関ヶ原と幕末つなぐ〝怨恨の触媒〟③完〜チェスト関ヶ原よ、永遠に〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

※前稿より続く

 

 

刹那!

敵の某は大蔵にもたれかかるように倒れ伏した。

その胸板には、大蔵の放った矢が深々と突き立っていた。

近代戦術に、零距離射撃というのがある。
近距離に迫った敵に対して、砲弾が発射されるとすぐ炸裂するようにしておこなう射撃のことだ。

肉を切らせて骨を断つ。

大蔵は超至近距離で弓を放つ技を得意としていたのである。

 


島津豊久が身代わりとなり敵に向かった烏頭坂 WEB歴史街道ウェブサイトより

義弘の護衛兵もいよいよ少なくなってくると、大蔵は殿様のかたわらにあって輿をかついだ。

輿の脇では旗持ち役が馬印をかかえて息せき切って駆けている。
馬印とは大将のいる場所に掲げられる聖なるものだ。
ちなみに秀吉の馬印は千成ひょうたんであり、家康のそれは金の扇だ。
島津のそれは黒地に白の十の字である。

馬印を戦場で奪われるということは、敵に命を取られるのと同じくらい不名誉なこととされていた。
西南戦争で官軍の乃木希典が軍旗を敵に奪われたことで、切腹して明治帝にお詫びしようとしたのは同様のことである。

突然大蔵は、

チェストー!

と狂犬のように吠えると、駆けながら馬印の旗持ち役を突き飛ばし、

殿様の仰せじゃ、その馬印を捨てよ!

と叫んだ。
義弘は瞑目し沈黙している。

大蔵には名誉もクソもない。
馬印があれば殿様はここにいるぞと敵に教えているようなものだ。
殿様の命より重いものなどこの世にはないと大蔵は思っている。
殿様の本意に背いたとして自分がいま手討ちになっても、殿様が生きて帰れば本望じゃ、と大蔵は思ったにちがいない。
馬印は打ち捨てられ、後続兵に踏みつけられつつ後方に消えた。

義弘は何もなかったように、輿に揺られながら瞑目し沈黙していたという。

やがて義弘らは、伊勢街道から伊賀上野、奈良、大坂を経て堺から船に乗って日向にいたり、薩摩にたどり着いた。
その数、八十人。
生還率はわずか五パーセントであった。

義弘は退き口での大蔵の行為を責めることなく薩摩に帰ってから彼に50石の加増したという。

 


明治22年の鹿児島城 ジャパンアーカイブズウェブサイトより

西軍として関ヶ原に参加した国持大名たちは、軒並み取り潰された。

備前・美作の宇喜多
土佐の長曾我部
中国百二十万石の毛利

このうち毛利は内通した一門の吉川広家の奔走によって辛うじて防長二州に削られて生き延びた。

島津は敵中突破の退却戦を演じ、その後、主君・義弘は本国へ逃げ帰ると、国境の要所に防塞をきずき、百姓まで動員して国をあげて決戦の態勢をとった。

家康は島津の取り潰しを決意。
三万の討伐軍を編成して、出兵を号令するだけとなった。

一方、島津家はファイティングポーズをとりつつ、戦犯の義弘を表面上は後ろに下げて、引退した兄・義久と子・忠恒が外交活動をおこなっている。
重臣の鎌田政近を二人の名代として上方にのぼらせるとともに、講和に向け福島正則や井伊直政、公家の近衛前久らを動かしている。
鎌田は家康に拝謁して、西軍参加のやむなき事情をるる弁明する一方、国許になお一万の強兵が山河を楯として決戦すべく準備していることをにおわせた。

家康は、当惑しただろう。
純軍事的には勝つには勝つ。
しかし、平定には相当の時間がかかるだろう。
豊臣家は摂河泉を領し大坂の巨城を有してなおも存在している。
上杉、佐竹、伊達もいる。
家康が九州の地で長期のゲリラ戦に足を取られていたら、地盤の柔らかい天下はふたたび乱れ、天下の権を失うであろう。

家康にはいまひとつ恐れがあった。

島津の退き口

と呼ばれる驚異的な戦いを眼前で体験したのである。
それは本能的な恐怖に近い。

現実的政治家だった家康は島津家を安堵するほかなかった。


関ヶ原の戦いは、島津家にとって秀吉の九州征伐に続く二度目の屈辱だ。


島津家の家紋「丸に轡十字」 戦国ヒストリーウェブサイトより

鹿児島県日置市に、徳重神社というのがある。
祭神は島津義弘公。
むかしは妙円寺という義弘公の菩提寺だった。
この寺に江戸時代のいつ頃からか、妙円寺詣りという行事がはじまった。

鹿児島城下の薩摩武士たちが関ヶ原の戦いの前夜にあたる9月14日に、城下から義弘公の菩提寺妙円寺の往復40キロを甲胄に身を固め、夜を徹してに参拝したことに始まる行事である。

その本質は、毎年この行事によって関ヶ原のうらみを新たにして、年々、徳川氏に対する怨恨をとぎすましてゆくことに努力することにあった。


明治以降は、平時も油断なく、非常時に備え武をうやまい重んじる気持ちと質実剛健をもってあらゆる苦難にたえぬく精神を養成するのに最適な平和的行事としていまに受け継がれている。


いまに息づくチェスト!関ヶ原「妙円寺詣り」 Wikipediaより

鬼武蔵と呼ばれた新納忠元も関ヶ原の戦いの11年後の1611年に死んだ。
島津の退き口の主役である島津義弘も1619年に亡くなった。
徳川家康は1616年にこの世を去った。
そうして、関ヶ原の戦いを知る者や戦乱そのものを経験した者の多くは去り、裃姿の平和な時代がきていた。

そのなかで中馬大蔵だけは、長く生きた。
1636年に70歳で死んだというから寛永年間、すでに家光の治世になっていた。

いつの頃かは不明だが、おそらく最晩年の頃だろう。
関ヶ原の戦いから30年以上が過ぎ、鹿児島城下の二才衆は実戦を知る者がいない。

中馬殿は関ヶ原での〝退き口〟を知っているというぞ。ぜひ話を聞きたいものだ。

と合議して、隠棲していた大蔵を訪ねてお願いした。

よろしい、物語って進ぜよう

ということになった。
城下の二才衆を座敷に通し、みずからも上下姿となって、床の間を背に端座して、瞑目し、沈黙し、やがて目をあけ、ゆっくり口を開いた。

さて、関ヶ原と申すは

といったかと思うと、次の言葉がない。
しばらく沈黙がつづいた。


もしや具合がお悪いのか。

二才衆の一人が心配になって、正座のまま大蔵の前ににじり寄り、目線を上げてその表情を見た。

ご老体…。

大蔵の頬には滂沱のなみだが、流れては顎から落ち、床を濡らしている。
なんとしてもあとをつづけようとするが、感極まってできない。


薩摩兵児は、隼人の血が流れている。
剽悍で陽気で快活で愛嬌があり敏捷であり、感情ゆたかで、いわゆる血性男子である。
二才衆は、三十年前の薩摩武士たちの苦難と主君を守った死士を思い、感涙にむせび、黙って頭を垂れているのみであった。

このとき、感極まった二才衆なのか。
それとも中馬大蔵自身だったのか。
それとも後世の誰かなのか。

チェスト!関ヶ原

と叫んだ。

チェスト!

の叫び声を、猿叫というらしい。
おそらく絶叫なのだろう。
関ヶ原の戦いのあと、意気が昂揚し、または昂揚させなければならない切所において薩摩人はこのかけ声を絶叫して、ことにあたるようになった。

二才咄格式定目
妙円寺詣り
チェスト!関ヶ原

鬼武蔵が作った薩摩兵児を作る基盤装置を、はからずも中馬大蔵がブラッシュアップさせた。

「咄」の制度は、江戸時代中期ころから、「郷中」と名を変えた。
名は変わっても、組織も、規則も、精神も変わるところはない。
ただ、「郷中」は二才衆だけでなく6歳から13歳までの稚児衆も対象となった。

もう多くを語らなくてもよかろう。

「郷中」は一町内にひとつといった具合に区分けされ、幕末には三十三あったそうである。
西郷隆盛も、大久保利通も、西郷従道も、大山巌も、有馬新七も、黒田清隆も、松方正義も、東郷平八郎も、山本権兵衛も、幕末維新に活躍した多くの薩摩人が「郷中」で教育を受けたのだ。


西郷も大久保も東郷も下加治屋町の郷中出身 鹿児島市ウェブサイトより

怨念を種火にした「チェスト!関ヶ原」の精神はより強く教育のなかで幕末まで連綿と生きつづけた。

作家・海音寺潮五郎は、『チェスト関ヶ原』と題した随筆にこう書いている。

地下の潜熱のごとく、神殿の聖火のごとく、薩南の一隅にうけつぎ、燃えつづけてきたこの怨恨が、どうして徒爾(注:むだ)におわろう。
星霜二百幾十年の後、徳川氏を打倒した中心勢力が薩摩であったことは、決して偶然ではないのである。


怨恨という感情は、ときとして歴史をも動かすエネルギーになる。

それは薩長だけにいえることではなく、おそらく人類普遍の真理であろう。

であるならば、私たちは広く歴史を学び、怨恨がもたらす影響の大きさと長さを知り、未来を生きるための戒めとする必要があるのかもしれない。

 

(この項おわり)

 

【参考】

海音寺潮五郎『日本歴史を散歩する』(PHP文庫)

司馬遼太郎『歴史を紀行する』(文春文庫)

司馬遼太郎『関ヶ原』(新潮文庫)