その会社の予算期は1~12月だった。決算は12月末日。
したがって10月になるとその年度の収支状況をほぼ正確に見通すことができるようになり、それをベースにして次年度の予算作成作業に入ることとなる。毎年繰り返される、会社としての恒例行事である。
そして現場の下層管理職にとっては、もっとも忙しさに翻弄される面倒な季節でもある。日常の仕事はそのままに、予算の作成にも時間をとられるからだ。
予算の作成というとかなり重要な作業のようだが、実際に行うのはもっとも下っ端の管理職である。その上には何重にも積み重なったお偉方がいるのだが、彼らはだいたいの方針や大枠を示すのみで、数字を作る細かい作業は当然のことながら現場に押し付けてくる。エクセルを駆使して数字と格闘するのは、中間管理職ならぬ下層管理職であり、毎夜遅くまで残業してパソコンの画面を見つめることになるので、彼らの老眼が一段と進行するのもこの季節だ。
さて、ある年の10月のことである。いつものように予算の編成作業が始まることになった。
会社の上のほうから予算の作成方針が提示され、紙に書かれたものが下層管理職のところまで降りてきた。
そしてその年、そこには誰が見ても仰天するような内容が書いてあったのだった。
『全部門一律、収入は今年度見通しより増額すること、支出は今年度見通しより減額すること』
理想ではない。努力目標でもない。これがこの会社の、具体的な次年度の実行予算作成方針だったのだ。
ちなみに、営業部門の予算は収入と支出の二通りがある。収入とはもちろん売り上げ見通しであり、支出はそれにかかる経費。一方、生産部門、管理部門の予算は支出だけ。そしてどんな部門においても、収入は必ず今年より多くなるようにし、支出は今年より少なくするようにしろというのである。
さらにはご丁寧なことに、次年度の日本経済の動向見通しなどというレポートが添付され、次年度は今年度以上に景気は上向くはずだから全部門の増収は可能だと言い切っているのだ。
ただでさえこれが、あまりにも経営者に都合のいい、現実を無視した奇天烈な方針であることは誰の目にも明らかだろう。百歩譲って、これが単一の業種を相手にしている企業なら、こういう方針もありかもしれない。
ところがこの会社の営業部門は細かく30以上に分かれており、それぞれが異なるマーケットを対象にしているのだった。電機業界、医療業界、建築業界、コンピュータ業界、等々、もちろん重なるところや隣接するところはあるが、基本的にはそれぞれの部門が独立した形で営業している。
現場はマクロ経済ではなくミクロ経済で動いており、日本全体の景気動向がどうしたこうしたなどは実はほとんど関係がない。たとえバブル経済のような狂騒が起こっても、業種ごとに見れば不調な業種はあるし、業界は好調でも顧客一社一社を見ればやはり業績不振な会社はあるはずだ。また逆にどんなに景気が悪くても、業種によっては好調なところもあるし、不況の中でも儲かっている会社は必ずある。
現場は生きた会社を相手にしているのだから、予算を作るにあたっても、当然それらに対応した現実的な見通しを行うものだ。自分が担当する部門が対象としているマーケットの動向、そして大手クライアントの業績を考慮しながら数字を作っていく。
結果的に、そうして作られた各部門の予算の総和が日本経済全体の動向に近くなっていくことは必然だ。しかしそれは、足し算をしたら結果としてそうなるというだけであって、細かくひとつひとつの部門を見たら、実態は異なるのである。
それにもかかわらず、全部門一律に、収入は今年より増額、支出は今年より減額した予算を作らなければならなくなった。
これがいかに現場のやる気を削ぐことになるかは、言うまでもないだろう。
まず、全部門とも有無を言わさずに経費を削られるのでは、社員の士気が著しく低下する。節約は大事なことだし、無駄な支出を省くのは当然のことだ。しかし個別状況を無視したこのような指令は、生産部門、管理部門においても「新しい試みは一切やるな」と言っているに等しい。
営業部門においては、もっと事態は深刻だ。
たとえばものすごく好調な業界を対象にしている部署の場合、ここが飛躍のチャンスとばかりに「いろいろな手を打ちたいから経費(支出)を2倍使わせてほしい、その代わり売り上げ(収入)を3倍にしてみせる」という強気な予算があってもいいはずである。これは極端な例だが、そのような現場の意気込みや飛躍の芽すらも、最初から会社が摘んでいるのである。
逆の場合もある。どう見ても業界の景気が悪くて、売上は伸ばせそうにない。だから「売上は今年度よりマイナス予算、ただし支出はさらに絞ってなんとか今年度並みの利益は確保します」という予算もあっていいはずである。しかしこの方針の下では、そんな予算が許されるはずがない。
こうなると、予算の作成作業自体がまったく意味を成さないものとなる。現場は適当に数字のつじつまを合わせるだけだ。売り上げを今年の2~3%から7~8%増(これはそれぞれの業界によって増減はある)、支出を5%減くらいに作って、それを12分割して月割りを作る。もっとも、単純に12分割すると現実的でないとみなされるため、景気が悪いといわれる2月と8月は売り上げが少なくなるようにしたり、なんだかんだともっともらしい装飾を施して、数字のお遊びをするのである。こうして現実をまったく無視した絵に描いた餅ができあがる。
それが経営会議にかけられて承認されるわけだが、経営陣は大満足である。なにしろ計画では、次年度は全部門が増収増益になるはずだから、会社全体は大儲け。笑いが止まらない。
しかし現場は、涙が止まらない。
やる気になっていた部署の人間はその意気込みをくじかれ、「適当に流しておけばいいんだろう」となるし、増収など不可能だと思っている部署の人間は、そんな予算に責任は持てないから、人事異動で早いところその部署を逃げ出すことを考える。
経営者の自己満足に付き合わされる社員はたまったものではない。
こんな会社は衰退する。