現代迷惑・災難事情 2009年

 こんな看板を見かけた。

 これを設置した人の気持ちや、その意図は良くわかる。といっても推測でしかないが、おそらく犬のフン害に憤慨しているのだろう。

 犬が駐車場内に入ってくると車の出入りの邪魔になる、といった話とは思えない。そうではなく、この駐車場内に犬のフンが落ちていたにに違いない。それも一度や二度ではなく、何度か落ちていたのだろう。そうでなければ、わざわざ金をかけてまでこんな看板は作らないのではないか。一度や二度なら、そこらへんの板切れに手書きで済ますだろうに、この看板はちゃんとした業者に発注した特注品だ。

 したがって駐車場の管理人あるいはオーナーが激しく憤る気持ちはわかるのだが、この看板、わざわざ金をかけて作ったわりにはどこかおかしい。怒りが空回りして変な方向にすっ飛んで行っているような感じがするのだ。



 そもそもこの看板は、誰に向けてのものなのか。「犬等入るな!」と書いてあるのだから、素直に読めば対象は「犬等」ということになる。

 しかし残念ながら、犬は文字が読めない。文字が読めない相手に文字でいくら立ち入り禁止を呼び掛けたところで、まったく無駄である。犬が散歩の途中にこの看板を見て、「自分は入っちゃいけないのか」とは思ってくれない。「!」を付けたところで、その怒りは犬には伝わらない。

 「犬等」というからには、「等」に何が含まれるのかも考えなければならない。まず頭に浮かぶのは猫である。動物で、街中でよく見掛けるものといえば、猫くらいしか思いつかない。イヌ科の動物ということなら狼を考えなければいけないところだが、現代の日本で、狼が駐車場のある街中に現れることは考えにくい。

 しかし、設置者の「等」の意図が猫だったとしても狼だったとしても、あるいはどちらをも含んでいたとしても、いずれにしても文字が読めないのは犬と同じである。やはりまったく看板としての意味を成していないのだ。

 ではいったい、何に向かって呼び掛けているのだろう?

 ひょっとして、ひょっとすると、犬を散歩させている人間に向かってのものなのだろうか。



 それなら、「入るな」ではなく「入れるな」と書くべきだろう。

現代迷惑・災難事情 2009年

 私の事務所があるビルの前の道路は、5車線あるからかなり広い道路といえる。もっとも両側の2車線はコインパーキングになっているため事実上は3車線なのだが、それでも広い道路には違いない。

 そしてたまたまこのビルの目の前に横断歩道があり、広い道路だからそこには当然のように信号機が設置されている。普通の人なら、広い道路に信号があったらそれを守ろうとするだろう。危ないからだ。

 ところが最近の傾向として、その道で信号無視をする人が確実に増えていることを実感するのである。以前はそれほどでもなかったが、最近は赤信号でも平気で渡っていく人がやたらと多いのだ。

 そしてかく言う私も、実は信号無視をするそのひとりだ。

 というのも、これにはちゃんとした理由があって、実はその道路は一方通行だからなのである。

 誰もが子供の頃、横断歩道を渡るときは、右を見て、左を見て、車が来ないことを確認してから渡るようにという教育を受けてきたはずだ。しかし一方通行ならどうか? 右か左の片側だけを見れば良いことになる。

 一方通行を逆走する車があるかもしれないなどという屁理屈のような可能性を指摘する人がいるかもしれないが、現代の東京の道路事情で、一方通行を逆走する車など映画やテレビドラマの中ででもなければお目にかかることはできない。こんな車に遭遇したら、逆に面白いものが見られたと、宝くじに当たった並みの幸運に感謝すべきだろう。

 だから一方通行の道路なら、どんなに道路が広かろうと、片側から車が来る気配がなければ赤信号でもどんどん渡って構わないということになるのである。

 ついこの間まで、東京人は信号を守るが大阪人は守らないと言われてきた。東京人、大阪人と区別すること自体かなり乱暴であるが、居住地域における人間の習性の一定の傾向を表していることは間違いないだろう。

 東京の人間は決まりを守るが、杓子定規で融通が利かない。大阪の人間は決まりに無頓着で、リスクを犯してでも実利を求める。どちらが良い、悪い、ではない。どちらにも一理あるのであって、これがそれぞれの地に生きる者の性向だった。

 そういえば昔、東京から大阪に出張したときの、取引先の人のセリフが思い出される。車が来ないのに信号が赤だから待っている人を見て、「東京から来た人なのかな」と思っていたら、「似ていると思ったけど、やっぱりあなたでしたか」と言われたのだ。かように、東京に住んでいる人間は融通が利かない。

 ・・・・はずだった。

 しかし、最近はかなり様変わりしている。大阪文化が浸透してきたわけでもないだろうが、確実に東京でも信号無視が増えてきた。

 これは私の事務所の前の道路の話だけでなく、他の道路を歩いているときにも痛切に感じることだ。

 これは現代人がどんどんせっかちになっていることの表れともいえ、あまり良い傾向ではないのだろうが、だからといって車が来ないのにただ突っ立っているのもばかばかしい。“時は金なり”とも言うから、無駄な時間を節約すること自体は悪いことではないだろう。

 ただここで問題にしたいのは、信悟無視はあくまで自己責任で行ってほしいということだ。

 というのも、私が信悟無視して横断歩道を渡ろうとすると、それに触発されたかのようにフラフラと付いてくる人がたまにいるのである。

 そしてそういう人は、たいていが目線は携帯電話に注がれており、まったく周囲に注意を払っていない。さらにひどいのは、ヘッドホンやイヤホンを付けて、視覚だけでなく聴覚まで遮断した状態の人がいることだ。

 こんなとき私は、非常に恐怖を感じる。

 私は信号無視をしても、突然暴走車がやってきたら走って逃げることができる。しかし、視覚も聴覚も遮断した人は、そういうわけにはいかないだろう。

 もしその人が事故に遭ったとしたら、一体誰の責任になるのか。本人が悪いのは言うまでもないが、おそらくその人は言うだろう。「前の人が歩き出したから、青になったのだと思って自分も歩き出した」と。この手の人間は、悪いことは何でもかんでも他人のせいにするものである。

 こうなると、私が信号無視したことが他者を誘発したということで、私まで罪に問われるのだろうか。確かに私は赤信号を渡っているのだから道路交通法違反をしているに違いないが、それ以上の罪まで背負わされるのだろうか。

 最近はそんな心配までしてしまうほど、携帯&ヘッドホン野郎が道にウジャウジャいて困ったものだ。

 もしそいつが事故に遭い、私が罪に問われることなくそいつの100%自己責任、自業自得と認定されたとしても、それだけでは済まない。もし事故が起これば、現実の問題として運転者の側にもなんらかの災厄がふりかかるのだ。

 たとえ法律的には責任がなくても、事故が起これば現場検証やら何やらで運転者が時間を拘束されることは免れず、重要な仕事に支障をきたすこともあるかもしれない。たとえ自分にまったく非はなくとも、人を轢いてしまったという後悔の念や、ハンドルを握っていたときの手の感触があとあとまでトラウマとして残ることもあるだろう。運転を仕事にしている人間なら、仕事を廃業しなければならないかもしれない。

 見知らぬ人のその後の人生にも大きな影響を与えかねないのである。

 こうなると自己責任では済まされない。携帯&ヘッドホン野郎は、そこまで自覚してほしいものだ。

 怒っている人を見た。

 いや、正確に言えば見たのは人ではなく、看板だ。建物の外を歩いているある特定の人に対して、その看板は激しく怒っていた。




現代迷惑・災難事情 2009年
 この看板を出した人は、犬のフン害に憤慨しているようだ。その激しい怒りが、震えるような文字と稚拙な文章にくっきりと浮かび上がって生々しく伝わってくる。ほとんど恫喝である。

 この気持ちは、私にも良くわかる。私は犬を飼っているので、逆に良くわかる。

 毎朝犬の散歩をしていて、とにかく道に犬のフンが放置されているのを良く見かけ、見るたびに私も激しく憤慨しているからだ。落ちているのは道端だけではない、道の真ん中に堂々と放置されていることすらある。

 もちろん、犬が散歩の途中にフンをする習性があることは私も良く知っている。というか、ウチの犬も毎朝、散歩の途中に必ずフンをする。最近は室内で犬を飼うケースが増えているが、ウチでは外で飼っているので普段は鎖に繋がれている。したがってあまり動くことができず、散歩することによって身体の活動性が活発化されて、腸内の蠕動運動も活性化するからだろう。

 だから私は飼い主に対して、犬が道でフンをしないようにトイレの躾をしろと言うつもりはないし、そのことを問題にされたら、私も「それは勘弁してください」と言わざるを得ない。問題はそこから先であり、犬が道にしたフンを飼い主が処置するか放置したままにするかということなのだ。

 そして放置するヤツがひとりでもいると、こちらまでが同類に思われてしまうことが、私の怒りに拍車を掛ける。犬嫌いの人から見れば、犬を連れて歩いている人間はすべてフンを放置している非道なヤツらとして一括りにされてしまうだろう。

 愛犬家の敵は愛犬家、ということだ。道に落ちているフンが不愉快なだけでなく、私までが疑惑の目で見られることが耐えられないのである。

 だからみんな、犬のフンはちゃんと処置しましょうよ。

 それにしても『厳重に処罰』とは、見つかったら一体どんな目に合わされるのだろう? 一度その光景を見てみたいという好奇心も湧き上がるが、さすがに自分でやる勇気はない。


現代迷惑・災難事情 2009年
 道に落ちていて迷惑なのは、犬のフンだけではない。嫌煙運動がこれだけ盛んになり、路上喫煙を条例で規制する地域が多くなっているにも関わらす、タバコの吸殻も相変わらず多い。これまた、犬の散歩のときに良く感じる。

 いや、逆に室内でタバコを吸えるところが少なくなってきているからこそ、逆に戸外でタバコを吸ってそのまま捨てていく人が増えているのかもしれない。

 それにしても、『大馬鹿野郎』とはなんと激しい怒りなのか。こちらは処罰の内容もはっきりと明記されている。掃除代を払わせるのだそうだ。

 わざわざ掃除をしなければいけないほどなのだから、ここに捨てられているのは1本や2本ではなく、かなり大量の吸殻なのだろう。ちょっとその状況が想像できないのだが、無理に考えれば、吸殻が山盛りになった灰皿をもってきて、わざわざこの場所に捨てていく人がいるということなのだろうか。しかも『今迄』とあるから、それが常習的に行われているということなのだろうか。

 自分の家の横を常習的に吸殻の捨て場所にされてしまったのならば、ここまでの激しい怒りも充分に理解できる。

 しかし、いかんせん掃除代がいくらなのか、それがわからないのが、この看板の問題点だろう。ここまで書くからには、この看板を出した人は今迄何回掃除をしたのか記録をちゃんと付けているのだろうし、1回当たりの単価がいくらで現在累計がいくらになっているのかまで計算しているに違いない。

 それならばそれも明記するべきであり、『掃除代』と書くのなら、それがいくらなのかも書いてくれないと、逆に相手に突っ込む口実を与えてしまうことになりかねないと懸念する。

 犯人はきっと、目撃されても「自分が捨てたのは今回だけだ」とか、「掃除代がそんなに高いわけがない」とか、言い逃れをするにきまっている。そのような言い逃れの口実を与えないためには、具体性をさらに徹底するか、あるいは逆に抽象的にするかのふたつにひとつしかないのではないだろうか。

 根拠などなくてもいいから『罰金100万円!!』とか書いたほうが効果的なように思ってしまうのだった。

 ある日、JR神田駅近くの串焼き屋の前を通ったときのことだ。

 たまたますれ違ったサラリーマン風のふたり組の話し声が、私の耳に届いてきた。正確に言えば、そのふたりのうちのひとり、年長者の方の声であるが。

「あれ、ここラーメン屋だったのに変わったのか。あのラーメン屋、ジャイアンツの選手も大勢来ていた有名な店だったのに。そうか、店、変わったのか・・・」

 私も、その串焼き屋のある場所がかつてラーメン屋だったことを知っている。その店のラーメンを食べたことも何度かある。しかし、ジャイアンツの選手が大勢来ていたとは知らなかった。

 しかし、私は、その店とジャイアンツとの関係をまったく知らないわけでもない。回りくどい書き方をしているが、私がその店とジャイアンツとの関連で知っているのは、店の玄関前に、高橋由伸選手がその店のラーメンを食べているところの写真が飾ってあったことだけである。

 しかもその写真は店内ではなく、TVのバラエティー番組、タモリも写っていたからどうやら『笑っていいとも』の一コーナーらしいのだが、そこに高橋選手が出演したときに食べている場面だった。つまりその写真だけでは、高橋選手がその店に来たことがあったかどうかわからない。店の中には一歩も足を踏み入れたことがないかもしれないのだ。

 それにもかかわらず、サラリーマンは「ジャイアンツの選手も大勢来ていた店」と言う。人の噂とは、かくも恐ろしいものである。

 もちろん、私が知らないだけで実際にジャイアンツの選手が大勢その店に来ていて、その場面をあのサラリーマンが目撃したことがあったのかもしれない。その可能性は0ではない。

 しかしそれでも私は、このときのセリフはあのサラリーマンの単なる思い込みから作られた法螺話、悪意のない誇張であると断じたい。なにしろ、私はほぼ毎日、その店の前を朝晩2回通り、昼時にも何度か通り、前述したように何度か店内に入ってラーメンを食べたこともあるが、ジャイアンツの選手が食べているところなど一度も見たことがないからだ。

 人間の連想とは勝手なもので、ちょっとしたきっかけによってもたらされた思い込みがどんどん肥大していき、人に話す時にはまったく違う大げさな話になってしまうことが良くある。これは別に責められるべきことではなく、噂とか伝聞というのは本質的にそういうものである。

 そして店の側は、そのような誇張の連鎖を狙っていることは間違いない。

 かつてそのラーメン屋は、店の前の高橋選手の写真だけでなく、店の中にも有名な芸能人やスポーツ選手のサイン色紙を何枚も飾っていた。

 色紙が店内にある場合は、その有名人たちはたぶん本当にその店に来て食べたことがあるのだろう。もちろんこれも疑えばキリがなく、まったく別のところでたまたま貰った色紙を飾っているケースもあるかもしれないが、それはとりあえず置いておく。

 とにかく色紙があった場合、その色紙を見た一般人たちはつい、それを書いた有名人がその店を推薦しているように思ってしまう。そしてあのサラリーマンのように、その思いが肥大化して、つい、他人に「○○さんの行きつけの店なんだよ」と話してしまう。

 しかし良く考えてみれば、色紙があったからといって有名人がその店を推薦しているということにはならないし、行きつけどころか、入ったのはそのとき一回こっきりかもしれないではないか。頼まれて色紙は書いたものの、あまりのまずさに2度と行っていないかもしれないのだ。

 もし自分が有名人だったら、と想像してみれば、そのことが良くわかる。

 芸能人でもスポーツ選手でもなんでもいいが、あなたは有名人である。当然のことながら有名人も腹は減るから、たまたま行きずりに見掛けた食べ物屋に入ることもある。ラーメン屋なら、小腹が空いたといった程度で、おやつ代わりに気軽に入ることもあるだろう。そして、たまたま入った店で色紙にサインを頼まれたとしたら、あなたは断れるだろうか?

「あっ、○○さんですね、いやあ、よくいらっしゃいました。すみません、色紙にサインをいただけますか?」

 ここで、あなたは思うだろう。色紙にサインをしたら、確実にその店の中に色紙を飾られることになる。つまり、タダでその店の宣伝をさせられることになるのだ。まだ食べてもいないのに、おいしいかどうかわかりゃしないのに、それは嫌だ。

 これが普通の感覚だと思うのだが、同時にこういう連想も生まれる。

 もし断ったらどういうことになるか。おそらく店主、あるいは店員から悪口を言われるに違いない。面と向かって言われることはないかもしれないが、これ以降、ことあるごとに口コミで以下のような評判を立てられることは間違いない。

「この前さあ、店に○○が来たんだけど、気取った態度の嫌な奴なんだよ。こっちがサイン頼んでんのに、フンッて感じで無視しやがって、いけ好かないったらありゃしない。自分が有名なのを鼻にかけて、ああいうファンを大事にしないヤツはダメだね」

 ここまで想像したら、人気商売であるあなたは、サインをしないわけにはいかないだろう。うまいかどうかもわからない店の宣伝に加担せざるをえなくなるのだ。

 それでも、骨のあるあなたなら「食べてからにしてほしい」と言うかもしれない。

 しかしそうすると、ラーメンが出てくるまでの間に気まずい思いをすることになる。店の人は、あなたが有名人だから何かとちょっかいを出したくて話しかけてくる。しかしあなたは、「やっかいなことになった」という思いが心の中に渦巻いているから、素直に対応できない。おべんちゃらを言われても、愛想笑いが引きつってしまう。

 なにしろ、ただラーメンが食べたくて入っただけの店なのだから。

 最悪なのは、食べた後、それがまずかった場合だ。いやまずいとまでは言わなくても、自分の口に合わなかった場合だ。

 本当にうまかったら素直にサインすればいいのだが、口に合わなかったら、あなたはサインを断れるだろうか。

 店主は、あなたが食べ終わったのを見ると、待ってましたとばかりに色紙を突き出して、「さあ、書いてください」とニコニコ迫ってくる。まさか、ここで断るわけがないよなと、自信満々だ。

 ここで断ったら、「うちのラーメンがまずいってえのか!」と怒り出すだろう。ファンを減らすどころか、敵を作ることになる。下手をすれば掴み合いの喧嘩だ。

 あなたの心の中には、激しい葛藤が渦巻く。仕方がない、サインをするか。しかしサインをするとしても、あくまでファンサービスのためであって店の宣伝のためではない、とあなたは自分の良心に言い聞かせようとするだろう。しかし店は、確実に宣伝に使おうとするに違いないこともわかっている。

 さらに店の人は、「名前だけじゃなくて、どうせなら『おいしかった』くらいの一言は書いてくださいよ」くらいのことは言うだろう。

 これを、人気商売のあなたは断れるだろうか。実はあなたは、こんなまずいものはない、こんな店に入って損をした、こんな店には2度と来るものかと思っているのに。

 だいたい冒頭に挙げた高橋選手の例だって、テレビ番組の中で「うまいもの」と言われて出されたものを「まずい」と言えるわけがないのだ。一口食って「まじ~」なんて顔をしかめたら、番組が台無しになってKYのレッテルを貼られてしまう。

 ということで、テレビ番組もそうだが、飲食店の中にある有名人のサインを、私はまったく信用しない。断りきれずに、とにかくその場を丸く治めるために、いやいやサインさせられたものが多々あると思うからだ。

 しかしそれでも、世間の人はその色紙を見て言うのだ。

「あの店は○○さんの行きつけの店なんだよ」

 麻生内閣が、断末魔の悲鳴をあげている。

 衆議院の解散先延ばし、給付金をめぐる騒動、補正予算案をめぐるドタバタ、さらには相変わらず繰り返される失言や漢字が読めないことが露呈したことで、自民党内からも「麻生氏は首相の資質がないのではないか」という疑問の声が出始めているらしい。

 しかし、ちょっと待ってほしい。圧倒的な党内の支持で首相に祭り上げておいて今さらそれはないだろうと、自民党の人たち、つまり総裁選挙で麻生氏に投票した国会議員や地方党員の人たちに言いたい。どうして今まで、それがわからなかったのか。

 思えば小泉以降、安倍信三、福田康夫、麻生太郎と、3代に渡る首相は自民党内での圧倒的な支持を背景に誕生した。それが、前の2代は無責任に政権を放り出し、3人目はこの体たらく。国民からすれば、3人とももともと首相の資質がなかった人としか思えないのに、なぜこんな人ばかりを選んできたのか。

 3人とも、突然彗星のように現れた政治家ではない。それなりに政治家としてのキャリアを積み、幹事長とか官房長官とか外務大臣とか、党や内閣の要職を歴任してきたはずだ。それなら、その過程において首相の資質があるかどうかくらいはわかりそうなはずではないか。幹事長や外務大臣は漢字が読めなくても務まるが、首相はそれではいけないとでもいうのだろうか。麻生氏だって、首相になって急に漢字が読めなくなったり、失言したりしているわけではない。昔からのはずだ。

 逆説的ではあるが、この人たちが党内での熾烈な権力闘争を経て勝ち上がってきた人であるなら、自民党は最後の選択を間違えたで済むかもしれない。

 権力闘争をするということは、「自分が最高権力者になったらこうしたい」という政策をぶつけ合って戦わせることだ。戦わせる中で政策は磨かれていくし、いざ権力者になったときの実行への執念も生まれる。

 ところが、一応総裁選挙はあったもののそれはお座なりで、名乗りを上げた時点で圧倒的な支持によってすんなり総裁・首相になることが決まってしまったのでは、選ばれた人に執念も緊張感も生まれようがない。なんとなくムードで首相になってしまったのだから、簡単に放り出すようなことが起きる。

 こんな総裁選挙を3代に渡って続けてきた自民党には、もはや首相となるべき人を選ぶ力がない、ひいては政権担当能力がないと言わざるを得ないではないか。

 すべては、“国民的人気”なるものを勘違いしていることから起こっている。福田氏はともかく、安倍氏は間違いなく自分に人気があると勘違いしていたし、麻生氏は今も勘違いしているだろう。

 自分に人気があると勘違いした首相は、とにかく人気に応えようと格好つけることにばかり腐心するが、実は本当の人気はないから国民の目にはそれが空回りしているように映り、逆に失笑のまととなる。安倍氏の記者会見時におけるカメラ目線はいい例で、自分は格好いいと思っていたのに国民は気持ち悪がっていた。麻生氏は、ホテルのバー通いが批判されると居酒屋に行ったりして、ほっけの煮付けなどと言って笑いものになった。今や国民は、今度はどんな漢字を読み間違えるだろうと興味津々である。

 しかし、本人もさることながら、もっとも勘違いしていたのが自民党の議員たちだ。人気がある人間を総裁にすれば総選挙で勝てると思っていたから、「こいつが人気がありそうだ」となると一気にそこに雪崩れ込んで、妙な人物を圧倒的な支持で選んできた。集団ヒステリーのようなものであるが、この責任はとてつもなく重い。

 なんといっても、ここ3代の首相は、国民が選んだわけではない。自民党が選んだだけであり、解散を先延ばしにして国民に選ぶ権利すら与えてこなかったのが自民党だ。

 昨年の参議院選挙後、「これは政権選択選挙ではない」と言っていたのは自民党議員たちであるが、その政権選択選挙をいまだにやらずに、首相は3人目となる。

 麻生氏はおそらく、この期に及んでもまだ自分に人気があると勘違いしているだろうから、とにかく解散を先送りにしながらなんとか踏みこたえていればそのうち人気が回復するだろう、そのときこそ解散だと考えているようだ。

 ところが、回復するも何ももともと人気はないのだし、首相としての能力にも疑問符が付くから、もっともっとボロが出て支持率がさらに低下することがあっても、挽回のチャンスがあるとはとても思えない。

 それなら、党内から麻生氏に解散を積極的に働きかけるべきである。

 ここは自民党にとっても、即座に解散・総選挙をするほうが得策ではないのか。

 万が一、公明党と併せてでも過半数を取れれば、直近の国民の信託を得たと胸を張り、参議院での逆転状態にも強く出ることができる。

 仮に負けたら民主党に政権を明け渡し、新しいリーダーを選んで、次の政権奪取に備えればいい。民主党政権がそうそううまくいくとは思えないから、「やっぱり自民党だ」という声が起きることも期待できる。

 とにかく先延ばしの今の状態こそが、停滞感だけが漂って国民にとっては一番不幸なことである。

 事務所で使用しているパソコンの前面の赤いランプが、あるときから点きっぱなしになった。バッテリー状態ランプで、赤は充電中という意味だ。

 充電が終わればランプは緑に変わるのだが、いつまでたっても変わらずに赤のままなのである。要するにバッテリーパック切れであって、もはや充電する余力すら残っていないらしい。

 このパソコンを使い始めたのは2005年の4月だから、すでに3年以上が経過している。バッテリーパックの寿命は23年というところらしいから、そろそろ寿命がきても仕方がないのだろう。

 しかし私は、慌てることもないし、落胆もしなかった。というのも、このパソコンは常にACアダプターを使って電源につないだまま使用しているものだからだ。したがって、バッテリーパックはないならないで困ることはなく、実は今までもセットしてはいたものの実態としてはまったく使用されていなかったのである。新しいバッテリーパックを買ってくることも一瞬考えたが、そのうちパソコン本体も壊れる時期が来るだろうから、何も慌てて部品だけを買う必要もないと思ってそのままにしておいた。



 ところが、困らないと思っていたにもかかわらず、困ることが起こったのだった。

 ある日の仕事中、唐突にブチッという音とともに、画面が真っ暗になってしまったのだ。そして、前面も側面も、パソコンのあらゆるランプが消えている。

 こんなことは、このパソコンを使って以来、初めてのことだ。

 早くも本体までが壊れたのか? それはいくらなんでも早過ぎる。

 私は動揺しながら、電源を一度外してからコンセントに強くねじ込み、アダプタージャックをこれまた念入りにパソコンにねじ込み、改めて電源ボタンを押してみた。

 しばらくすると、パソコンはいつものようにブーンという音とともに起動を開始した。そしてまたしばらくするといつものようにWindowsが立ち上がり、普通に使える状態になった。どうやらパソコン本体の故障ではないようだ。単純に、電源の接続が遮断されただけのことらしい。良かった、良かった…

 などと安堵している場合ではなかった。

 電源にちゃんとつないでいるのに、突然電源が落ちるなどということがあっていいのだろうか。瞬間的に停電が起こったのかもしれないと思ったが、現代の東京の電力事情において、そのようなことがあるとは考えられない。やはりパソコンの側の問題だろう。

 このときはかなり複数のソフトを立ち上げて作業していたので、パソコンに実力以上の過大な負荷がかかっていたのかもしれない。メモリーがアップアップして、悲鳴を上げて落ちてしまったのかもしれない。

 しかしこれらの原因はすべて推測に過ぎず、実際に何が起こったのかはまるでわからなかった。ただいずれにしろ、そのときやりかけだった仕事のデータはすべて消滅したことはいうまでもない。

 私は落胆しながらも、バッテリーパックが機能していたらこのような事態は回避できていたかもしれないなと、ふと思った。



 これが、単にこれ1回だけのことだったら、たまたま起こったアクシデントとして笑い話にもできただろう。

 しかし、そうは問屋が卸さなかった。私のところに来ている問屋は執念深いのだった。

 数日後に、またもや、まったく同じ現象が起こったのだ。

 私は仰天した。そして、今度は激しく狼狽した。コンセント類はこの前確認し、充分きつく差し込んだはずなのに、なぜまた?

 こうなると、いつまた同じことが起こるかわからない。「2度あることは3度ある」というから、ことわざが真実なら最低もう1度はあるはずだ。いや、もう1度で終わってくれればいいが、このままだと永遠に繰り返される可能性があると不安に陥った。

 仕事をしていても、いつまた落ちるかと思うと怖くて仕方がない。そこで2度目の事態以来、ちょっと仕事をしたらすぐにセーブ、ちょっとデータをいじったらすぐにセーブと気をつけるようになった。しかし、これがまた面倒くさくて仕方がない。かといって、まだ大丈夫だろうなどと油断していると、その隙を狙われて突然落ちかねない。

 こんな状態が続いたら、私はそのうち強迫神経症になってしまうだろう。いつ電源が落ちるかしれないなどとビクビクしながら仕事していると、極端な話、ワープロでもエクセルでも一文字打つごとに「上書き保存」しなくてはならないのだ。

 こんなことで病院に通わなくてはならなくなるのは嫌だった。それを避けるためには、いざというときの補助電源としてバッテリーパックの設置が必須であるという結論にすぐに達した。とにかく、バッテリーパックを付けていたときは、こんなことはなかったのだから。



 こんな紆余曲折を経てようやく私は決断し、パソコンを購入した有楽町にある家電量販店に行った。

 天寿を全うしたバッテリーパックの実物を持って行き、カウンターで店員に「これをください」と言ってみた。定員は「ちょっとお待ちください」と言って裏に回ると、なかなか出て来なかった。

 これは充分予想していたことだった。3年以上前のパソコンのバッテリーパックがすぐに見つかるとは、私も思っていなかった。一応私も、仕事でのパソコン使用歴は長いので、このくらいの業界的常識は持ち合わせている。

 そして、しばらくして出てきた店員は「在庫がないのでメーカーに問い合わせます」と言った。これもまた、予想通りの展開だ。

 在庫があるにこしたことはないが、すぐに購入は無理だろう、メーカーから取り寄せるのに一週間くらいはかかるだろうと、最初から私は覚悟していたのである。一週間くらいなら待ってもいいし、もっとかかるようなら他の店に行ってみるか、秋葉原をグルリと回ればどこかにあるかもしれないなどと、面倒くさいと思いながらもこの時点では気軽に考えていた。

 しかし、メーカーとの電話を終えたあとの店員の口から発せられた言葉は、まったく予想外のものだった。

 もはやこのパソコンは生産終了になっており、部品であるバッテリーパックも、メーカーにも「ない」と言うのだ。

 そんな馬鹿な!

 愕然とした私の顔を見ると、店員は気の毒そうな表情を浮かべ、メーカーから言われたいくつかの方策を話してくれた。しかし、ハードディスクを初期化してウンヌンカンヌンなんて、データを全部一度どこかに移管しなくてはならないし、インストールしているソフトも全部やり直さなくてはならない。そして結局のところは、パソコンそのものを買い換えるしかないということのようなのだ。

 おいおい、待てよ、パソコンそのものは壊れておらず、基本的にはなくても構わないがあったほうがより良いという部品をこちらは買いに来ただけなのだ。それなのに、パソコンそのものを買えだと?

 私の中に、激しい怒りが込み上げてきた。しかしその怒りをぶつける相手は、この店員ではない。でも言わずにいられない。私はできるだけ冷静に言った。

「あなたにこんなことを言っても仕方がないんですけど、こういうメーカーの姿勢はどうなんでしょうね。そりゃあ、パソコンのモデルチェンジは頻繁に行われていることは知ってますよ。でもね、部品がないからパソコンを買い換えろなんて、メーカーの言うことですか? まだ使える今のパソコンをゴミにしろということですよ。こんな、必要以上にゴミを出している企業が、環境に優しいとか言ってるのはちゃんちゃらおかしいですよ。やたらと今、あらゆる企業が環境問題に取り組んでいると宣伝していますよね、このメーカーもそうです。でも、環境に配慮する企業姿勢を打ち出すのなら、生産や流通段階でのCo2 削減よりも、もっと地道にゴミを出さないようにすることを考えるべきでしょう。部品なんか共通規格で、いくつかのモデルで搭載可能にできるはずなんですよ。なんでわざわざ、新モデルを作るたびに部品の規格まで変えるんですか。

それにそもそも、普通、生産者は自分が作った製品をできるだけ長く使ってほしいと思うもんじゃないですか? ところが、消費者が使い慣れた愛着のある製品をもっと使おうとしているのに、生産者側がそれを阻害するようなことをするなんて、生産者の心意気はどこに行ったんだとまったく嘆かわしいですよ」

 まったくもって、販売店の店員に言っても仕方がないことだが、私はどうしても言わないではいられなかった。

 ちなみにこのメーカーはSHARPであるが、どこのパソコンメーカーも姿勢は同じであることは言うまでもないだろう。

 新製品をどんどん出すよりも、今ある製品をできるだけ長く使えるようにしてほしい、この消費者の願いは当たり前の話だと思うのだが・・・



 こうして今も私は、いつ電源が落ちるか分からないパソコンをビクビクしながら使っている。

 しかし、怒りは容易にパワーに転化されるから、もはや私が病気になることはないだろう。そう簡単にメーカーの思惑に乗ってたまるか、多少の不便はあろうとも、こうなったらいつまでもしつこくこのパソコンを使い続けてやると固く決意しているからだ。

 国会が開会して、麻生“オレ様勘違い内閣”が本格的に始動してしまった。

 国会開会前に大臣のひとりが辞任するという茶番劇があったが、さもありなん。私としては、麻生氏自身が“失言”という名の本音を語って早々に辞任してくれることを願ったのだが、それもかなわず、走り出してしまった。

 ちなみに、今回大臣を辞任した中山成彬氏は、総裁選で応援を受けた町村派からのゴリ押し入閣だったそうだから、案外麻生氏本人は、余計な奴を排除できたと喜んでいるのではないだろうか。


 私が麻生太郎氏を嫌いな理由は、政策ウンヌンもそうだが、何よりも人を見下したその言動、態度にある。過去の、数々の“失言”という名の本音でも明らかなように、それはおぼっちゃまだから仕方がないというレベルのものではない。野中広務氏の言葉を借りれば、このような人物を首相にしたことはまさに「日本の不幸」だ。

 そして当然のことながら、自民党総裁、総理大臣になったことよって、ここ数日、そのオレ様ぶりにさらに磨きがかかっている。先日の自民党の新聞広告やTVCMでは、まるで自民党にはオレ様しかいないという感じの露出の仕方で、ウンザリさせられた。組閣後の閣僚名簿の発表は通常は官房長官が行うものだが、それも自分で取り仕切り、国会の所信表明演説では「私」という言葉の連発。

 それならそれで、とことん暴走して早く自爆してほしいと切に願う。

 余談だが、この人が河野派に属していたということにいまさらながら驚く。この人の歴史認識、人権感覚は河野洋平氏とは対極にあるはずだが、河野氏はどう思っていたのだろう? またその派閥は河野派から麻生派に衣替えしたものの、属している所属議員たちの感覚はどうなっているのだろう?

 自民党自身が雑多な人たちの集合体であるが、派閥までがそうだとすると、派閥って一体何?



 広告の露出の仕方は、本人だけではなく、広告を作った自民党にも問題がある。自民党のホームページは『麻生自民党始動』 であって、今でも本人はもちろんだが、どうやら自民党挙げて麻生氏には「国民的人気」があると勘違いしているらしいからだ。この人に本当に国民の人気があるとは私にはとても思えず、実はたいした人気がないということは、最近の各種世論調査の結果を見るまでもない。

 かつて安倍晋三氏も自分に「国民的人気」があると勘違いし、参議院選挙で「私を選ぶか小沢さんを選ぶか」と絶叫して見事に惨敗したわけだが、その轍を踏もうとしているようにしか見えない。

 それならそれで、勘違い振りを徹底的に発揮してくれたら面白いともいえるが。


 私がもし民主党の立場だったら、前回の自民党総裁選挙で当選したら嫌だったのは、与謝野馨氏か小池百合子氏だ。石破茂氏と石原伸晃氏のふたりは、最初から泡沫候補だから論外だ。

 与謝野氏は、堅実な政策通であり、ソフトな語り口で話の内容は理路整然としている。もし当選していたら、その後の国会論戦や衆議院選挙戦は、完全なる政策論争になる。これまで自民党の失政を突いて点数を稼いでいた民主党にとっては手強い相手だ。爆発的なブームを呼ぶことはありえないが、地道な支持を集めたことだろう。支持率が乱高下することもなく、支持は少なくても不支持も少ないということで、一定の評価をされるに違いない。

 ブームが起きないということは、選挙の投票率が上がらないということでもある。大多数の国民は、実は政策の中身などはよく分かっておらず、ただ「景気を良くして」と思っているだけだから、細かい話を聞いてもどちらがいいか判断しようがない。わからないから投票にも行かない。無党派層に吹く“風”に頼らざるを得ない民主党にとっては、低投票率は辛いものがあるはずだ。

 逆に小池氏の場合は、小泉ブームのようなとんでもない嵐を巻き起こす可能性がある。政策的には未知数であるが、初の女性首相、しかも元ニュースキャスターということでそこそこ容姿も良く語り口もさわやか。環境相として、クールビズの旗振り役も勤めた。この人を前面に打ち出していたら、民主党にとっては逆風が吹き荒れる可能性を秘めていた。

 このふたりだったら、まったく正反対のキャラクターだが、どちらにしても民主党には脅威だっただろう。

 ところが自民党が選んだのは、「国民的人気」を勘違いして麻生太郎氏だ。麻生氏は都道府県連の地方票を圧倒的に集めたということだが、これがまさに、地方の県連レベルで国民の本当の声を勘違いしていることに他ならない。大政翼賛会かっ、という感じで自民党の末期的症状を表している。



 とはいえ、民主党にも決め手がないから困ってしまう。ここで、ミスター年金の長妻昭氏でも出していたら大向こう受けしていたはずだが、元自民党幹事長の小沢一郎氏の無投票再選では・・・

 いずれにしろ、選挙が楽しみである。早く解散してほしいものである。

 最近、このアメーバブログでシステム変更(本文内に広告掲載)や、アクセス集中によるシステム障害があり、そのあたりの事情についてスタッフブログ というところにスタッフからのお知らせが掲載されている。そしてそれに対して、各ブロガーがああだこうだとコメントを寄せているのだが、その中に気になるものがいくつかあった。

 ほとんどのコメントはシステムに対する不平や不満なのだが、そういう意見があると必ずのように「タダでブログを書かせてもらっているのだから文句を言うな」という内容のコメントが入るのだ。アメブロスタッフを擁護し、逆に文句を言っているブロガーを非難するコメントである。

 そして、こういった意味のコメントを見るたびに、私は「それはいくらなんでも違うだろう?」と疑問に感じる。

 しかし自分の中で感じているだけでは誰にも伝わらないので、一応ここに、なぜ違うかを書いておくことにした。

 ちなみに私はこのブログを20068月から始めているが、このスタッフブログというものの存在は、今月になって初めて知った。私は好きなときに書きたいことを書いているだけなので、システム機能の追加やお知らせなどにはこれまでまったく興味がなかったからだ。

 したがって以前のことは知らないのだが、おそらく昔から、こうしたスタッフとのやりとり、そしてそれを巡るブロガー同士のやりとりはあったと推測する。そしてもしそうならば、「タダで使わせてもらっている」というコメントはこれまでも何度も出てきたに違いない。

 そして、それがいまだに、2008年の2月になっても繰り返されているという事実に、私は驚かざるをえない。なんて純粋な人が多いのだろう。

 というのも、株式会社サイバー・エージェントは、このアメブロ をボランティアで運営しているわけではなく、あくまでビジネスとして、会社の利益を上げるための手段として運営しているからだ。支出分さえカバーできれば収支トントンで良いなどとも絶対に思っていない。なんとかしてガッポリ儲けようと思っているはずだ。

 どうもそこのところを、いまだに勘違いしている人がいるらしい。そうでなければ、「タダで使わせてもらっている」などというコメントは出てこないだろう。

 サイバー・エージェントがビジネスとして、どうやって利益を上げようとしているのかといえば、それはもちろん広告収入である。

 220日に電通が発表した2007年の国内広告費調査によると、インターネット媒体向け広告が前年比24.4%増の6003億円で、雑誌を抜いてテレビ、新聞に次ぐ第3の広告媒体になったという。

 日本中のあらゆる雑誌に掲載された総広告費よりも、インターネットに投下された広告費の方が多くなっているという現実。インターネット広告の黎明期はとうに過ぎ、いまやネット企業同士がたわわに実った果実の分捕り合いをしているのである。さらには、雑誌と違ってインターネットの場合は用紙代・印刷代・輸送代などはかからないから、支出ははるかに少なくて済む。

かつてはテレビ、新聞、雑誌、ラジオが「4大広告媒体」と言われていたが、いまやテレビ、新聞、インターネットが「御三家」という時代になったわけだ。しかも新聞は前年比2.6%減、テレビは0.9%減なのだから、インターネット広告がいかに急伸しているかがわかる。果実の分捕り合いどころか、新しい果実もどんどん実っているのだ。

 アメーバブログも、このインターネット媒体のひとつであることは言うまでもない。当然のことながら、広告収入は大きく伸びているだろう。

 もちろん、だからといってすべてのインターネット媒体が儲かっていると言うつもりはない。個々のサイトを見れば、黒字のサイト、赤字のサイトがあるのは当たり前だ。収入は増えているがまだまだ赤字というサイトもあるだろう。黒字になっても、初期投資分が解消できなくて累積ではまだ赤字というところもあるだろう。

 しかしこのアメブロは、ブログサービス業者の中で最大規模を自称しているのだから、さすがに赤字ということはないのではないか。もう充分に利益が出ているのではないか。

 仮にまだ赤字だったとしても、将来的には必ず黒字になるはずだと見込んでいることは間違いない。そうでなければブログサービスからはとっくに撤退しているはずだ。そもそもこれだけブログサービス業者が乱立しているのも、ブログは儲かる商売だということが定着したからではないか。とすれば、その最大手が儲かっていないわけがない。

 利益が出ているとすれば、それは誰のおかげなのか? 広告主がお金を払ってくれるからだが、広告主はなぜアメブロにお金を払って広告を載せるのか? アメブロに多くの読者が集まってくるからだ。アメブロになぜ読者が集まるのか? 多くのブロガーおり、彼らがブログを更新するから、それを読むために人が集まるのだ。

 要するに、ブロガーがいてこそのアメブロ、ブロガーを利用してサイバー・エージェントは儲けているのである。

 そしてアメブロは、さらにあの手この手を使って広告収入を増やそうとしている。

 広告収入を増やすためには、大きく分けてふたつの手段がある。1.量を増やすこと 2.単価を上げること、のふたつだ。

1.量を増やす

 これまでも記事の周辺にはいくつも広告が掲載されていたが、さらに広告スペースを拡大するためにアメブロは、各ブログの本文内に広告を掲載するということを始めた。

 これを最初見たとき、私は仰天した。自分が書いていないことが記事の中に載っていたのだから、何かのバグだと思ったくらいだ。そして次に、自動的に広告が挿入されるようになったのかと気付いたときには、なんとも不愉快な気持ちになった。枠外ならともかく枠内に広告があったら、まるでその会社や商品を私が宣伝しているみたいではないか。

 どうやらそう思ったのは私だけでなかったようで、スタッフブログにはこの件への抗議がかなり寄せられている。抗議のポイントは3点。

●本文と一体化しすぎている

●本文内に広告を表示させたくない

●表示されている広告内容を変えてほしい

 これに対してスタッフは返答をし、既にいくつかの改善を行っている。それはいいのだが、第2点に関しての『広告非表示機能の開発を行っております。リリースは7月~8月を予定しております』はいただけない。多くの抗議があったら、いったん広告を外して表示・非表示を選べるようにしてからリリースすることが普通の対応ではないか。新システムの開発にも時間がかかりすぎる。おそらく真相は、広告代理店などに78月分までの広告枠をすでに売ってしまったから、少なくともそれまでは外せないということではないのか。そしてそのくらい時間が経過すればブロガーたちも慣れてしまって、もう文句も出なくなるだろうと、甘く見ているのではないか。

 第3点についても、『不適切な広告内容については広告配信会社と調整を行っております』と、広告掲載企業としての責任をまったく自覚していない返答だ。媒体は掲載広告に対する責任があるはずであって、他社のせいにするというのは責任逃れでしかない。このへんは、倫理観の欠如した新興企業丸出しだ。

2.単価を上げる

 基本的に広告料金とは、どの程度の人々の目に広告が触れるかによって決まる。より多くの人の目に触れることが期待できれば広告料金を高く設定することが可能となり、少なければ料金も安くせざるを得ない。新聞や雑誌なら発行部数、テレビなら視聴率が基準となり、インターネットなら当然、アクセス数だ。

 したがってアメブロは、このアクセス数を増加させるためにも、さまざまな方策を用いている。ペタとかアメンバー、『アクセスアップ講座』なども、その一環である。ブロガーがお互いに読者になりあって、その輪がどんどん広がって、常に知り合いのブログを回覧するようになれば、自ずから総アクセス数はあがっていく。

 表面的にはブロガー同士の交流のお手伝い、あなたのブログのアクセスアップのお手伝いを装っているが、実はそんなことは二の次であって、それよりなにより、総アクセス数の増加が第一義であることは絶対的に間違いない。

 ブログネタを提供しますというメールもそうだ。ブログを始めたもののネタがないという人が多いのでネタを提供しているということのようだが、これも表面上の理由。ブログは更新されなければアクセス数は増えないから、どんどんネタを提供して一行でもいいからとにかく更新してもらいたいのだ。

 こうしてアクセス数が増加していけば、そのデータを基にして現行の広告料金の改定、つまり値上げができる。サイバー・エージェントはこれを狙っている。

 ということで、アメブロは儲け主義丸出しでさまざまな事を行っているのだが、実は私はそれを批判しているわけではない。ここまでわざと皮肉な書き方をしてきたが、ビジネスは決して悪いことではなく、サイバー・エージェントが株式会社である以上、利益を追求するのは当たり前の話だ。

 ただし、その真の意図を隠して、まるでブロガーのためにサービスでやっているかのような態度を装っていることが気に食わないだけだ。

 そしてそれに騙されて、「スタッフは我々のために一生懸命やってくれている」と勘違いしている人がいることも嘆かわしい。

 ブロガーは、自分の意見をネット上に発表したい。運営会社は場を提供して利益を得る。お互いが持ちつ持たれつの関係にあって、どちらかがどちらかに対して過度にありがたがる必要はないのだ。もちろん、逆に尊大になる必要もない。

 ブロガーはシステムに不満があったら、それを素直にスタッフに伝えればいい。逆に勘違いして威張り散らす人がいるのも問題なのだが、少なくともまともな不平・不満なら、スタッフはそれを望んでいるはずだ。アメブロとしては、できるだけブロガーの不満を減らして気分よくブログを書いてもらうことが、自らのビジネスに直結しているのだから。

 さて、この下にはどんな広告が掲載されるのだろう?

 日本製紙の古紙配合率の問題、いわゆる環境偽装問題が波紋を呼んでいる。

 この件を報道するテレビのニュース番組を見ていると、ある展示会での日本製紙ブースの様子がバックに映し出されることが多い。これはおそらく、昨年121315日に東京ビッグサイトで開催された『エコプロダ2007 (主催:産業環境管理協会、日本経済新聞社)のときのものと思われる。

 この展示会は、その名の通り環境にやさしい製品や技術、企業姿勢を各社がアピールする場であり、1999年にスタートして昨年が9回目。年々規模が拡大しており、昨年は約600社・団体が出展し、3日間で延べ165000人が来場したという。展示会としてかなり大規模な部類に入るものであり、企業間の取引の場というだけでなく、複数の小中学校の社会科見学コースにも組み込まれているなど、子供たちへの環境教育をも担っている意義深いものである。

 当然のように日本製紙グループも出展 している。

 『日本製紙の紙はエコです。』というキャッチフレーズがなんとも白々しいが、再生紙というのはリサイクルの象徴的な製品であるので、日本製紙だけでなく王子製紙や三菱製紙といった他の製紙会社も出展している。いずれも白々しい限りだ。

 実は私は、昨年のこの展示会に、3日間のうち初日と最終日の2日足を運んだ。165000人の中の2人は私である。

 そしてそのとき、展示会全体の印象として、なんとも胡散臭いものを感じたのだった。あまりにも各企業が「環境」「環境」とはしゃぎすぎている気がしたのだ。くだらないどうでもいいことまで大げさに取り上げて、自社がいかに環境保全に貢献しているかをこれでもかとばかりにアピールしている。アピール競争があまりにも激しすぎて、本当なのか? とすら思ったものだ。

 もっとも、本当なのか? というのは、「本当に普段からそんなに環境保全に力を入れているのか?」という疑問であって、まさか嘘を吐いているとまでは思わなかった。あくまで展示している製品や技術は本物であるが、普段はそれほど積極的ではない、展示会が終わって会社に戻ればその部署の人たちはむしろないがしろにされて、隅っこで小さくなっているのではないかという疑問である。

 ところが日本製紙の場合は、製品自体に嘘があり、しかも10年以上も嘘を吐き続けていたというのだから驚く。もちろん、古紙をまったく配合していないわけではなく配合率をごまかしていただけなのだから、厳密に言えば嘘とは言えないかもしれない。過大な表現、誇大な表現だったということもできる。

 しかし、それによって企業イメージを上げ、取引を増やして利益を上げようとしていたわけだから、やはり罪は大きい。環境に配慮しているというそもそもの企業姿勢自体が嘘だったと言わざるを得ない。

 そこまで見抜けなかった私は、お人好しということなのだろう。

 しかし、今回の件を見て、もうわかった。嘘が製紙会社だけのものであるはずがない。食材偽装や産地偽装が当たり前だった食品会社の例もある。こうなったら、出展していた600社すべてが嘘を吐いていたと思ったほうがいいのではないか。嘘でなくとも、過大表現・誇大表現の例は枚挙に暇がないと思う。

 この展示会の主催者は日本経済新聞社なのだから、この際、各社の展示製品をすべて調べ上げて紙面で本当だったのかどうかを検証するくらいのことをやってもいいのではないか。主催者の責任として、そのくらいのことはするべきだろう。

 昔、日本には、「お天道様が見ている」という言葉があった。誰も見ていないと思っても、実はお天道様が見ているのだから悪いことはしてはいけないという、日本人の倫理観を規定していた言葉だ。これはとっくの昔に死語になったようだが、偽装を行っていた企業の、少なくともトップにいるような年代の人たちがこの言葉を知らないわけがない。

 しかし、その人たちが確信犯的に平然と嘘を吐いているのだから嘆かわしい話だ。

 その人たちに問うてみたい。お天道様を無視できるのなら、では、子供はどうかと。

 あの企業の人たちは、エコプロ展に来ていた小学生たちに、どんな顔をして環境の大切さを訴えていたのだろう。

 自分の子供や孫に、自分たちがやっていたことを説明できるのか。企業の利益のためなら嘘を吐いてもかまわないと子供たちに教えるつもりなのか。

 偽装企業の罪が重いのは、単に国民を騙していたというだけでなく、そのような風潮を再生産しているということでもある。



 自費出版大手の新風舎が、民事再生法を申請し事実上倒産した。昨年7月に、この出版社から本を出した著者らから詐欺の疑いで告発され、それが経営環境の悪化を引き起こしたのだそうだ。

 よくわからない理屈である。会社のイメージが悪くなって本が売れなくなり、それで経営が悪化したというのは普通の出版社の言うことであって、この会社はそもそも本を売る気など初めからない。出版社といっても、ビジネスモデルがまるで違う。事前に著者から金を受け取って、それから本を作るという商売をしているのだから、そもそも赤字になどなりようはずがないのだ。

 訴訟騒ぎによって著者の成り手が減ったというのならわかるが、今でも制作途中の本が1000以上あるというのである。同時進行で1000以上の本を制作しているというのも驚きだが、それはともかく、その人たちからはお金を受け取っており、まだ印刷などはしていないのだから現金が手元にあるはずだ。ひとり100万円としても、10億円。この会社が100万円で契約するわけがないから、15億円~20億円は確実にあるはずなのだ。それはどこに消えたのか? ちなみに、負債総額はグループ会社を含めて25億円だという。

 この期に及んで、まだ理由にならない理由を挙げて人のせいにするというのは、この会社の本質を良く表している。

 昨年、訴訟騒ぎが起きたとき、私はテレビのニュースで見たのだが、他人事のような気がした。実は他人事ではなく、私もこの出版社から本を出したことがあるので、訴訟を起こした人たちの気持ちは良く分かった。しかし、はたして裁判になじむのだろうかという疑問も持ったのだ。

 同社の手口は日常言語的には確かに“詐欺”としか言いようがないものであったが、法律的に“詐欺罪”を構成するのは難しいのではないだろうか。そのくらい同社は数々の言い訳を用意していて、契約書をよく読めばわかるだろうと言われたらそれまでだと思っていたのだ。だから私は、高い授業料を払ったものだと諦め、もう2度とこの出版社には関わるまいと自分を戒めていた。

 その気持ちは、今回の倒産騒ぎとそれに付随してネット上に溢れ出した告発を読んでも変わらない。

 同社の手口や自称被害者の体験談については、もうさんざんあちらこちらに出ているので、細かいことは書かない。ただ、私がなぜ“詐欺的”と思ったかについて少しだけ書く。

 まず、担当の編集者という人がとてつもなく無能であった。パンフレットなどには、プロの編集者が丁寧に面倒を見るとかなんとか書いてあったが、私の担当はプロどころかド素人以下といえる人物だった。私が使った漢字に、わざわざ間違った赤字を入れてくるくらいなのだ。人の原稿に赤字を入れるのに、辞書すら引かない。もちろんこんなことは瑣末な一例に過ぎず、もっともっといろいろな行き違いがあって、この人とのやり取りに相当なストレスを感じた。

 カバーデザインについても、本の内容を把握していない的外れなものを呈示されたのでやり直しを要求したところ、金銭を要求された。その言い分がふるっている。「当社の規定でやり直しは○回までで、それ以上は追加料金がかかる」と言うのである。そんな説明は事前に受けていなかった。勝手に決めた“当社の規定”を一律に当てはめられても困るのだ。この点を突っ込んだら、先方も面倒くさくなったのだろう、私がデザインして送ったものをそのまま使用し、追加料金については何も言わなかった。当たり前だ、結局デザインは私がしたのだから。

 こうしてなんだかんだで、とにかく本はできた。

 ここまででも私は、かなりレベルが低い出版社だ、何かおかしいと感じていたのだが、さすがに出版社なのだから本を売る努力くらいはするだろうと信じていた。本を売れば会社の利益になるはずなのだから。同社が言う“共同出版”とは、“自費出版”とは違って、著者が金銭を負担し、出版社が販促をするものだという風に理解していた。

 しかしそれも間違いだったことに、すぐに気付かされた。私がネット上のあるサイトに広告出稿をしたい、掲載料金はこれだけ用意するといったところ、掲載料金だけでなく同社の手数料までも要求してきたのである。そのサイトとのやりとりに手間がかかるからだと言う。

 自社の商品を売るための手間賃を、著者に要求するのである。このとき、ようやくこの会社の本質に気付いた。要するに同社にとっては、あくまで素人の本を作ってあげただけで、売る気などはさらさらないということだったのだ。

 ここで、これまでのすべての流れが、はっきりと理解できた。著者から金を受け取った時点で同社のビジネスは完了、その後の本作りも販売も、すべてが同社にとっては余計な手間だったのだ。だから最低限のことしかせず、それ以上要求するのなら追加の金を払えとなる。

 人がなぜ労働に汗を流すかといえば、その後に対価が支払われるからだ。それを事前に受け取ってしまったら、汗を流すことがばかばかしくなる。どんなに手を抜こうと自由であり、汗を流させたかったらさらなる対価を要求する。同社は、そんな人間性悪説を体現している会社だったのだ。

 私の本を同社が実際に何部印刷し、何部売れたのか、まったくわからない。が、知ろうとも思わない。もう関わりを持ちたくないからだ。

 どうやら裁判は、この印刷部数や、販売方法をめぐってのものらしい。しかしそれに関しての私の意見は、「騙された方が悪い」というもの。もちろん、私を含めてである。こんな出版社と関わったこと自体が、私の人生の中の汚点だとさえ思っている。

 そういえば、今回いろいろな人の体験談を読んで、「おっ!」と思ったことがある。その人の場合、本のできに満足せずに抗議の電話をしたところ、担当者が退職していたというのである。実は私の場合も、本ができた途端に担当者が変わった。

 とすると、これもきっと同社の手口の一環なのだろう。その後に何があっても、「あれは前任者がやったこと、言ったこと」といって逃げるために、うるさそうな著者に対しては担当者を変えているに違いない。これもきっとマニュアル化されているのだろう。

 2005年に同社は、講談社を抜いて出版点数日本一の出版社になったという。これがそもそも、同社の本の粗製乱造振りを表している。普通の出版社は、採算の取れない本は、よほどの社会的意義がない限り作らないものだが、同社は金さえもらえれば何でも作るのだし、事前にもらっているのだから作れば作るだけ儲かる仕組み。出版点数が多いのは当たり前の話だ。

 それにもかかわらず倒産するとは、本作りの姿勢だけでなく経営姿勢も相当にふざけていたということなのだろう。