2011年3月11日午後、ゆらりゆらりの横揺れが次第に強まる。
3分程の揺れの間に、皆事務所前の駐車場に居た。こんな事は初めてだと思う。
隣接する会社も同様の行動を取っていた。
宮城の震源地から相当離れた青森市でも、皆本能的に身の危険を感じたのだと思う。
地震と同時の停電、信号機も消える異常事態だ。
それでも、地震から一夜明けの土曜日、停電が復旧、水道も電話もいつも通りに。
しかし、電気復旧のテレビから伝わる、震源に近い太平洋沿岸の惨事。
津波に襲われた地域の、犠牲の大きさに改めて驚き、知り合いの無事を願う・・・・・。
そしていま、私たちは未だ経験した事の無い、生活の只中にいる。
それは、第二次世界大戦など知らない我々世代にも確信できる、
戦後の日本人が、初めて体験する日常生活の断絶。
災害地での物資不足や、余震と寒さに震える人々の様子がテレビに映し出される時、
怒りのやり場は、国の対応のまずさや決断の遅さに・・・・。
そして怒りは無念さにさえ変っていく。情けない。
避難所生活での疲労や医療対応の遅さに、亡くなる方も多くなってきた。
災害に伴う電力不足や油不足程度は、皆で耐えなくてはならない時だと強く思う。
景気がどうとか、政治家の質がどうとか言っていた1週間前と事情が変ったのだ!
今こそ、この島国『日本』は一つになって、大惨事を乗り越えたい、乗り越えられる!
かつて幾度と無く、こんな危機を乗り切ってきた強い『民』の、皆な子供なのだから。
写真/地震発生の6日前(3月5日夕方)、仙台市宮城野区榴岡 ホテルメルパルク仙台より
新寺通り、多賀城方面を望む。地平線の山の向こうには、あの太平洋が・・・・。