではないか。
  ASKAがラストで「HELLO」という言葉とともに歌う40秒以上に及ぶ見事なスキャットは、主人公が心の葛藤から抜け出そうとする内なる前進が見える。

 

  新たな壁に突き当たったとき、それぞれの人々が口にする「HELLO」のような自然で輝きある言葉で自らを制御しながら、気分を一新させて前に進むということは大切である。そう考えて「HELLO」という楽曲を聴くと、「HELLO」という言葉は、単に英語で挨拶で使われているという意味以上のものをもって我々に伝わってくる。
  最近は、この楽曲をメディアでもライブでも耳にすることが少なくなっているが、ぜひ私は、ライブの最初でこの楽曲を聴いてみたい、と願うのである。

 


12. と、いう話さ

 

 ASKAの楽曲は、ストーリーが豊かで、聴いていると主人公の心の動きがくっきりと浮き彫りになってくる詞が多い。
  しかし、「と、いう話さ」を最初に聴いたとき、私は、この楽曲の詞が意味するものを理解できなかった。
  いや、実は最初だけでなく、結構、長い間、詞の意味を理解できなかったのだ。

 

  だって、そうなるだろう。
  愛や罪を激しく叫んでいる人がいるかと思ったら、貝殻を耳に当てて音を聴く自然体な人がいる。
  紙に小石を乗せ続けている人がいるかと思えば、女性を抱いて眠ろうとする人がいる。

  こんなつながりのない詞をどう解釈しろというのか。

 

  それでいて、ギターサウンドとドラムを前面に押し出したロック調の乗りがいいメロディーと、低音から高音まで幅広い音階を駆使しながら感情を弾き出すように迫ってくるASKAの歌唱は、その一言一言が重い意味を持っているように感じられる。

 

 

  ASKAは、この楽曲で一体、何を歌っているのか。
  私は、『Too many people Music Video+いろいろ』でのインタビューを聴いて初めて、納得できた。

  「と、いう話さ」で描かれている内容は、ASKAがこれまで見てきた夢の光景だったのだ。 
  見る夢は、すべて想像であり、想像を超える夢は存在しない。

 

  そして、夢は、眠っているひとときにだけ見るものなので、ストーリーが極めて断片的である。
  断片的ではあっても、夢は、人々の脳が描く未来への希望や不安が現れていて、他人には断片的過ぎて、なかなか意味を理解できなくとも、自らはその意味を何となく理解できるのだ。

 

 

  「と、いう話さ」は、極めて実験的で前衛的な詞の楽曲でありながら、ASKAのロックサウンドが男の魅力を存分に放散しているため、YouTubeで公開されたミュージックビデオも、高い人気を誇っている。特に若い男性から多くの支持を集めている現実に驚かされる。

 

  そんな「と、いう話さ」のミュージックビデオもまた、「東京」と対になっていて興味深い。
  少し陰がある雰囲気で黒いコートを着て、ギターを鳴らしながら重々しくも力強く歌い上げる「と、いう話さ」のASKAは、鐘の音に象徴されるように明るい雰囲気で白いTシャツを着て陽気に歌う「東京」のASKAとは、まさに陰と陽である。軟と硬ともとらえられる。歌い方も大きく変えており、別人が歌っているようである。
  この2曲を比較しながら聴くと、ASKAの七色の歌声と作詞作曲力の巧みさが堪能できる。

 


13. しゃぼん

 

 こんなにも底知れない孤独を歌った楽曲がかつてあっただろうか。
  失望の中で、心の奥底から絞り出すような問いかけ。
  心に響かぬはずがない。人は、誰しも多かれ少なかれ、思い通りにならない人生に、孤独と失望を抱えているのだ。

 

  私にとって、ASKAは、すべての才能を兼ね備えたミュージシャンであり、並び立つ者がないほどのスーパースターだ。
  おそらく、多くのファンは、そんな唯一無二の姿に憧れを抱く。ASKAのような存在になりたい。そう夢見ながら、夢のまま終わっていくのだ。

 

 世間の人々が夢見るものすべてを手に入れて、孤独なはずがない。
  そう思っていたから、ASKAが逮捕されたときの衝撃は、想像を絶するものだった。
  光に包まれた音楽活動の裏側で、一体何があったのだろうと驚いた。

 

  スーパースターは孤独だ。
  そんな言葉をどこかで耳にしたことがある。
  嘘だと思っていた。望むものをすべて手に入れてしまえば、このうえない幸せではないか、と。

 

  しかし、歳を重ねて、その言葉の意味も、少しは分かってきた。どんなに望むものを手に入れようとも、孤独はなくならないのだ。むしろ、虚しい孤独は増えるような気がする。手に入れたものをいつかは必ず手放すときが来るからだ。

  すべてを手に入れたはずのASKAが今、胸が締めつけられるような孤独を歌っている。

  ASKAは、ハッキング被害等による苦しみから過ちを犯し、栄光や名誉をすべて失った。
  さらには、周囲の一方的な誤解から閉鎖病棟に強制入院。マスコミの偏向報道。
  神のようにもてはやされる存在から、一気に人間以下として叩かれる存在となった。

 

  登った山が最高峰であっただけに、落ちたときの谷も深い。
  普通の人間なら立ち直れないほどの苦境。

 

  しかし、ASKAは、才能と意欲を失わなかった。
  絶望の淵で自分を見つめ直し、自らに訪れる幸せや苦しみとは一体何なのかを問い続ける歌。
  魂が乗り移った歌を作ったのだ。

 

  主人公は、自らをしゃぼんに例える。様々な色を見せながら、高く浮かびあがろうとしては、天に昇ることができずに弾けてしまうしゃぼん。
  何度作っても、ゆらゆらと揺れ、屋根さえ越えられない壊れやすさ。

  主人公は、自らに何度も問いかける。こんなしゃぼんのような自分に、救いはあるのか、希望はあるのか、愛されているのか。幸せなのか、苦しいのか。

  自分自身に問い続けてみても、現実は孤独だけが降り積もっていく。
  それでも、救いや希望や愛や幸福を追い求めたくなる。

 

  おそらく2番の詞は、ファンに向けて想いを歌った内容だ。
  自らを想ってくれる人は、言葉で伝えなくても伝わってくれる。
  そんな心からの愛に偽りはあるか。プライドを守る未来はあるか。
  そして、あなたの傍ら歌は光り輝いているか。

 

  いろんなしがらみを断ち切ることが上手くできなくて、いつも抜け出せなくなってしまう自らの弱さ。
  それでも、主人公は、孤独と失望の中で悩み、苦しみながら、誰にも平等に訪れる朝に救いを感じるのだ。

 

  人が持っている孤独や失望は、ただ周りに誰もいなくて1人であるからでも、1人では何もできないという無力から来るものでもない。
  誰からも自らの存在価値を認めてもらえないことが孤独を生み、どんな言動をしても誰からも理解してもらえないことが失望を生むのだ。

 

  「しゃぼん」を聴いていると、私程度の孤独や失望を抱えていても、大したことがないのだ、と思えてくる。
  もうこれほどの歌を作ってもらったら、感謝以外の言葉が出てこない。
  今、言えることは「ASKAさんの歌は、私の中できらきらと光り輝いているよ、ありがとう」である。