その会社の予算期は112月だった。決算は12月末日。

 したがって10月になるとその年度の収支状況をほぼ正確に見通すことができるようになり、それをベースにして次年度の予算作成作業に入ることとなる。毎年繰り返される、会社としての恒例行事である。

 そして現場の下層管理職にとっては、もっとも忙しさに翻弄される面倒な季節でもある。日常の仕事はそのままに、予算の作成にも時間をとられるからだ。

 予算の作成というとかなり重要な作業のようだが、実際に行うのはもっとも下っ端の管理職である。その上には何重にも積み重なったお偉方がいるのだが、彼らはだいたいの方針や大枠を示すのみで、数字を作る細かい作業は当然のことながら現場に押し付けてくる。エクセルを駆使して数字と格闘するのは、中間管理職ならぬ下層管理職であり、毎夜遅くまで残業してパソコンの画面を見つめることになるので、彼らの老眼が一段と進行するのもこの季節だ。

 さて、ある年の10月のことである。いつものように予算の編成作業が始まることになった。

 会社の上のほうから予算の作成方針が提示され、紙に書かれたものが下層管理職のところまで降りてきた。

 そしてその年、そこには誰が見ても仰天するような内容が書いてあったのだった。

『全部門一律、収入は今年度見通しより増額すること、支出は今年度見通しより減額すること』

 理想ではない。努力目標でもない。これがこの会社の、具体的な次年度の実行予算作成方針だったのだ。

 ちなみに、営業部門の予算は収入と支出の二通りがある。収入とはもちろん売り上げ見通しであり、支出はそれにかかる経費。一方、生産部門、管理部門の予算は支出だけ。そしてどんな部門においても、収入は必ず今年より多くなるようにし、支出は今年より少なくするようにしろというのである。

 さらにはご丁寧なことに、次年度の日本経済の動向見通しなどというレポートが添付され、次年度は今年度以上に景気は上向くはずだから全部門の増収は可能だと言い切っているのだ。

 ただでさえこれが、あまりにも経営者に都合のいい、現実を無視した奇天烈な方針であることは誰の目にも明らかだろう。百歩譲って、これが単一の業種を相手にしている企業なら、こういう方針もありかもしれない。

 ところがこの会社の営業部門は細かく30以上に分かれており、それぞれが異なるマーケットを対象にしているのだった。電機業界、医療業界、建築業界、コンピュータ業界、等々、もちろん重なるところや隣接するところはあるが、基本的にはそれぞれの部門が独立した形で営業している。

 現場はマクロ経済ではなくミクロ経済で動いており、日本全体の景気動向がどうしたこうしたなどは実はほとんど関係がない。たとえバブル経済のような狂騒が起こっても、業種ごとに見れば不調な業種はあるし、業界は好調でも顧客一社一社を見ればやはり業績不振な会社はあるはずだ。また逆にどんなに景気が悪くても、業種によっては好調なところもあるし、不況の中でも儲かっている会社は必ずある。

 現場は生きた会社を相手にしているのだから、予算を作るにあたっても、当然それらに対応した現実的な見通しを行うものだ。自分が担当する部門が対象としているマーケットの動向、そして大手クライアントの業績を考慮しながら数字を作っていく。

 結果的に、そうして作られた各部門の予算の総和が日本経済全体の動向に近くなっていくことは必然だ。しかしそれは、足し算をしたら結果としてそうなるというだけであって、細かくひとつひとつの部門を見たら、実態は異なるのである。

 それにもかかわらず、全部門一律に、収入は今年より増額、支出は今年より減額した予算を作らなければならなくなった。

 これがいかに現場のやる気を削ぐことになるかは、言うまでもないだろう。

 まず、全部門とも有無を言わさずに経費を削られるのでは、社員の士気が著しく低下する。節約は大事なことだし、無駄な支出を省くのは当然のことだ。しかし個別状況を無視したこのような指令は、生産部門、管理部門においても「新しい試みは一切やるな」と言っているに等しい。

 営業部門においては、もっと事態は深刻だ。

 たとえばものすごく好調な業界を対象にしている部署の場合、ここが飛躍のチャンスとばかりに「いろいろな手を打ちたいから経費(支出)を2倍使わせてほしい、その代わり売り上げ(収入)を3倍にしてみせる」という強気な予算があってもいいはずである。これは極端な例だが、そのような現場の意気込みや飛躍の芽すらも、最初から会社が摘んでいるのである。

 逆の場合もある。どう見ても業界の景気が悪くて、売上は伸ばせそうにない。だから「売上は今年度よりマイナス予算、ただし支出はさらに絞ってなんとか今年度並みの利益は確保します」という予算もあっていいはずである。しかしこの方針の下では、そんな予算が許されるはずがない。

 こうなると、予算の作成作業自体がまったく意味を成さないものとなる。現場は適当に数字のつじつまを合わせるだけだ。売り上げを今年の23%から78%増(これはそれぞれの業界によって増減はある)、支出を5%減くらいに作って、それを12分割して月割りを作る。もっとも、単純に12分割すると現実的でないとみなされるため、景気が悪いといわれる2月と8月は売り上げが少なくなるようにしたり、なんだかんだともっともらしい装飾を施して、数字のお遊びをするのである。こうして現実をまったく無視した絵に描いた餅ができあがる。

 それが経営会議にかけられて承認されるわけだが、経営陣は大満足である。なにしろ計画では、次年度は全部門が増収増益になるはずだから、会社全体は大儲け。笑いが止まらない。

 しかし現場は、涙が止まらない。

 やる気になっていた部署の人間はその意気込みをくじかれ、「適当に流しておけばいいんだろう」となるし、増収など不可能だと思っている部署の人間は、そんな予算に責任は持てないから、人事異動で早いところその部署を逃げ出すことを考える。

 経営者の自己満足に付き合わされる社員はたまったものではない。

 こんな会社は衰退する。

エピソード1

 ある会社であった本当の話。

 N氏はその会社の社長になったとき、自分が天皇陛下にでもなったと勘違いしたようだった。奥の院(社長室)にこもって、めったに外に出て来なくなったのだ。そうすることが社長の権威を保つことであると、彼は信じて疑わないようだった。

 この会社は従業員500人規模の会社であり、その程度の会社の社長など世間一般から見たらそんなに偉そうにするほどの地位でもないのだが、それがN氏の生来のキャラクターでもあったのだから仕方がない。

 もっとも、現場の人間にとっては社長などはいてもいなくても関係ないし、社長が現場の仕事に口出ししたりしたらかえって迷惑きわまりないので、社員たちにとっては、これはこれで一向に構わない。N氏は偉そうにしているといっても、周囲に威張り散らしたり、怒鳴り散らしたりするようなタイプではないから、害はない。そのまま部屋にこもっていてくれても現場には何も支障はなく、むしろ社員の大多数は、そのままでいてほしかったくらいだ。

 ところがある日のことである。何を血迷ったかN氏が突然、「たまには現場のナマの声が聞きたい」などと言い出したのである。

 ナマの声が聞きたいなら、勝手に社内を一回りしてそこらへんにいる社員をつかまえて話しかければ良いのだが、そこは天皇陛下、軽々しくそんなことができるわけがない。早速侍従長(秘書室長)を呼び付け、社員を10人くらい集めて昼食会を催すとのたもうたのだ。

 さて、慌てたのは秘書室長である。社内の各部署から若手社員を集めるという仕事を仰せつかったわけだが、社員であれば誰でもいいというわけにはいかない。あまり過激な社員を社長の前に出したら、そいつが何を言い出すかわかりゃしないからだ。ただでさえ社内には、社長に面と向かって「最近の経営方針はおかしい」などと言い出しかねない血気盛んな輩が大勢いるのである。間違ってそんな奴を出席させたら、せっかく下々の声に耳を傾けてやろうという陛下の大御心に水を差すことになってしまう。

 秘書室長は人選に当たって、社内ネットワークを駆使し、管理職連中からいろいろと情報を収集して慎重の上にも慎重な配慮を重ね、各部署間のバランスも考慮して、ようやく当たり障りのない社員を10人ほど選出した。そして社長と相談して日程を決めると、今度はその10人の予定も確認しなければならない。

 社長と違って、現場の人間は忙しいものだ。たまたまその日に出張が入っている社員がいるかもしれないし、出張がなくてもアポイントの都合で昼に会社に戻ってこられない社員もいるかもしれない。10人の予定を確認し、当日予定が入っているという社員がいたらメンバーからはずし、同じ部署からまた改めて慎重に人選を行い、別の当たり障りのない社員に差し替えた。こうしてようやく、10人の出席者が決まった。

 しかし、これで秘書室長の仕事が終わったわけではない。常識的に考えたら、社長の気まぐれに付き合うよりも、日常業務のほうが優先されるべきもののはずである。しかしこれは御前会議(?)であり、秘書室長にとっては日常の仕事よりも優先されてしかるべきものだった。とはいえ、社員にそんな理屈が通じるはずがないということも、彼はわかっていた。当たり障りのない社員を選んだはずではあるが、だからといって彼らが社長に忠誠心を持っているわけではない。そんなものは欠片もないはずだから、彼らは「出席する」と言っておいていざ当日になって「仕事が入りましたから」と簡単に欠席しかねないのである。そのようなリスクは可能な限り避けなければならないから、選ばれた社員たちには噛んで含めるように会議の重要性を言い聞かせ、絶対に出席するよう要請した。もう、ほとんど懇願である。この時点での彼のミッションは、この会議をつつがなく進行させ、いかに社長に満足してもらうか、その一点に集約されていたのだ。

 秘書室長の粘り強い努力の結果、なんとかかんとか日時、出席者、そして弁当の内容が確定し、いよいよ当日を迎えることとなった。

 ちなみにこういう席では、弁当のグレードも重要なことである。あまり豪華な物を用意すると社員は「役員はいつもこんなものを食べているのか」と皮肉るし、かといってあまり質素にすると社長から「私にこんなものを食べさせるのか」と不興を買ってしまうからだ。くだらないといえばあまりにくだらないが、これもまた秘書室長にとっては重要な仕事であり、これが会社というところなのである。

 当日のことは、その会議に出席したA氏に語ってもらおう。

「時間の10分前に集まるように言われていたので、一応その時間に会議室に行ったんです。でも僕が行ったときは、室内には23人しかいなかったですね。秘書室長がやたらと出たり入ったりしていました。肝心の社長が室内にいなかったんで、『あれ?』と思いました。

 秘書室長が出たり入ったりしながら忙しそうに電話していて、○○君と○○君はまだ仕事先から戻られないので遅れそうだとか言って慌てていました。

 そうしているうちに、なんとか時間通りに8人が集まったのかな。遅れるという連絡があったふたりを除いて、他の出席者がみんな集まりました。すると秘書室長がまた外に出て行きました。そしてしばらくすると、秘書室長の先導の元、社長がニコニコしながら現れたんです。まさに御付きの者を露払いに、高貴なお方が登場したっていう感じでしたね。

 会議のとき、どんな話が出たのかって? たわいもない雑談だけで、まったく覚えていません。それより社長の登場の仕方にあきれましたよ。今日の趣旨は“社員のナマの声が聞きたい”ということだというから、最初から社長は席に着いていて、順次やってくる社員と懇談しているのかと思っていたんです。ところが出席者が集まってから、ようやく厳かに登場。前からわかっていたけど、こんなときまで形式にこだわる人なんだな、本気でナマの声を聞く気なんかないんだなと思ったらばかばかしくなっちゃって、話の内容も弁当の中身も覚えていません」

 この話でもっとも問題なのは、N氏の“勘違い”である。既にここまでで数々の勘違いが披露されているが、なにより問題なのは終わった後だ。

 おそらくN氏は、会議の結果に満足し、「わざわざこんな昼食会を開いて現場の声に耳を傾けている私は、なんて立派な経営者なんだろう」と自己満足に浸ったはずだ。そして怖いのは、こういう人物は本気でそう信じ込んでいるということである。まったく悪気はなく、心の底からそう思っているのだ。経営者の集まりなんかに出たりしたら、他社の経営者たちにとうとうと自慢話を垂れかねない。「現場の声を聞くのは大事なことですよ。経営が経営者だけの自己満足になってしまってはいけません。そういうシステムを作ることで、会社は発展していくんです。ええ、私は充分に実践していますよ」と。

 自分のやっていることは実はまったく正反対で、実質的にはナマの声を遠ざけ、現場からの情報を遮断しているだけなのだが、そんな結果になっているとは夢にも思っていない。天皇陛下ならぬ“裸の王様”、誰かが「王様は裸だ」と声を上げなければならないのだが、その声は王様に到達する前に何段階もの壁に跳ね返される。

 この話で、秘書室長の過剰な対応を問題視する人もいるだろう。しかし問題なのは、秘書室長がそのような反応をせざるを得ない雰囲気を社内に作ったのは誰かということだ。壁を作っているのは、他ならぬN氏本人なのだ。そして、そんな社長をヨイショするだけの役員たち。

エピソード2

 N氏の次に社長になったS氏は、高貴なN氏とは対照的な豪快派の人物であった。しかし、やはりエラソーにするタイプであることは同じだった。

 S氏が社長のときに、社内に電子メール網が敷かれた。このときS氏は、全社員の前で言ったのだった。「誰でも言いたい事があったら、なんでも俺に直接言って来い」。豪快派の面目躍如である。

 その言葉を真に受けて、本当にS社長にメールを送った社員がいたらしい。するとS氏は、他の役員にこう言ったという。「平社員のクセに、本当に俺にメールを送ってきた身の程知らずのバカがいた」

教訓

 そもそも、「社員のナマの声が聞きたい」などとわざわざ言葉にするような人は、本当はそんな気はないということだ。

 本気の人は、わざわざ口にしなくても普段からなんらかの形で実践しているはず。

 こんな経営者のいる会社は衰退する。

 196813日、日大講堂においてTBSプロレスの旗揚げ戦が行われた。メインイベントはTWWA世界選手権試合、20世紀最強といわれたチャンピオンのルー・テーズに、期待の新鋭グレート草津が挑戦する一戦だった。

 TBSプロレスとは、それ以前から存在していた「国際プロレス」のことであり、TBSが経営介入したことから、団体名称が一時的にこうなった。当時のプロレスはテレビ局にとって優良コンテンツであり、日本プロレスを放送する日本テレビは視聴率30%ほどを常時稼いでいた。TBSとしてもそれを指をくわえて見ているわけにはいかず、現在で言うインディーズの団体だった国際プロレスに目をつけて傘下におさめたのだ。

 このとき、TBSの運動部長氏は、「プロレスのヒーローなんて、TBSの力をもってすれば一夜にして作れるよ」と豪語していたらしい。そしてTBSの思惑通りにいけば、13日の夜から、まさに一夜にしてグレート草津が国民的ヒーローになって、視聴率をガシガシ稼いでくれるはずだった。

 しかし結果は、テーズの勝利。しかも完勝だった。草津は負けたわけだが、ただの負け方ではない。3本勝負で行われたのだが、1本目にテーズが放ったバックドロップで草津は失神、2本目以降を棄権して担架で運ばれるという大失態を演じたのである。

 この試合の背景については、いろいろな伝説が残っている。TBSとテーズの間では、草津勝利ということで話がついていたという説がある。勝ったり負けたりしながらの4番勝負のはずだったという話もある。いずれにしても、草津をスターにするための試合であったことは間違いなく、それがどうして、このような結果になったのか。

 ギャラの問題だったのか、プライドの問題だったのか、テーズはTBSを裏切った。しかも、実に巧妙なやり方で。受身のうまくない草津が立ち上がれなくなることを計算づくで、1本目をわざと危険な角度で落としたのだ。そしてTBSに対しては、「2本、3本目を草津に取らせて逆転勝ちさせて上げようと思っていたのに、失神しちゃうんだもんなあ」とうそぶいたというのである。草津が弱すぎたからシナリオ通りにいかなかっただけだと言われたら、TBS側も文句をつけようがない。

 草津を団体のエースにするというTBSの構想は第一戦から頓挫し、軌道修正を余儀なくさせられることになった。草津はその後トップレスラーのひとりにはなったが、この第一戦での失態が響いたのか、エース(団体の看板であるシングルチャンピオン)になることは最後までなかった。


 なぜこんな古い話を書いているのかというと、もちろん、アレ絡みである。

 このときのTBSと草津の関係が、現在のTBSと亀田の関係にどうしても重なって見えてしまうのだ。そして思う、TBSの体質は変わってないな、と。

 もちろん、亀田は草津とは違って負けておらず、それどころか勝ち続けて大スターになった。一見TBSの思惑通りに進んでいるわけだが、それがいかに危うい橋の上を歩いていたものであるかが、82日の結果で明らかになった。

 TBSには選手を育てようなどという意識はまったくなく、視聴率を稼げるスターを手取り早く作りたいだけなのだ。ジャンルもプロレスでもボクシングでもなんでもいい。大スターが出るなら、バドミントンでも水球でも構わない。要するに、ジャンルに対する愛着や尊敬などかけらも持ち合わせていないから、ボクシング界全体のイメージダウンになろうが関係ない。これで亀田人気が失墜して視聴率が稼げなくなったら、さっさとボクシングから手を引けばいいだけの話だ。そしてバカな視聴者は、TBSが押し付けたスターをありがたがって拝んでいればいい、という傲慢さ。


 さっきテレビで見た総合格闘技Hero’sがやはりそうだ。所英雄、山本KID、桜庭和志をとにかくヒーローにしたくてしたくてたまらないようだ。

 だいたい、あの姑息な番組の作り方はなんなのか。一試合終わるたびに桜庭の映像を流し、「このあとすぐ桜庭登場」とかやってCMが終わると別の試合。それを何度も何度も繰り返し、引っ張りに引っ張って、結局桜庭が出てきたのは最初に「桜庭登場」とやってから1時間半くらいも経ってから。最近主流のやり方とはいえ、これで視聴者を釘付けにできるなどと本気で考えているのだろうか。むしろ反発を買うだけだということが、わからないのだろうか。

 番組の作り方だけではない。それ以前にミドル級トーナメントでは、一回戦で負けたはずの所が視聴者の投票などというわけのわからない理由で二回戦に出てくるという驚愕の操作までやってくれた。

 桜庭の試合は、開始早々にレフェリーストップになってしかるべきだったが、レフェリーがあれで止めなかったのは、やられていたのが「桜庭」だったからに他ならない。それどころか、止めたと思ったら、位置が悪いということでポジションを直させて、その間に攻撃する選手のリズムを止めて桜庭を休ませたというのは、あまりにうがった見方だろうか。

 しかしあの時、確かに客席から「ええ~」というどよめきが起こった。あの声は私には、あれ、桜庭の負けじゃないの? ああ、またTBSがインチキやってるな、という声に聞こえたものだ。

 私は所も桜庭も嫌いではないのだが、こういうのを見せられると、選手に罪はないのに、どうしても「負けてTBSを困らせてやれ」と思ってしまうのだから、TBSの罪は重い。

 頼むから、好きなスポーツや好きな選手を嫌いにさせないでほしい。中継するのなら、もっと真摯な態度でそのジャンルに取り組んでほしい。


 ちなみに、ニュース23のスポーツコーナーは、スポーツニュースではない。完全な番宣の場だ。自局で中継するスポーツ番組の宣伝ばかりを流していて、見ていると不愉快を通り越して気持ち悪くなる。スパーリングをやったとか弁当が発売されたとか、亀田の一挙手一投足を報じながら、他のボクシングニュースなどはまったく報道しない。最近は桜庭がやたらと画面に登場していたが、おそらくPRIDE時代には一度も取り上げられたことはないだろう。つまり、桜庭や総合格闘技にニュース価値があるわけではないが、Hero’sという自局が行うものは価値があるということらしい。ボクシングに価値はないが、亀田にはあるということと同じだ。

 ワイドショーならともかく、これでニュース番組といえるのだろうか。局アナは仕方ないとして、筑紫さん、横でニコニコしている場合ではないですよ。

 集団洗脳教育と言っても、北朝鮮の話ではない。戦前の日本の話でもない。戦後の、民主主義国家になってからの日本の話である。

 私は毎朝犬の散歩をしており、時間は不定期なのだが、たまに小学生の登校時間に重なることがある。私の息子もその区立小学校に通っているのだが、子供たちはみんな、登下校時におそろいの黄色い帽子をかぶっている。したがって、同じ帽子をかぶった子供たちがウジャウジャひしめいているところとすれ違うことがあるのだが、これも別にかまわない。この程度で集団洗脳などと非難めいたことを言うつもりはなく、制服や制帽というのはあってもいいだろう。

 その光景を見ているうちに、ふと自分が子供のときのことを思い出したのだ。

 昭和40年代の話だ。当時私は新潟県の、田舎の小学校に通っていた。

 田舎の小学校などと言うと、全校生徒が8人くらいしかいないような木造の分校をイメージする人がいるかもしれないが、残念ながら私が生まれたのはそれほどの田舎でもなかった。田舎の中の都会というのも変な表現だが、当時は40人学級で、各学年が5クラスあったのだから、全校生徒1200人という、それなりの規模の小学校だった。校舎はもちろん、鉄筋である。

 この学校には制服も制帽もなかったのだが、子供たちは陽射し避けのために登下校時には帽子をかぶるように指導されていた。これは今の息子の小学校と同じだが、学校指定のものはなく、どんな帽子をかぶろうともそれは各家庭の自由にまかされていた。

 男の子の帽子といえば、当然のことながら野球帽である。子供たちは洋品店に行き、親から自分の好きな帽子を買ってもらっていた。と、言いたいところだが、実は選択の余地はないのだった。

 色やサイズはそれぞれ勝手に選ぶことはできたのだが、実はその町の洋品店に売っていた子供用野球帽には、すべてにYGマークがついていたのである。その町に生まれた男子小学生は、巨人が好きか嫌いかに関わらず、それどころか野球が好きか嫌いかにも関わらず、否応なしに巨人の帽子をかぶらざるを得なかったのだ。

 これはとんでもない話である。『野球帽をかぶらなければならない→YGマークの帽子しか売っていない→子供は全員YGマークの帽子をかぶる』という構図が自然に作られていたのだ。時はあたかも、巨人のV9時代。

 そしてテレビで野球中継を見ようとすると、それは必ず巨人戦である。当時新潟には民放が2局しかなかったのだが、巨人対○○の試合しかやっておらず、○○のところは他のセ・リーグ5球団の名前がその日によって入れ変わる。つまり、あくまで巨人がそれ以外の球団を相手に試合することが、田舎の子供たちにとってのセ・リーグのペナントレースというものなのであった。

 そりゃあ、自分と同じ帽子をかぶったチームとそれ以外だったら、同じ帽子のチームを応援するに決まってるじゃん。

 完全なる巨人ファン生産の集団洗脳教育であった。しかも、直接的でないだけに、いと恐ろしや。

 ちなみに小学生時代から私は、親の影響もあってアンチ巨人であった。したがって、帽子を買ってきたら、はさみで糸を切って、縫い付けられたYGマークをはがして、あえて無地の帽子にしてかぶっていた。普通に考えたら、巨人ファンの子供が親に頼んでマークを付けてもらうものだろう。ところが当時は逆で、巨人が嫌いな子供はわざわざマークをはがさなければならなかったのだ。小学生の100%が巨人ファン、という社会的コンセンサスが形成されていたわけだ。読売新聞、テレビ局、そして帽子屋までを巻き込んでのインチキ・コングロマリットだ。

 洋品店としては、最大多数の顧客のニーズにこたえた結果だと言うのだろう。しかし全校生徒1200人、男子はその半分として600人が、全員巨人ファンのわけがないだろう。私のような子供が600人中、たったひとりだけだったわけがない。

 今思い返しても腹立たしい限りである。おそらく東北地方から中部地方の途中まで、中日の勢力圏が及ぶあたりまでは、同じような状況だったのではないだろうか。

 しかし時代の流れとともに情報化社会が進展し、価値観も多様化していった。相変わらずテレビは巨人戦ばかりだが、子供たちは雑誌などで巨人だけでなく他チームの情報を入手するようになり、巨人離れが加速していく。当然のことだ。

 読売新聞の最高幹部はこの当時の郷愁忘れがたく、今でも当時の再現を夢見ているような発言がときおり見られる。あの人にとっては、小学生が全員YGマークの帽子をかぶっているような社会が理想なのだろう。

 しかし、そもそもそんな状況が異常だったのだということに、いい加減気づいてほしいものだ。

 いつもの朝、とはちょっと違う。

 なにしろ、普段起きるのは8時頃なのに、今日は4時に起きたのだから。

 4時に起きて6時までテレビでサッカー観戦。それから、普段より2時間ほど時間を前にスライドさせた形で、日常の朝の生活を送った。犬の散歩をし、朝食を食べ、新聞を読み、髭を剃って着替え、自転車で駅に行き、満員電車に揺られ、事務所に到着。

 テレビの後はすっかり日常の繰り返しだったわけだが、電車がいつもより混雑していたことと、睡眠不足によって多少の睡魔が今でも体に気だるく絡み付いていることが普段と違っている。

 それにしても、覚醒している連続時間内の出来事なのに、あの4時から6時までの2時間が妙に昔のことのように感じるのはなぜだろう。とりあえずすべてが終わったという喪失感がもたらす感覚なのだろうか。

 以前にもこのような感覚を覚えたことがある。サイパン旅行から帰ってきたときのことだ。あのときは、午前中はサイパンで遊び、午後の飛行機で日本に帰ってきた。夕方自宅に帰着すると、つい数時間前までサイパンにいたことが信じられなくて、はるか昔のことのような感覚に陥ったものだ。あれも、もう非日常が終わったという喪失感が今回と共通している。

 私は特別なサッカーファンというわけではないし、日本代表チームに過剰な期待も抱いてはいなかった。だから今回の敗戦も、ほとんどショックというものはなく、まあこんなもんだろうと思っただけだった。

 それどころか、事前のマスコミの報道姿勢に疑問を持っていた。トリノオリンピック前の報道を思い出したくらいだ。

 トリノのときも、マスコミはやれメダル何個確実といった予想を書きたて、事前に能天気に煽っていた。こちらはウインタースポーツにおける日本人選手の実力などは知らなかったから、へえ~、そうなの? くらいに思っていたのだが、結果は惨敗だった。

 とくにスノーボードなど、メダル候補といわれていた選手たちが、決勝どころかことごとく予選落ちするにいたっては、マスコミ報道のいい加減さに唖然としたものだ。

 今回のサッカーワールドカップ大会も、そのときのことが私の中で重なっていた。あたかも決勝トーナメントに出るのが確実のような報道が多かったのではないか? そしてそのための星勘定を繰り返し、肝心の実力を冷静に分析・評価していなかったのではないか? それは大会を煽るためには致し方ない面もあるが、それにしてもと言いたくなった。

 特にひどいのがテレビである。視聴率を獲得するために強引に引っ張り、いくら絶望的になっても「まだわからない」を繰り返していた。過剰というより、誇大といってもいいくらいの期待をチームに押し付けていて不快だった。第二次世界大戦敗戦の経験を、日本人は完全に忘れている。

 野球のWBCで奇跡が起こったことも、影響を及ぼしているのだろう。しかし、あんな「神風」は、そうそう吹くものではない。

 これまでの報道の裏返しで、これからは日本代表チーム、とりわけジーコ監督に対するバッシングは凄まじいものが起こるだろう。もう既に週刊誌などではチラホラ出始めているが、今後は猛烈に勢いを増すだろう。見事なまでのマッチポンプである。

 もちろん、結果を残せなかったのだから非難はされてしかるべきだが、もともとの実力がそのレベルなのだから仕方ないともいえる。

 とりあえず日本サッカーは、ワールドカップにコンスタントに出場できるレベルまでは来た、アジアではそれなりのところまで来た、次の段階まで上がるためにはもう少し時間がかかる、ということなのではないだろうか。

 つまらない本を読むことは災難である。時間の無駄使いをしてしまったという後悔の念に襲われ、なんともモヤモヤとした後味の悪さだけが残る。ましてそれが好きな作家の作品で、期待が大きければ大きいほど、その分余計に空しくなる。

 『巨匠の駄作』というのは、かつて存在した『日経アート』という美術業界誌のある号の特集タイトルだった。要するに、素晴らしい芸術家、美術界の巨匠といっても、そのすべての作品が名作というわけではなく、中には駄作もあって当然、ところが日本の美術界では巨匠のネームバリューだけでどんな駄作でも高値で取り引きされている現状を揶揄する記事だった。

 このタイトルを私は非常に気に入って、美術に限らず、小説でもなんでも、そういうことってあるよなあと深くうなずいたものだった。

 そして今の私は、その『巨匠の駄作』に触れた心境になっているのである。

 乃南アサという作家は、現代の作家の中で私が最も好きな人のひとりである。抜群の構成力とストーリー展開には敬服しており、これまで「はずれ」を引いたことがないような気がしていた。乃南さんを巨匠と呼んでいいかどうかわからないが、少なくとも私にとっては、どんな作家よりも面白い小説が書ける人なんだから巨匠である。

 しかし、ついにはずれを引いてしまったのだった。『あなた』である。

 2003年の作品だから何をいまさらという感じだが、文庫になったのは今年で、私は文庫しか読まないのだから仕方がない。最近読み終わって、ページを閉じた瞬間に重苦しい沈黙に包まれることになってしまった。

 まず、登場人物たちに感情移入できない。

 主人公のくだらないダメ男がなんでこんなに女にモテるのか。ルックスがよほど良いのだろうか。そうだとしても、軽薄な女が近づいてくるだけなら良くあることだろうが、重要な登場人物ふたりは思慮深い女で、しかもひとりは充分に大人の女性である。そんな人たちがなんで、こんな不実な男を簡単に愛しちゃうわけ?

 ストーリーも単調だ。あまりに簡単に謎解きができてしまったため、乃南さんのことだから最後の最後に何かすごいどんでん返しを用意していて読者を驚かせてくれるのだろうと期待して読み進めたのだが、確かに二転三転は用意されていたものの、悪いほう、悪いほうへと展開して嫌な予感がした。そして最後はまったくの期待はずれで、思わず「あ~あ」と声を出してしまいそうになった。作家がつまらないテクニックに走った典型的な例だろう。

 別にオカルトや超常現象が悪いわけではないし、ミステリー小説にそれらが出てくるのは当然ともいえる。小説に、「現実感がない」などというヤボな批判をするつもりもない。しかしそこには、それらが登場する必然性と、読者に対する説得力がなければいけない。ところがこの小説には、それがかけらも見られないのだ。

 さすがに本人もそこには苦慮したのだろう、陰陽師とか代々のキツネ憑きの家だとかいった伏線を用意しているが、作家の苦し紛れの言い分けにしか見えないのだ。

 解説のベタ褒めの文章が、読後の空しさに拍車をかけた。書いた人は新聞記者だそうだが、「あなたは乃南アサの小説がこんな程度で満足なの?」と問い詰めたいくらいだった。

 その解説によれば、この小説はもともとケータイで配信されたものらしい。その発表形態にも問題があったのではないかと推測してしまう。ブツ切りの発表だと、どうしても安易なご都合主義に走ってしまいがちである。

 こんな風に思うのは私だけかとも思い、amazonのカスタマーレビューを見たら、やはり不満の声が多く載っていて、安心した。

 いわゆるメール問題について、民主党のけじめが一応ついたようだ。永田寿康氏の議員辞職、そして執行部の総退陣。あまりに遅すぎて、うんざりだったが、とりあえず一段落ついた。民主党には、これ以上できることはないだろう。

早くも政局の焦点は、次の代表選びになっている。

 しかし、これで西澤孝氏の証人喚問がなくなったのだから、私としてはガッカリもいいところである。なぜ、西澤氏がそんなガセネタを永田氏に持ち込んだのか、あのメールは西澤氏の自作自演だったのか、それとも本当に西澤氏は仲介者に過ぎず、偽メールの作成者が他にいるのか、その人は何者でどのような意図を持っていたのか、肝心なところがさっぱりわからないままなのである。

 しかし、この点についての解明を民主党に求めるのは筋が違うだろう。もはや全面降伏したのだから。警察じゃないから、捜査権がないからこれ以上は無理と自ら認めているのだから。

今回はっきりしたことは、永田氏は手柄だけを焦って大声で人を罵りながら、信憑性の検証の必要性や先の見通しを持ち得ない軽率極まりない人物であること。さらには、もともと評判のよろしくないエセジャーナリストにあっさり騙されるような、お人好し極まりない人物であること。お人好しなどというと、なんだか憎めない人物のようにも聞こえるが、ここではそんな意味ではなく、はっきり言って世間ではこういう人を大バカと言うだろう。

野田佳彦氏というのは、そんな人物の国会質問を許し、ガセネタの持ち込み者に金まで払おうとした人物であること。

さらには前原誠司氏というのは、ちょっと批判されるとムキになって開き直って、突っ走って自滅する、周りがまったく見えない人物であること。ことの重大性を判断できず、責任の取り方をわからずにずるずる引き伸ばして、どんどん泥沼にはまっていくどうしようもない人物であること。

世間では、騙された永田氏も気の毒だとか、その永田氏を信頼した野田氏や前原氏もかわいそうだとかいう論調もあるようだが、冗談じゃない。とくに前原氏に関しては、騙されたことよりもその後の対応のあまりのずさんさが問題だったのだ。

 さて、今回の民主党の混迷を、“若さ”のせいにする人がいるようだが、これにもまた非常な違和感を覚える。はっきり言えば“若さ”より“バカさ”の問題であって、若い人間がみんなバカなわけじゃない。

 だいたいにして、野田氏なんかはもう48だし、前原氏だって40過ぎている。これで若いだの何だの言っている世界が異常なのであって、全然若くないっつ~の。

 若くて経験がないなんて論調もあるが、前原氏は1993年にはじめて国会議員になってからもう10年以上経っているのだし、その前の京都府議時代も含めれば、政治家としてのキャリアは15年にもなる。

 野田氏も、国会議員初当選は前原氏と同じで、その前は千葉県議をしている。しかもふたりとも松下政経塾出身と、その前から政治家になるように一生懸命お勉強していたはずなのである。

 それで若いだの経験がないだの、何をふざけたことを言っているのだろう。ただ単に、この人たちがだらしがないだけじゃないか。

 まあ、それが露呈しただけでも良しとしよう。この人たちが政権を取っていたらと思うと、ぞっとするのである。

 今朝、犬の散歩中にくしゃみが出た。しかも、立て続けに2発。

非常に嫌な予感がした。

 アレ、のせいだろうか。あの、どこぞの山から風に乗って飛散し、空気中にウジャウジャと浮遊していて、人の体内に入ってアレルギー症状を引き起こすというアレ、だろうか。

 いやいや、そんなはずはない、と私は自分に言い聞かせた。

私は断じてあのような病気ではない、もともと昔から慢性的な鼻炎であり、鼻がムズムズするというのは一年中のことなのである。この時期、鼻がむず痒くてくしゃみが出たからといって、あの病気と関連付けて考えるのはあまりに短絡的過ぎる。

 そういえば数年前から、この時期になると目がショボショボして痒いような気もしていた。しかしそれだって思い過ごしであって、確かに目はショボショボするがそれはパソコンに向かい過ぎることから来る眼精疲労で、決してこの時期に限ったことではない。

 世の中には、自分があの病気であることを認めたがらない人がいるという。そんな人の中には、「今まで罹ったことないから」などという理由にもならない理由を挙げる人もいるらしい。

 そんなものは何の根拠にもなっていない。今まで大丈夫だった人が突然罹るのが、あの病気なのである。そのように根拠もないのになんとか理屈をつけて言い逃れしようとする姿は見苦しい。

私はそんな根拠なしの人たちと一緒にしてほしくない。根本的な心構えが違う。私の場合は根拠もくそもない、あんな病気に罹ってたまるかという、いわば“意志”から来るものだからだ。

 “病は気から”は、単なる格言ではない。多分の真実を含んでおり、プラセボ効果というものが存在することがその証拠だ。どんな薬の治験データを見ても、プラセボ(偽薬)で症状が改善している人が必ずおり、バイアグラのプラセボでも勃起した人がいるのである。勃起どころか、私は意志の力で癌だって治せるんじゃないかと、半ば本気で信じている。

あの、アレルギー症状を引き起こすとかいう病気などは、意志の力が良いほうにも悪いほうにも作用する最たるものだろう。自分があの病気だなどと思ってしまったら、どんどん深みにはまることは間違いない。天気予報で「今日は多そうです」などと聞いたらもうだめ、外出しただけでムズムズモゾモゾすること請け合いだ。

ゴーグルとマスクをしなければ外出できなくなり、窓も開けられず、洗濯物や布団は外に干せず、外出から帰ってきたら服に付着したものをすべて払い落とさなければ家に入られない、そんな面倒なことになってしまう。

それを避けるためには、意志の力で封じ込めてしまうのが一番である。

 ちなみに、ウチの犬もこの時期になると良くくしゃみをしている。こいつは絶対、花粉症に違いない。

 文部科学省のHP に、面白い文章が載っている。

小阪憲次文部科学大臣名で、『一部配慮に欠けた発言をしたことについては、深く反省しており、荒川選手及びスルツカヤ選手に対してお詫びを申し上げます』とあるのだ。どうやら小坂氏は、トリノオリンピックの女子フィギアスケートについて、「ロシアの選手がこけたときは喜んだ」と言ったらしい。

 私は最初に新聞でこの記事を見たとき、また手柄を焦った記者に言葉尻取られたんだなと、小坂氏に同情した。どうせ廊下の立ち話かなんかで小坂氏がつい漏らしてしまった本音を、記者が誇大に書いているんだろう、と。まあ、人前でそんなこと言ってしまう小坂氏もうかつといえばうかつだが、ちょっとした雑談を書き立てる記者も記者だな、と。

 ところが事実はぜんぜん違っていた。なんと荒川選手が同省を表敬訪問した際に、よりによって本人の前でその発言をしたのだそうだ。しかも当然のことながら、記者が大勢囲んでいる中でのことであり、明らかな公式行事中の出来事だ。

小坂氏が、大変な正直者であることは間違いない。スルツカヤ選手が転倒した際に喜んだのは小坂氏だけでなく、おそらくあの中継を見ていた大多数の日本人が同様の反応をしたはずである。だから小坂氏がそう思うこと自体はまったく悪いことではないし、仲の良い人たちとの雑談の中での会話なら、まったく問題はない。

しかし公式の場での発言ということなら、日本の閣僚のレベルの低さを諸外国にさらすことになって、私も日本国民のひとりとしてなんとも恥ずかしい。もちろん、日本の政治家のレベルの低さは嫌というほどに知っているし、見識の高さなどはまったくといっていいほど期待していないが、それでも外国人や国際大会のことを話題に出すときは、それが外国にも報道される可能性を考えて少しは格好つけてもらいたいものだ。

思うことと言葉にすることとは雲泥の差がある。人を「殺してやりたい」と思うことと、それを言葉にするのは、まったく異なる行為である。もちろん、それを実行に移したらさらにとんでもないことになるのだが、実行に移さずとも言葉にしただけでも周囲に波紋を呼ぶはずである。それが本気のものであるならば。

小坂氏がスルツカヤ選手だけでなく荒川選手にもお詫びしているということは、荒川選手に対しても失礼な発言だったということをわかっているようだ。たぶん誰かから注意されたのだろうけれど。これじゃまるで、「スルツカヤが転んだから金メダルが取れたね」と言っているようなものである。しかも本人に面と向かって。

それにしても、人のミスを喜びそれを公言するということは、一言で言えば小坂氏は紳士的でない。ただの田舎の親父だ。

 紳士的といって思い出すのは、みずほ証券の誤発注事件の際、ミスに乗じて利益を上げた他の証券会社に対して与謝野馨金融担当大臣が放ったお言葉。確かにあれは、紳士的ではなかった。麻生太郎氏のような横柄でがさつな人間が言っていたら「お前が言うなよ」と突っ込みたくなるところだが、与謝野氏だと納得したものである。

 では、紳士的とはどういうことを言うのだろう。

私が考えるに、人のミスに付け込むとか、バレなければいいと思って平気で嘘をつくとか、そういった人や行為を「紳士的でない」と言いたい。

そしてこれをキーワードにすると、最近のさまざまな事件が、紳士的でないことから来ていることがわかる。

 たとえば、耐震強度偽装問題。東横インの違法改築問題。ばれなければ何やってもいいだろう、ばれたところでどうせ罰則はないんだし、という実に紳士的でない態度で事件はどんどん引き起こされた。談合問題も根は同じだ。

 あるいはライブドア事件。ニッポン放送株の時間外取引にしても株式100分割による株価吊り上げにしても、ルールの枠内でありながらも実に紳士的でないやり方だった。しかもこいつら、法律の網の目すり抜けながらやってま~すと公言していたのだから、始末に悪かった。

 やっぱり、こういう紳士的でない奴らをのさばらせといちゃいけない。何事も紳士的に行かなくっちゃ。

 談合事件が次々と明るみに出ている。道路公団、成田空港、そして防衛施設庁。今回の防衛施設庁事件では、今のところ発注者である官側からしか逮捕者が出ていないが、受注者である企業側の責任も重大であることは言うまでもない。

ちなみに正式な法律名は「入札談合等関与行為の排除及び防止に関する法律」というらしく、刑法上の談合罪では、違反者は2年以下の懲役又は250万円以下の罰金だという。

こういう事件が起こると、組織や企業のトップたちは口をそろえて遺憾の意を表明し、談合根絶を図るようなことを言うが、これは大嘘である。彼らは本心では悪いと思っていないのだから、談合がなくなるわけがない

本当にトップが談合をやめようと思うなら、必ずやめられるはずである。それがやめられないということは、とりもなおさずやめる気がないということに他ならない。

大手マスコミにお願いしたいのだが、談合に関わった企業の社長や役員に、「なぜ談合はいけないのか?」と聞いてきてほしい。アンケート調査ではなく、突撃取材で。時間を与えればそれなりの理屈を言うだろうが、突然聞かれたら、多分、即答できない人が続出するだろう。本心では悪いと思っていないのだから、改まって聞かれると困惑して口をつぐんでしまうこと請け合いである。中には「法律で決まっているから」などというバカ極まりない答えをする人もいるかもしれない。

どんな法律にも必ず、それを作ったときの精神というものがある。なんらかの理由がなければ、法律が作られることはない。「法律違反だから悪い」のではなく「悪いことだから取り締まる法律が作られた」のだ。

談合で逮捕者が出ると、必ず同情の声も出てくる。「会社のために、組織のためにやったことだから」というものだ。確かに官製談合の天下りを別にすれば、関与者が直接的に談合で私服を肥やすということはないだろう。

驚いたことに、このセリフを、逮捕者を出した組織のトップすら口にすることがある。日経ビジネス130日号の「敗軍の将、兵を語る」で成田国際空港の黒野社長が、逮捕者を庇うように言っているのである。

しかし、“会社のために”行った行為で逮捕されたというのなら、その会社のトップの責任はもっと重大ということではないか。しかし全文を読むと、黒野氏にはその自覚はまったくないようで呆れた。

社長が本気で談合をやめようと思えば、絶対にやめられる。他社はどうあれ、自社だけは談合には絶対関わらないとトップが毅然とした態度で表明すればいいだけのことだ。何しろ関与者は、第一義的には会社のためにやっており、自己の利益のためではないのだから、その会社のトップがやめろと言えばやめるはずである。理屈の上でも、事件に関与したことが報道されると企業イメージと株価の低下に繋がるから、会社のためどころかむしろ会社にダメージを与えることになると言えば、誰もが納得するだろう。

さらには、この指令に逆らって談合に関与した社員は逮捕いかんに関わらず懲戒免職とするよう社内規定を整備すればいい。

これも大手マスコミに調査してほしいのだが、過去に摘発された談合事件の逮捕者たちは、その後どんな人生を歩んでいるのだろう。

普通、何らかの犯罪事件で警察に逮捕されたら会社をクビになるだろうし、その時点では大目に見られても裁判で有罪判決を受けたら確実だ。当然、退職金が出るわけがないし、再就職にも苦労する。

談合事件の場合もそうなのだろうか? まさか、ひょっとして、退職金が割り増しされていたりしないだろうか。出所したらまた元の会社に勤めるなどということが行われていたりしないだろうか。しかも、会社のために臭い飯を食ってきたということで、2階級くらい特進していたりして。これではまるでヤクザの世界だ。さすがに元の職場復帰はないとしても、子会社の役員くらいにはなっている人がいそうな気がする。

これはまったくの私の想像に過ぎないが、そういった特典でもなければ、社員が会社のために自分が逮捕されるという危険を犯すとはとうてい思えないのだ。発注者側が自分の天下り先を確保しようという場合を除いてだが。

昨年末に、ゼネコン大手4社(鹿島、大成建設、大林組、清水建設)が足並み揃えて談合廃止を表明したが、これは今年の14日からの改正独占禁止法で制裁が強化されることがきっかけとなったものだ。それ以前にやらなければいけないことなのに、「制裁が強化されるからもうしない」などという姿勢そのものが、見つからなければいいんだという発想ではないか。

結局のところ、誰も本気でやめる気がないのだから、談合はこれからもなくならないだろう。