「ライブドア」の粉飾決算事件の裁判で、堀江貴文前社長に対し、東京地裁は懲役2年6か月の実刑判決を言い渡したそうだ。

 まあ地裁判決だし、たぶん堀江氏は控訴するのだろうから、裁判はこれからも続くのだろう。しかし、もうこの裁判についての報道はやめてもらいたいと切に願う。やめろといっても世間の関心が高い以上マスコミはやめるわけにはいかないだろうが、せめて結果だけにしてもらえないものだろうか。堀江氏側と宮内亮治前取締役の側で繰り広げられた醜い応酬をこれからも読まされる・聞かされるのかと思うと、ウンザリするからだ。

 堀江氏は部下が勝手にやったことで自分は知らなかったと言っているし、宮内氏はすべて堀江の指示の元にやったことだと言っている。こんな、単なる責任のなすり付け合いがまだまだ続くのだろうか。かつて“時代の寵児”ともてはやされた人たちのこの醜い応酬には呆れ返る。

 逮捕前の堀江氏は、まさに時代をつかもうとするかような勢いで、衆議院議員になって将来総理大臣になろうというのも、本人の中では冗談ではなかったのではないかと思わせるものがあった。そしてそのためには、一代で高収益企業を作り上げ、どんどん発展させ、“時価総額世界一”の企業グループを作り上げたというイメージが必要だった。

 当然、本人もそれをすべて自分ひとりでやりとげたというイメージ作りを積極的に行っていたわけであって、それを今さら自分は“広告塔”に過ぎなかったと言われたら、「なに、それ?」となってしまう。実権は宮内たちが握っていて、話しかけても無視されるほどだったなどと言っては、自分を貶めるにもほどがある。

 堀江氏が言うとおり、会社の中のすべてのことを社長が把握しているわけがないというのは正論だ。しかし、株価を維持・上昇させるためには会社が赤字になることは許されないことであり、自分のイケイケドンドンのためにも、社長として部下にそのようなプレッシャーをかけていないわけがない。

 自分で自分をカリスマ扱いしていたにもかかわらず、いざ裁判になったら責任逃れに終始する姿勢は醜すぎる。

 宮内氏にしても、逮捕前には相当に羽振りを効かせていたことだろう。堀江なんか広告塔に過ぎないさ、俺たちが実権を握って堀江を操ってるんだよ、というイメージを社内や取引先に植えつけていたことは間違いない。堀江氏の「無視された」という証言だけでなく、報道による複数のライブドア社員からの証言からも明らかだ。その報道が正しいかどうかはともかくとして、そのように自分の存在を大きく見せようとしていたことは間違いないと思われる。

 ところが逮捕されると、すべては社長の指示でした、私はそれに従っていただけですというのでは、あまりにも落差が激しすぎる。この責任逃れも、非常に醜い。

 この人たち、もう少し格好良くできないんだろうか。

 ふたりの証言が逆だったら、ものすごく格好良いのに。

 堀江氏が、「細かいことは知らないが、社長としてすべての責任は私にある」と言いきれば、拍手喝采である。

 宮内氏が、「堀江はただの広告塔。俺がすべて仕切った」と言えば、素晴らしい実務者能力にたけた人という評価が得られる。

 そして両者とも、仮に法に触れることをやったとしても、人間的には大物だと言われたことだろう。法といっても証券取引法違反であって、人間の生き方や尊厳が犯されるようなものではない。単なる経済事犯だ。

 それを、逮捕前には自分がいかに大物かを言い、逮捕後にはいかに小物かを言うのでは、そのこと自体が自分がいかにちっぽけな存在であるかと言っているようなものだ。

 こういう応酬を見るのは、実に悲しい。

 浅野健一氏の著作『犯罪報道の犯罪』が発行されたのは、1983年だった。

 当時の新聞やテレビなどのマスコミは、容疑者が警察に逮捕された時点で、その人を完全なる犯罪者扱いしていたものだ。氏名を呼び捨てにし、「ふてぶてしい態度で連行されました」などといった記者の悪意に基づく主観丸出しの表現が当たり前のように使われていた。

 そんな時代に、犯罪報道そのものが犯罪であるという浅野氏の論旨は非常に衝撃的であり、私などは目からうろこが落ちたものだ。

 言うまでもなく、逮捕の中には警察による誤認逮捕という場合もあるし、仮に裁判で有罪になっても上級審で逆転無罪といった冤罪も当時から存在していた。それ以前に、犯罪そのものが警察・検察のでっちあげではないかと疑われる事件すらあったほどで、最近話題になった鹿児島県の選挙違反事件などは今に始まった話ではなく、類似の話は昔のほうが多かったと想像される。

 それにもかかわらず、マスコミは逮捕された時点で容疑者を犯罪者扱いする。そして仮に冤罪であったとしても、紙面や電波で大々的に報道されたことによって、その人のその後の人生は滅茶苦茶になる。もちろん、第一に責められるべきは警察の捜査のあり方であるが、報道がそれを増幅させて、その人の人生を壊すことに加担していることは間違いない。逮捕されただけならまだしも、それが報道されたことによって世間の人に広く知れ渡ることになり、その人は世間から犯罪者扱いされることが避けられないからだ。いくら後追いの記事を書いたところで、どんな良心的なマスコミであっても最初の逮捕時の報道に比べたら扱いは小さくなるし、いったん世間の人の頭に植え付けられた観念を消し去ることは不可能だからだ。いくら無罪になっても、逮捕されたってことは胡散臭いところがあったんでしょ? これが世間の目だ。

 これは確率の問題ではない。いくら日本では起訴後の有罪率が高いといっても、100%ではない。99%であっても残りの1%、たとえ100人にひとりであっても、やってもいない犯罪をやったと報道されたら、その人の苦難は計り知れないものとなる。まさに浅野氏が言うとおり、犯罪報道そのものが犯罪なのだ。「警察発表では」などと冠をつければ許されるものではない。たかがマスコミに、人の人生を破壊する権利があるのだろうか。

 この浅野氏の問題提起から、既に四半世紀が経とうとしている。その間、事態は好転しているのだろうか。



 梓澤和幸氏の『報道被害』(岩波新書)を読んだ。著者は、長年に渡って報道によって被害を受けた人たちを救う活動を行っている弁護士である。直接新聞社やテレビ局に行って、発行前なら報道の差し止めを求めたり、書かれた後なら訂正記事の掲載を求めたりしている人だ。

 そんな人であるにもかかわらず、著者はこの本の中で、終始冷静に論を進めている。これは私にとって、ある意味驚異的ですらあった。マスコミの横柄さと欺瞞性に直接的に接している人であり、感情が爆発してもおかしくないと思うのだが、ひたすら冷静に論を綴っている。第5章においては、国家によるメディア規制は絶対にいけないということにまで言及しているのだから、頭が下がる。

 というのも、私には状況がますます悪くなっているとしか思えないからだ。

 確かにここ数年で、新聞各社の中には記事審査委員会ができたり、放送ではBROができたりと、一定の前進は見られる。逮捕された人を呼び捨てにすることを止めて、必ず○○容疑者とか○○被告といった敬称(?)をつけるといった小手先の改革も行われている。しかしマスコミの犯罪報道の根本はまるで変わっておらず、相変わらずの警察発表の垂れ流しと、「夜回り」と呼ばれる記者と警察官の馴れ合いの報道に終始しているからだ。もちろんマスコミの中には独自の調査報道に熱心に取り組んでいる人もいるが、それはごくごく少数派であり、100の報道の中の12もあればいいほうだ。

 それどころか雑誌を含めればマスコミの数が昔より増えているから競争は激化し、メディアスクラムはいっそう深刻になっているし、インターネットの普及によって、比喩ではなく、一分一秒でも他社より早く報道したいというマスコミの要求は高まっている。

 そんな状況であるにもかかわらず、著者は冷静に今後のマスコミ報道のあり方を論じている。常に希望を失わず、少しでも状況を改善したいという熱意は素晴らしいものであるが、私にはそこが物足りなかった。もっともっとマスコミを糾弾してほしかった。

 もちろん私も、国家によるメディア規制だけはあってはならないものだと思っている。マスコミはいまや権力であるが、その権力の監視のためにより大きな権力に権限を与えるのでは、本末転倒である。ではどうするかといえば、マスコミ内部の自己変革しかないだろう。

 一体何が問題なのか。著者はいくつかの問題点をあげているが、私はその中でも最大のものは、マスコミ経営者の意識にあると思っている。商業主義が悪いことだなどと、青臭いことを言うつもりはない。しかし、いまどき他社より早く報道すればスクープだなどという考え方は、まったく時代遅れである。逆説的だが、インターネットの普及によって、かえって「早さ」などは意味がなくなっており、むしろ今は「正確さ」が求められているのだ。

 大手マスコミの互助組織である『記者クラブ』も、解体されなくてはならない。こんなものは、情報を出す側とそれを受け取る“大手”マスコミにとって便利なだけで、国民にとっては百害あって一利なしである。

 消費期限切れの食材を使った食品会社を糾弾したり、製品の欠陥による死亡事故を隠していた企業を糾弾するのなら、無実の人間を犯罪者扱いしたり、取材と言う名目で私人のプライバシーを暴きまくって周辺に迷惑をかけるような行為も、自ら糾弾すべきではないか。

 国家権力の介入を許すような状況を作っているのは、実はマスコミそのものなのである。度を越した取材が国民の批判を浴びると、その辺の雰囲気を感じ取って、国家は大喜びで報道規制に乗り出してくる。まさに、「報道の自由」を壊そうとしているのはマスコミそのものなのであり、すべてのマスコミ人にはその自覚を持って欲しいものだ。

 明け方、息苦しさに目が覚めた。

 激しく咳き込む。喉の奥に痰が絡みついていてなかなか取れず、なんとか吐き出そうと、途中からは意識的に咳を続ける。そして咳をしながら、頭の中では「ああ、やはりダメだったか」と、落胆と自責の念に駆られる。これじゃ、歯医者にはいけないな。

 今日は歯医者の予約が入っていた。すでに先週2回キャンセルしているので、今日こそはどうしても行きたかった。実際、歯が痛み出していたので、一日も早く治療したかったのだ。それに、たかが歯医者の予約といっても、一度した約束を2度ならず3度までも破るというのは、社会人としていかがなものかという自分への戒めもあった。

 そのため、この土・日は外出せずに、自宅にこもって暖かくして静養に努めた。先週の金曜の夜も、プロレスを見に行きたかったのだが諦め、友人からの飲みの誘いも断り、おとなしく帰宅した。昨夜寝る前などは、明日の朝には咳が治まっていますようにと、天に祈ったくらいだ。

 そんな宿主のつつましやかな努力も、微かな願いも、風邪のウイルスが嘲笑っている。

 まだ外は暗かったので、絶望を抱えながらもう一度寝、明るくなってから本格的に起きた。やはり咳は出る。

 それでも、先週に比べれば快方に向かっていることは間違いない。喉の痛みも軽減しているし、咳の出る頻度も少なくなってきてはいる。しかし、だからといって、こんな状態で歯医者に行ったらどうなるだろう。

 今日の治療では、確実に歯を削るだろう。ギュイイィィィ~~~ンンという機械音を伴った先端の鋭利な治療器が歯にあたり、ガリガリと情け容赦なく削っていく。そんなとき、咳の発作に襲われたりしたら!

 頭が激しくガクガクと動き、その衝動で制御不能になった歯医者の手が口の中で揺れ、治療器が口中で暴れまわって、歯茎といい、頬の内側の皮膚といい、いたるところに穴を開けて血を吹き出させることだろう。その後数日は何も飲み食いできなくなり、激痛にのた打ち回ることになる。想像するだに恐ろしい。

 そういえば昨日、床屋に行きたいと思ったが、それも諦めたのだった。それほど髪が伸びていたわけでもないのになぜ床屋に行きたいと思ったかだが、マスクをするときに耳に髪が少しかかっているのが気になったからだ。初めから気にしなければ良かったのだが、いったん気にし始めるとその思いが心にこびりついてしまい、マスクをするたびに髪が煩わしくなる。

 それなら床屋に行って髪を切ってこようと思ったのだが、髪を切っている途中に咳が出たらどうなるだろう。

 もちろん私は、咳が出そうになっても我慢する。出そうになっても、口の中で喉だけで咳をし、できるだけ頭を揺らさないように努める。そうして我慢に我慢を重ねるのだが、逆に我慢の限界に来た場合は抑えきれない衝撃が最高潮に達し、ブッハ~と、頭をガクンガクン揺らしながら激しく咳き込むことになる。咳だけではない、切った髪がハラハラと顔にかかって鼻腔をくすぐり、くしゃみが出る危険性も侮れない。そんなことが、ハサミで髪を切っている最中に起こったら、どんな惨事が引き起こされるか。ハサミの先端がこめかみや目を突き刺すか、あるいは耳を切り落としてしまうだろう。顔を剃っている途中だったら、剃刀が頬を切り裂き、鼻を削ぎ落とすだろう。喉をスパッと切り裂かれたら、一巻の終わりだ。

 マスクをするたびに煩わしいので床屋に行きたかったのだが、そもそもマスクをしなければいけない体調だから床屋に行けないとは、なんという矛盾、不条理なのだろう。

 マスクといえば先週の金曜夜、帰宅途中の電車の中でのことだ。

 ある大きな駅に止まったときに乗客の入れ替えがあり、私の目の前の座席が空いたので私は座った。そこはふたり分空いたので、私の左隣にもそれまで立っていた人が座ったのだが、その人もマスクをしていた。風邪なのか花粉症予防なのかわからないが、私はその人に勝手な共感を覚えたものだ。なかなか咳が止まらないと苦しいですよね、あなたもですか? と、一方的に同病相憐れんだわけだ。

 ところがこいつ、私がそこまで思っていたにも関わらず、私が咳を始めたら露骨に嫌そうな目で私のほうを見、上半身を左側に寄せるようにしたのである。

 そりゃあ、電車の中で人に咳をされたら嫌なものである。それはわかる。だからこちらはできるだけ人に迷惑をかけないようにマスクをしているわけだし、あんただってマスクをしているんだから、他の乗客よりもウイルスを吸い込む確率は格段に小さいはずだ。それがなんでそこまで露骨な態度を取るのか。

 私の考えすぎ、気のせいかもしれないと思ったが、そうではなかった。しばらくしてまた私が咳をしたら、そいつはまったく同じ行動をとったのである。さも不浄なものを見るかのような嫌悪のまなざしを私に投げかけると、体を左に寄せた。いくらなんでも、私がそこまでの態度を取られるほどの罪を犯したとは思えない。

 かなりむかついたが、だからといって一義的にはこちらが悪いわけだから食って掛かるわけにも行かない。とにかく知らん顔をして本を読み続けた。現代人はキレやすく、電車内暴力も急増している。そのうち、横の奴が咳をしたなどと言う理由で暴力事件が起こるのかもしれないな、などと考えながら。

 まあとにかく、かように咳は、歯医者にもいけないし、床屋にもいけないし、電車内の暴力事件にも発展しかねない、はなはだ迷惑なものである。

 テレビ朝日の『報道ステーション』を見ていて、小さなことだが引っ掛かったことがある。今日のニュースは、なんといっても鹿児島県議選をめぐる選挙違反事件での全員無罪判決であり、これについても言いたいことが多々あるのだが、それはそれとして、私が引っ掛かったのは別のニュースだ。

 三洋電機が粉飾決算をしていたのではないかとの疑惑を受け、証券監視委より調査を受けたというニュースに絡んでのものだ。このニュースそのものは既に朝刊でも報道されていたし、いまどき企業の粉飾決算などは珍しいことでもなんでもないから、このニュースそのものはどうでもいい。

 問題は、そのニュースの、『報道ステーション』の取材姿勢にある。三洋電機の本社前と思われる場所で記者とカメラマンが待ち伏せしていて、たまたま出てきた社員にマイクを向けていたのである。経理担当の役員とか、経理部の粉飾に関わったと疑われる社員とかが出てくるのを張り込んでいたわけではない。どうみても、たまたま出てきた人だった。

 こんなことをして、一体どんな意味があるというのだろう。結果として放送されたのはふたり、ひとりは「広報に聞いて」と言い、もうひとりは無言で、逃げるようにカメラに背を向けた。他にも何人かを撮影したかもしれないが、放送されたのはこのふたりだったから、取材側はこれが三洋社員の平均的姿と判断したか、あるいは視聴者にそう印象付けたかったのか。それはどちらでもいいが、とにかくこの映像は、まったく報道的価値のないものであった。放送されたふたりは、とんだ災難だったといえる。

 この取材をした記者も、カメラマンも、サラリーマンだったらわかるはずだ。もし、テレビ朝日内部で何か問題が起こり、よその局の取材者が待ち伏せしているところにたまたまこの記者が出て行ってつかまったとしたら、この記者は何かを語れるだろうか。少なくとも、自社にとってマイナスのネタである。ネタについて何も知らなければ、それこそ「広報に聞いて」と言うか、手を振って逃げるしかないだろう。もし仮にネタについて深く知る立場にあったなら、それこそ何も言えないはずだ。

 つまり、玄関で待ち伏せしていて無差別に聞いたところで、気が利いたコメントが取れるなどということはありえないのである。この取材自体がまったく無意味なものであることは最初からわかっていることで、そんなところに駆り出されたこの記者もカメラマンも無駄飯食いということになる。しかしテレビの取材というのはラクなもので、こうしてまったく無意味極まりないものでも、映像にしてしまえばそれをニュースとして放送できるのである。

 今回はたまたまテレビ朝日の報道ステーションを見ていてこう感じたのだが、この手法はなにも報道ステーション、あるいはテレビ朝日だけのものではない。どこの局のどんなニュース番組でも良く取られているものだ。TBSの『ニュース23』では、異論・反論オブジェクションというコーナーがあり、あるテーマについて大勢の人の街頭インタビュー場面を放送している。いかにも、一般の人のナマの声といった感じだが、私はこれを見るたびに不愉快な思いにかられる。生放送ならいざ知らず、録画して編集している段階で、番組側の意図がそこに入っていることが確実だからだ。まだ語っている最中なのに、コメントが切れて他の人のコメントに切り替わることもある。こんなもの、番組にとって都合の良い部分だけをつぎはぎにしているだけに過ぎなく、ニュースでもなんでもない。

 ニュースですら、そうなのだ。

 だったら、バラエティー番組がどんなことをやるかなんか、言うに及ばないだろう。データの捏造、やらせ、コメントの言い換え、書き換えなんかは当たり前であり、真実を追求する姿勢なんかは、そもそもテレビ局にはまったくないと言ったほうがいいだろう。『あるある大辞典』の調査委員会は、すべての回に捏造があったということを前提に、捏造がまったくなかった回を公表したほうが、はるかに簡単なはずだと思う。

 柳沢伯夫厚生労働大臣が、また失言したらしい。「若い人たちは、結婚したい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」と言ったそうで、この発言に対して野党各党は、子供を2人以上持たないと不健全だというのかと噛み付いているようだ。

 なんかこうなると揚げ足取り、言葉狩りの様相を呈してきて、なんとも気持ちが悪い。そもそも先の「女性は産む機械」発言にしても、そんなに問題視するほどのものなのか、私には疑問がぬぐえなかった。

 単に、生殖行為における男女の性差を機械に例えて発言しただけで、この比喩を男性に当てはめれば、「男性は種付け機械」ということであって、それ以上でもそれ以下でもない。それだけのことであって、この発言が決して女性を蔑視しているとは思えない。さらには発言の前後で、「機械なんていってごめんなさいね」と謝ってもいるのだ。喋っているときから、あくまでも例えであることを強調している。それにもかかわらずこんなことが問題になるのなら、比喩やことわざなどは一切使えなくなってしまうではないか。最初に朝日新聞でこの記事を目にしたときには、いかにも朝日が喜んで取り上げそうな記事だなと、皮肉な思いで読んだものだ。

 それがまさか、こんな大騒ぎになるとは。

 とはいえ、野党各党が政争の道具に利用しようとする意図は、充分に理解できる。

 政治とは闘争であり、どんな小さな敵失も見逃さずに攻め込むことは必要だからだ。柳沢氏の辞任を要求し、閣僚の首を取って任命権者である安部総理の責任を追及し、政権に大きなダメージを与えようとすることは、野党にとって必然のシナリオだろう。元ネタがあまりに次元が低すぎるきらいはあるが、ここまでなら納得である。

 しかし、どうしても納得できない、というよりさっぱり理解できないのが、この発言をその後に行われた愛知県知事選挙と北九州市長選挙に絡めたことだ。特に民主党はやっきになって選挙戦に利用しようとしていたが、なんで地方自治体の首長を選ぶことと、厚生労働大臣の発言がリンクするのか、さっぱりわからない。

 これが仮に首相であり自民党総裁の発言であったなら、自民党全体の責任を追及することは可能であり、地方選挙で自民党の推薦を受けた候補者が火の粉を浴びることは免れないだろう。しかし、発言したのはたかが一大臣である。

 仮に柳沢氏本人がそれらの選挙に立候補していたのなら、集中砲火を浴びることは当然だし、本人でなくても候補者が柳沢氏の秘書をやっていたとか、政策ブレーンだったとか、関係のある人だったら仕方ない部分もある。しかし、実態は知らないが、多分柳沢氏とはまったく関係のない人だろう。それがなんで、一大臣の女性観に人生を左右されることになるのか。

 そもそも民主党や社民党、さらに柳沢発言を問題視するマスコミは、地方自治体の選挙をなんと心得ているのか。行政府の長を選ぶのだから、国政選挙以上に候補者の具体的政策が問われなければならず、愛知県を、北九州市をどのように運営するのかが争点にならなければおかしい。

 柳沢氏は静岡県からの選出だから、愛知県や北九州市とまったく関係がない。その発言内容も、愛知県や北九州市とまったく関係がない。そんな発言を選挙の争点に据えるというのは、地方自治体とそこの住民を愚弄する行為に他ならないのではないか。その地域の住民の生活よりも、大臣の失言のほうが重要だというのか。

 と思っていたら、どうやら選挙結果に柳沢氏の発言が少なからず影響を及ぼしたらしい。もし、こんな発言で投票行動を変えた人がいたのなら、その人も相当に政治的意識の低い人だといわざるを得ない。

 昨年末、日興コーディアルグループの有価証券報告書虚偽記載問題が発覚したとき、最初の記者会見に社長が出てこなかった。しかも出席した副社長は、一会計担当者のミスであると説明した。

 いまだに世間の目をこれほどまでに軽く見ている企業があるということに、唖然としたものだ。

 今の世の中、不祥事は発覚するものなのである。そして被害を最小限に食いとどめるためには、なにより初動作が大切であって、下手な言い訳をしたらかえって泥沼に嵌るものなのである。

 こんな、広報のイロハもわかっていない企業があるというのは驚きだった。

 結果、日興コーディアルグループでは実力者といわれた会長、社長は辞任に追い込まれ、会社は現在も深刻な顧客離れに陥って支援先を探しているという。

 こんな事件があったばかりだというのに、今度は不二家だ。

 こちらは社長が記者会見に出てきたが、説明はやはり一担当者の独断で行われた不祥事ということであり、記者の質問にはしどろもどろだった。

 しかし、その後の調査で出るわ出るわ、不祥事のてんこ盛りで社内はしっちゃかめっちゃか状態になっているようだ。「マスコミに知られたら雪印の二の舞になる」などという文書までがマスコミに知られたのだから、相当なブラックジョークの世界だ。

 多分、最初に発表せざるをえなくなったとき、経営者たちは埼玉工場のその担当者に硬軟織り交ぜて相当な圧力をかけたことだろう。

「頼むからお前が勝手にやったことにしてくれ、定年退職したのに再雇用してあげたじゃないか、その恩を忘れたか。次の退職の時にはまたたんまり退職金をはずんでやる。それとも会社が潰れてもいいのか? 会社ぐるみだということが世間に知られたら、全従業員とその家族が路頭に迷うんだぞ、お前にだって責任はあるんだから、知らぬ存ぜぬじゃ済まないんだぞ」

 もちろん、これは私の勝手な想像に過ぎない。が、いかにもありそうなことだと思う。

 しかし、こういう嘘を嘘で塗り固めるようなやりかたは、今の時代、もう通用しないのだ。不祥事ははっきり認めて、正直に誤って、即座に対策を講じて発表しなければならないのである。

 もちろん、そのときには集中砲火を浴びるだろう。

 売上も一時的には大きく下がるだろうし、社長以下の責任も免れない。

 それを避けたい、なんとか言い逃れできないかと考えるのは、人として当然の感情だろう。

 しかし、そこをグッと堪えて最初から謝ってしまったほうが、その後の企業活動にははるかに有益なのである。

 雪印がなぜ今のような状態になったかというのは、嘘をつきまくって言い逃れしようと醜く抗ったからであり、結局不二家もそれと同じことをやったから、どんどん泥沼に嵌っている。

 雪印の二の舞になりたくなかったら、発覚した時点で「雪印の二の舞にならないよう、即座に発表しよう」と言わなければならず、それが雪印事件の教訓だったはずではないか。それをまったく履き違えているのだから、こんな企業は潰れてしまえと言いたくなる。

 とはいえ、真面目な社員もいるだろうし、そういう人たちは実に気の毒だ。フランチャイズ店にも、消費者からの苦情が寄せられているという。

 こういう事件(?)が起こると、必ずそれに便乗して騒ぎ立てる妙な消費者と言う人たちもまた実に不愉快だ。

 フランチャイズ店が、本社の工場で期限切れの材料を使っていたことなんか、把握できるわけがないではないか。

 もちろん、売った責任がまったくないとは言わないが、彼らは既に販売停止で充分経済的損害を蒙っているし、今後も蒙るだろう。今は本社から補償金が出ているようだが、このままでは再開のめどが立たずに閉店せざるを得ない店も出てくるだろう。

 そこまで想像力を働かせれば、むしろ同情の対象となると思うのだが、そんな人たちにここぞとばかりに文句を言う人の気が知れない。本当に悪いのは誰かを見定めて、そこに文句をつけるべきであって、末端の人をいじめても仕方がないではないか。

 さらには、「不二家の製品を食べて具合が悪くなった」などという苦情も、本社に寄せられているという。

 中には本当にそういう人もいるかもしれないが、ほとんどが愉快犯だろう。言い訳できなくなった相手に因縁つけて、賠償金でもふんだくろうというのか?

 人間のあさましさを感じさせる、これも嫌なニュースだ。

 バカな経営者とバカな消費者は、いつまで経ってもなくならないのだろうか。

 安部晋三首相の、記者会見の場でのあのすっとぼけた態度は何とかならないのだろうか。

 本間正明税調会長辞任についても、「本人の一身上の都合」の一点張り。しかも、その「一身上の都合」の中身については「聞いていない」のだという。

 人が相当に重要な役職を辞するというときに、任命権者がその理由を聞かないなどということがあるわけがない。仮に安部氏のその言を信じるとすれば、この首相は理由も聞かずに重要役職者の辞任を簡単に認める人らしい。それで行政組織のトップが勤まるのだろうか? この一点だけでも、首相としては不適格者だと言わざるを得ない。

 さらには、本間氏が辞めた理由など、ほとんどの国民が知っている。極端に低家賃の公務員宿舎に住み、しかもそこに愛人を連れ込んでいたことが発覚するや各界から批判が相次ぎ、自民党内や閣僚からも辞めろの大合唱が起こり、それに抗しきれなかったということを。それを知らないというのなら、安部氏は情報をまったく把握していないということであって、もはや首相としての資質どころか、一社会人としての常識を疑う。

 というのは、もちろん皮肉であって、安部氏が理由を聞いていないわけがないし、世間の騒動を把握していないわけもない。

 それにもかかわらず、しら~とした顔をして当たり障りのない言葉だけを連ねるあの姿勢は不誠実極まりなく、国民を馬鹿にしているとしか思えない。

 この態度は今回に限ったことではなく、郵政民営化反対派議員の復党問題のときも、自分は知らん顔をして、自民党の来年の参院選対策であったことも絶対に認めようとしなかった。そのほかにも、とにかくあらゆる場で、一見誠実そうな態度を装いながらも中身のない上っ面な言葉だけを並べ立て続けている。

 小泉純一郎氏がどうしてあれだけの国民の支持を得ることができたか、この人はその本質をまったく理解していないようだ。

 それは、小泉氏が常に「本音」を言っていたからだ。それまでの政治家と異なり、小泉氏はできるだけ自分の言葉で、本音を語るようにしていた。その姿勢を国民が支持したわけで、政策の中身などは2の次だった。

 郵政民営化だって、国民の大多数はどうでも良いと思っていたはずだ。しかし、小泉氏の「どうしてもやりたいんだ」という迫力が、だったらやらせてみようとなり、衆院選での大勝利につながった。

 ところが安部氏は本音を語らず、誰もが知っているような事実ですらノラリクラリとかわしてばかり。これでは旧世代の政治家とまるで変わらない。遅かれ早かれ、この態度を国民は見抜くことだろう。国民はバカなんだから本当のことなんか言う必要なんかない、黙って政府の言うことに従っていればいいんだ、あの誠実そうな仮面の裏に、そんな本音が透けて見えるのだから。

 つくづく不思議なのは、世耕弘成氏の存在である。現在の肩書きは、内閣総理大臣補佐官(広報担当)。

 かつてNTTの広報部に属し、その後伯父の後を継いで国会議員となる。議員になってからも自民党内で主に広報を担当し、小泉氏のイメージ戦略作りに重要な役割を果たしたとされる人物だ。衆院選大勝利の、陰の立役者とも言われた。

 その実績をかわれての今の首相補佐官という立場であるが、その人がなぜ、安部氏のあの不遜な態度を許しているのか不思議で仕方がない。あんな態度では国民の支持を失うということが、この人にわからないはずがないと思うのだが。

 いや、やはりわからないのかな? しょせんは世襲議員の一人だから、国民を上から見下ろすことしかできないのかもしれない。

 しかし、安部氏の存在感はいまや、耐えられないくらいの軽さをしめしている。結局のところ、なんでもかんでも自民党の言いなり。そんなイメージがついてきている。こんな首相では国民には迷惑だ。本を出版したりして広報のプロを自認するなら、早いところ手を打つ必要がありますよ>世耕さん。

 もう手遅れのような気もするが。

 C常務が主催する、いつもの定例会議が開かれていた。

 参加しているのは10人くらいの、C氏が管轄している部門の現場の管理職連中だ。この日の議題は、約1ヵ月後に開催される新製品発表会の段取りについてだった。

 会議はつつがなく進行していき、話がお客さんへのお土産を何にするかということになったときのことだ。

 それまで時計を気にしていたC氏が立ち上がり、「いやあ、悪い、実は社長に呼ばれているので10分くらい中座するから。その間、君たちで進めておいてくれ」と言い、会議室を出て行ったのである。

 室内の空気は、一気に弛緩した。C氏はいわゆるワンマンタイプであって、この人の前で意に沿わないことを言ったらあからさまに罵倒される。したがって会議はピリピリした雰囲気の中で行われていたのだが、その人が出て行ったことで、一転して穏やかなものになったのだ。

 新製品発表会の後は、パーティーが行われる。そして出席してくれた客に、帰るときにお土産が渡される。通常はホテルのクッキーなどが多いが、それでは芸がないと思う主催社は、銘菓・名品を探し出してきて渡すこともある。

 この会社でもそうしており、会議の出席者たちはセンスを競って、「あれはどうか」「これがいい」と、C氏不在なので自由に意見を出し合った。

 そして、「じゃあ、まあ、これでいいだろう」とその場のコンセンサスができたとき、C氏が会議室に帰ってきたのだった。

「いやあ、悪かったね、お土産は決まった?」

「ええ、○○堂の△△がいいんじゃないかと思うのですが」

 それを聞いた瞬間、C氏の大声が室内に響き渡った。

「だーめ、だめ、あんなの、趣味悪いよ君たち、まったくセンスがないねえ」

 出席者たちは唖然とした。いつものことであり、こうなることは半ば覚悟していたことではあったが、やはりまたかと、誰もがうんざりした。最初に○○堂の△△を推薦した人は、顔を引きつらせて苦笑するしかない。

「それより、□□店の××なんかどうだ。あれはいいぞ、みんなもそう思うだろ、なっ、なっ」

 誰も反対などできるわけがない。

 こうしてC氏のペースで、会議はその後も進んでいった。もはや誰も何も言う気がなくなっている。

『会議は踊る、されど進まず』という有名な言葉があるが、その逆である。ワンマンがひとりいれば、会議は踊らないが進んでいくのである。

 そもそもお土産を何にするかなどは、C氏の言うとおり、センスの問題である。そしてそのセンスは人によって千差万別であって、渡された客のほうも××より△△のほうが良いと思う人も確実にいるはずだ。

 こんなことを会議で決めること自体がばかばかしいことだし、最初から腹案があればそれを言ってから出て行けばいい。それを言わずに、人件費の高い管理職を集めて議論させておいて、それを一言でひっくり返すことで自らの権力を誇示する。

 しかも、周囲に同調を求める振りをして、自分が押し付けたのではない、みんなが同意したではないかという形式を整える。

 パーティーのお土産くらいはなんでもいいが、万事がこの調子だと、うがった見方をすれば責任逃れでもある。

 世の中の、会社というところの会議は、かように無駄なものであることが多い。

 こんな会議をしている会社は衰退する。

http://www.nisshin.com/life/cm/index01.html


 日清製粉グループ本社が、同社が放送していたテレビCMのひとつを中止したという。

 鎌倉市七里ガ浜の浜辺を犬が走り回るもので、視聴者から「犬の放し飼いを助長する」というクレームが神奈川県にあったからだという。神奈川県には犬の放し飼いを禁止する条例があり、それに抵触するのではないかというのだ。それを受けて同社自身、「ペットを飼う上でのマナー配慮が足りない」、「不適切なシーン」と殊勝に認めて、今回の放送中止となった。

 私も犬を飼うものとして、またdogrunfreeなどという名前を使っているものとして、このニュースには無関心ではいられない。私はこのCMを見たことがないのだが、このニュースを聞いてなんともいえないモヤモヤした感情が心に引っ掛かったのだ。

 犬のミカタの立場からすれば、たかがCMくらいいいじゃないか、何を大げさな、と言いたい気持ちがある。これを見て真似する奴がいたらそいつが悪いんであって、CMの責任にするのは酷じゃないかと思うし、ちょっとしたクレームですぐに放送を自粛する日清製粉の姿勢にも疑問を感じる。

 もっとも最近は消費者のクレームは恐ろしいから、触らぬ神に祟りなし、あれこれ言い訳せずに、悪いと認めてすぐに引っ込めたほうが得策だという企業の判断も致し方ないとも思う。

 現実の問題としても、いつも犬を放し飼いにしているならともかく、たまに広い場所で犬を自由に走らせてあげて何が悪いのかと言いたい気持ちもある。他人がいる場所ならともかく、人がいない場所で少しくらいリードを外してもいいじゃないか、と思う。

 実際私は、土曜・日曜の夕方などは自宅近くの空き地に犬を連れて行って、リードを外して走らせている。ボールを投げて、それを取って来させたりといった遊びをしているのだ。そこは多分、江戸川区の所有地だと思うのだが、私だけでなく大勢の犬好きが集まって、自然と飼い主や犬の交流の場になっている。

 そこはただの川沿いの空き地で、正式な犬のフリースペースではない。したがって、区が「ダメ」といったら、追い出されることになるだろう。仮に許可を求めに行ったとしても、多分その時点で「ダメ」と言われるだろうから、やぶへびだ。江戸川区にそのような条例があるかどうか走らないが、住民からの通報がないことを祈るばかりだ。

 それはともかくとしても、人類と犬は大昔からの友達。たまには犬を自由にさせてあげても良いじゃないか、というのが私の心の深いところでの本音だ。

 しかしだからと言って、私も大声でそれを叫ぶ気にはならない。だから、モヤモヤしたものが残るのだ。

 というのも、犬の散歩をしているときに感じるのだが、すれ違う犬と飼い主のマナーの悪さに辟易することがあるからだ。

 犬を散歩させるときは、人間が前を歩いて、犬が後ろを付いてくるようにしなければならない。これが、犬を外に連れ出すときの基本である。

 ところが犬の躾がまったくできておらず、犬に振り回されている飼い主を見かけることが良くある。犬が前の方を自由に行ったり来たり、右にフラフラ左にフラフラ、そのたびに飼い主が右往左往している光景を良く見かけるのだ。そして、他の犬を見かけると歯茎をむき出しにしてやたらと吠えまくる犬。飼い主がただ犬を猫かわいがり(犬かわいがり?)にしているから、こういうことになる。こんな犬を放し飼いにしたら、とんでもない事態が起こるだろうことは私にも容易に想像できる。

 人間に服従させるなんて、犬がかわいそう? とんでもない。人間の小さな子供に、電車の中で走り回ってはいけません、大声を出してはいけません、と躾をするのと同じことだ。

 さらには、道の真ん中に犬が糞をしても、それをそのままにしている飼い主もいる。こうなると私は、その飼い主に敵意さえ覚える。こういうマナーの悪い飼い主がいるから、まともな愛犬家までが同類に見られて、神奈川県のような条例が作られることになるのだ。愛犬家の敵は、愛犬家なのである。

 とはいえ、私の犬も決してお行儀の良い犬ではない。それどころか甘えん坊でやんちゃであり、人間や犬が大好きなので、すぐに飛び掛りそうになる。

 私の犬には悪気はなく、ただ遊んでもらいたい、構ってもらいたいだけなのだが、犬が嫌いな人にとってはとんでもない迷惑だろう。だいたい体重が30キロもあり、小学生の高学年並みの体格だ。しかも身体能力、つまり力や瞬発力などは人間より犬のほうがはるかに上だ。こんな犬に飛び掛られたら、恐怖を感じる人もいるはずだ。

 散歩の途中、ときどき怖いもの知らずの小さな子供が「おっきいワンワンだ~」などと言って近づいてくることがあるのだが、そんなときは私が恐怖を感じる。私の犬は決して噛み付くことはないのだが、飛び掛って押し倒して、子供が地面に頭を打ったりしたら・・・そんな光景が脳裏に浮かんで慄然とするのだ。

 だからといって、子供に近づくななどとは絶対に言わない。私はリードを持つ手に思い切り力をこめ、私もしゃがんで首輪を掴んで犬が動けないようにする。私がこうすることで犬がおとなしくなり、子供が犬の頭を撫でてくれれば、犬も喜ぶし、私も嬉しい。犬と人間が共存するための、飼い主としての最低限の義務を履行するだけだ。

 しかし、まったくマナーのなっていない飼い主が横行している現状では・・・やはりCMを真似て、浜辺に犬を連れて行って自由に走らせようとする飼い主がいるんだろうなあ。だったらCMを中止せざるをえないんだろうなあ。

 犬を飼う人は増えているらしい。増えれば増えるだけ、不心得者もどんどん増えていくことになる。そうすると当然、規制の動きがますます強まる。

 これはもう、仕方のないことと諦めるしかないのだろうか。

 皇室に男児が生まれたそうだ。生命の誕生というのは、まずはおめでたいことである。

 しかし、このニュースを聞いて最初に私の心に湧き起こった感情は、生まれた男の子への同情心だった。ああ、かわいそうに、自由のない、がんじがらめに縛られた人生を送らなければならない人間がひとり増えたのか、というものだ。

 なにしろその子には、“基本的人権”なるものが存在しない。当然のことながら、参政権もなければ職業選択の自由もない。将来サッカー選手になろうとか、ロック歌手になろうとかいう夢を持つことも許されない。人生に決められたレールはないとよくいうが、彼の前にはレールが敷かれており、その上を走ることしかできないのだ。

 なんというかわいそうな人生なのか。生まれたときからあらゆる自由と権利が制限されている、そんな人間が現代日本にいてもいいのだろうか。そんなことが許されるのか。

 これはいくらなんでも憲法違反だろうと、日本国憲法の「国民の権利」の章を見たら、そこにはこう書かれていた。第11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とある。その後の条文も、「すべて国民は…」という書き出しのものが多い。つまりそこに書いてあるのは「国民」についての規定である。そして確か、天皇家には戸籍がなかったはずである。

 ということはつまり、皇族はそもそも日本「国民」ではないということだ。国民ではないのだから、国民の権利も有しない。なんというパラドックスであろう。憲法で保障された基本的人権の享有を妨げられても、皇室の人間は文句を言えないのである。日本に生まれながらも、日本国憲法を超越した存在としてその庇護すら受けられないらしい。

 それでも、国民から真に親しまれ、尊敬されるのなら、感情的側面での救いはあるかもしれない。しかし右翼と呼ばれる勢力の一部すらが、本気で天皇陛下その人のことを敬っているわけでないことを、A級戦犯靖国合祀をめぐる昭和天皇メモ騒動が明らかにした。

 右翼にとっては、あくまで天皇制という制度そのものが大事なのであって、その役を演じている個人の心情なんかは、実はなんとも思っていないらしい。だから昭和天皇が何を思い、何を言おうがまったく関係ない。むしろ余計なことを言うような奴はやっかいな存在と、目の敵にする者もいるだろう。天皇や皇族は、人間の感情をもたない人形でいてくれたほうが、彼らにとってはありがたいことのようだ。

 人形とは失礼ではないか、神様なのだ、だから俗世の人間の感情など持ってはいけないのだ、という人がいるかもしれない。同じことだ。神だろうがなんだろうが、実体は感情を持った人間なのにそれの表出を徹底的に制限されている。そんなもの、どう言葉を取り繕ったところで、ただの人形扱いに過ぎない。

 私は、天皇制というものがあらゆる差別の元凶であると考えている。生まれながらに国民を超越するような存在がいることを認めることが、逆の発想も生む。天は人の上に人を作るのだったら、人の下にも人を作るはずだ。

 憲法第14条は「法の下の平等」を定めているが、国民でない皇族には当然これも適用されない。しかし現実には、誰がどう見ても生物学的に人間としか思えない人たちが平等の上のほうに位置しているのだから、国民同士の間にもなんらかの上下を作りたくなる人たちがいても仕方がないだろう。皇族だけが特別な存在であって、国民同士の間では憲法違反だなどというのは屁理屈に過ぎない。結局差別は心の問題なのだから、天皇制という制度の存在そのものが、差別の心を持つことを容認しているのではないだろうか。

 だから私は、天皇制は廃止すべきだと思っている。そして、皇族として生まれてしまった人たちにも、もっと人間らしい生き方をしてもらいたいと思う。明らかな逆差別による人権侵害など、あってはいけないことのはずだ。

 もし今回、生まれたのが女児だったら、どういうことになっていただろう?

 生まれた子供やその母親に対するバッシングが起こったかもしれない。そこまでいかなくても、少なくとも「あ~あ、がっかり」という空気が日本中に蔓延したに違いない。

 もっともこれは余計なお世話だし、実はそれほど深刻に考えているわけでもない。たまたま今回のような、皇室をめぐる大きな話題が新聞やテレビをにぎわし、否応なしに目に触れたときにふとそう思うだけで、何か行動を起こそうとまでは思わない。

 それに、どうやら国民の半分以上は天皇制を支持しているらしいから、それならそれで構わない。はっきり言って、私は天皇制などはどうでもいい。

 ただ、「女性天皇を認めるか否か」という皇室典範の改定論議には、ひとこと言いたい。

 いっそのこと、天皇制を廃止してしまえば良いんじゃない? そうすれば、男系か女系かなんて悩む必要がなくなるよ。

 皇室がなくなれば皇室典範も必要なく、改定論議そのものが意味を成さなくなる。今回の男児誕生によってとりあえず一段落したので、これから何十年も時間をかけてゆっくり議論するということになったらしいが、そんな先送りもおかしな話だ。

 子供が生まれたばかりのときに不謹慎な話かもしれないが、あくまで一般論として、あらゆる人間が必ず長生きする保障などどこにもない。病気や事故が、いつ何どき誰の身に降りかかるかわかったもんじゃない。

 万が一のことが起こったら、また大慌てで空しい議論が声高に始まるんだろうな。