以下は、前稿の余熱で書いている。
ゆえにとりとめがない。
司馬さんは直木賞受賞者のプロフィールを自分で書いたとき、
小説より歴史がすき、歴史よりも新聞記者がすき、新聞記者よりあそぶのがすき
と書いた。
これだと、結局いちばん好きなのはあそぶことになるが、本当だろうか。
これは司馬さんの本心ではなくことばのアヤではあるまいか。
司馬さんの死後、みどり夫人は、
(司馬さんは)ほんとに趣味のない人で、だからあの人には、書いて、自分が思っていることを話す以外になにもないんです。
と言っている。
だから、いちばんすきなことは、思っていることを書く(話す)こと、それ以外にはない、と思うのだ。
昭和42年頃の司馬遼太郎 毎日新聞ウェブサイトより
◉小説を書こうとしているのではなく、思っていたことを書いているに過ぎない
たとえば、司馬さんを直木賞に選んだ人たちは作家と呼ばれる。彼らは小説、演劇、随筆などを創作する作家である。
司馬さんにしても、小説、演劇、随筆そのいずれをも創作している。
また、座談の名手でもある。
小説では『坂の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』などがあるが、ともすればそれは歴史そのものなのではないかと誤認される傾向がある。
だから、かえって
司馬遼太郎はウソを書いている。史実はそうなってはいないではないか。
などと批判もでる。
司馬さんの小説は、いえばフィクションなのだ。
ただ、一般的な小説とは違う。
それは、司馬さんをもっともよく知る作家である作家・三浦浩のこのことばが示している。
はじめの発想にフィクションがあって、これを堅固なファクトで固める
1つのフィクション(仮説も含めて)を99のファクトで固めている小説があったとすれば、それはフィクションだ。
『翔ぶが如く』
[1972(昭和47)年〜1976(昭和51)年〕
司馬さんはこの小説でなんとかして維新後の西郷に迫ろうとしていた。
なぜ幕末にあれほど英雄的な行動をした西郷が維新後、失陥し反乱を起こして斃れたのか。
司馬さんはその問いの答えを仮説とし、仮説を証明するように堅固なファクトで固めようとした、としか思えない。
ファクトをもって大久保利通を追い、実弟の従道を追い、川路大警視を追い、島津久光を追い、山県有朋を追い、岩倉具視を追い、江藤新平を追い、宮崎八郎を追い、海老原穆を追い、神風連まで追いかけて、書いた。
たとえば、大久保利通が「征台の役」の政治処理のため、清国に乗り込み、日本人離れした粘着力と道理で外交をつくして解決した一部始終を、事細かく書きつくした中身は、もはや小説というより見事に真実であり、新聞記者の取材記事もしくは論稿に近い。
全権大使として渡清した大久保利通 国際子ども図書館ウェブサイトより
『坂の上の雲』
[1968(昭和43)年〜1972(昭和47)年〕
『坂の上の雲』も小説である。
たとえば乃木希典のセリフ、児玉源太郎のセリフ、明石元二郎のセリフはおそらくフィクションがあるだろう。
しかし、それらのセリフは数多くのファクトで固められ、そのすきまから漏れ出たものにちがいない。
さらに、『坂の上の雲 七』の「宮古島」では、一章の大部分を使って、バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた五人の漁師の話を〝余談〟として書いている。
それは小説というより新聞記者の取材による特集記事のようだ。
『坂の上の雲 八』の「沖ノ島」では、島で神に仕える雑役の佐藤少年が海戦を目撃する話が書かれている。
文中に、
佐藤市五郎氏は、この稿を書いている現在、病気療養中だが、満十八歳だった当時のことはよくおぼえておられる。
とあるから、この話は本人を取材していることがわかる。
司馬さんのフィクションはこうした多くのファクトで固められているのだ。
入島禁止の世界遺産・神宿る島「沖ノ島」 日本経済新聞ウェブサイト
小説より歴史がすき、歴史よりも新聞記者がすき
自身のいうように、司馬さんは渾身新聞記者だった。ただし、職業という意味ではなく、その視座のことである。
『翔ぶが如く』の連載中の取材で司馬さんは、
小説とか歴史とか、すでに定義をもった言葉は、その枠の中での物の見方に限定される。名付け用のないジャンルがあってもいいですね。
と言っている。
司馬さんが小説を書こうとしているのではなく、思っていたことを書いているに過ぎない、ということだ。
小説より歴史がすき、歴史よりも新聞記者がすき、という司馬さんはこのときすでに違う地平を見ていたようだ。
◉司馬さんが新聞記者として自分に課しつづけたもの
冒頭、とりとめもなくと言ったように、話はそれる。
司馬さんは、折にふれて、言葉にして新聞記者の本質にせまる。
たとえば…。
私のなかにある新聞記者としての理想像はむかしの記者の多くがそうであったように、職業的な出世をのぞまず、自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。
紙面に出たばあいはすべて無名であり、特ダネをとったところで、物質的にはなんのむくいもない。
(『歴史と小説』より)
京都は明治になって都が東京に移ってからは何もなくなり、人々は飲まず食わずの生活をしていた。そこへ、京都大学ができた。京都大学の職員の数は当時ざっと四千人です。
その四千人に東京から給料が送られてきて、京都で消費する。それで京都の経済は非常に潤ったに違いない。こんな仮説を立て、考えることが、新聞記者の原点ですな。(略)
だれから頼まれたわけでもないのに、これだけ、いつも公の事を考えている人種は他にはいないのではないか。
(『新聞記者 司馬遼太郎』より)
京都大学の百周年時計台記念館 Wikipediaより
新聞は行儀が大切だ。
会社としての行儀のよさ、経営者としての行儀のよさとは、法人に徹して〝私〟を排除することだ。(略)
明治の新聞『日本』を主宰した陸羯南のもとには一流の言論人が雲のように集まった。
その連中が朝日新聞に移って今日の朝日の言論の基礎を築いた。(略)彼の学識見識もさることながら、やはり無私の品性が人々を引き付けたのではなかったのか。
(『新聞記者 司馬遼太郎』より)
これらの言葉に共通するのは、
無償・無私の精神
である。
彼がそれを新聞記者として得たと同時に、その後は自分に課しつづけたと思われる。
◉少なくなる自分の〝持ち時間〟の中で司馬さんが書いたもの
そのことを前提に話をつづけたい。
『韃靼疾風録』(1984〜87)は、司馬さん最後の長編小説である。
これ以降、最後まで司馬さんは小説を書かなかった。
そのあたりを妻のみどりさんが述懐している。
いつも「小説を書いてほしい」って言いつづけていました。そのたびに「そんナン…」て。
でも本人も小説のことは考えていたんだと思います。(略)
「いまぼくが娯楽小説を書いたら面白いものが書けるんだけどなあ」と言っていました。
司馬さんはある出版人には、小説を書くことについて、
どうも昔のようにはいかんなァ
と言い、当時の国際情勢などの理屈を書きたくなってしまうと苦笑していたという。
小説『菜の花の沖』でのロシア事情の詳述などもそうであろう。
しかし、どうもそれだけではなさそうだ。
司馬さんの内心だけでなく、社会も大きく変わっていった。
『韃靼疾風録』のあと、世界は大きく揺れ動く。
1988(昭和63)年 ゴルバチョフによるペレストロイカ
1989(平成元)年 ベルリンの壁崩壊、リクルート事件
1990(平成2)年 バブル崩壊
1991(平成3)年 湾岸戦争、ソビエト連邦崩壊
1992(平成4)年 PKO法成立
いわゆる冷戦体制が終わると、国内外で混迷と破綻が始まった。
司馬さんはこの国のゆくすえを案じて、小説を書くヒマがなくなったのではないか。
PKO活動による自衛隊サマワ宿営地 ジャパンアーカイブズウェブサイトより
いまとなれば、司馬さんは自分に起きるなにごとかを予感していたのだろうか。
そう思えるフシがある。
司馬さんは最後の小説『韃靼疾風録』を書き終えた二年後、小学六年生の国語教科書に『二十一世紀を生きる君たちへ』という文章を書いている。
その一節にこうある。
私に持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
司馬さんは〝予言〟のとおり、この7年後にこの世を去る。
自分にもっと残された時間があれば、世の中がもっと古びていなければ、司馬さんは思う存分娯楽小説を書いただろう。
しかし、そうはならなかった。
憂国と焦燥。
それは、1991年9月、随筆『風塵抄』のあとがきでこう言っていることでもわかる。
やがて内外に前代未聞の事件が相次いでおこり、日常に即してばかりもいられなくなった。
船にも飛行機にも、あるいは私ども生物にも耐用年数があるように、国家にも社会にも団体にもそれがある。
戦後秩序が現実にあわないほど古び、そのことによる大事件が内外でおこっている。
ついそういうほうに気をとられる。
妻のみどりさんは回想する。
小説をやめてからの司馬さんは、ひとつひとつの原稿にほんとうに精魂を込めているようでした。(略)
幾つかの雑誌や新聞で、緑や黄色の色鉛筆で何度も書いては消し、消しては書いていた司馬さんの生原稿の写真が載っていましたが、あれほど手を加えるようになったのは小説を離れてからのことです。
揺れ動き変わりゆく世界
少なくなる自分の〝持ち時間〟
司馬さんは最後の十年、彼の本質である記者の無償・無私の精神で、新聞記事を書くように丁寧に丁寧に随筆(コラム)を書いたのではなかったか。
司馬遼太郎の自筆原稿『竜馬がゆく』 産経新聞ウェブサイトより
思うことがある。
1954(昭和29)年に大阪新聞に記者だった司馬さんが書いたコラムのペンネームは「風神」であった。後輩記者の三浦浩氏が絶賛したように、身近な事象や世相を切りまくった。
1991年から亡くなるまで、産経新聞に連載し始めたコラムが『風塵抄』だ。
風神と風塵
語呂合わせのような偶然だが、それだけではないような気がする。
持ち時間が少ないと感じた司馬さんは、新聞記者への回帰を念頭に置いて『風塵抄』と名づけたのではあるまいか。
歴史を渉猟し尽くした新聞記者である司馬さんにとって、見える世界があるのだろう。
この先のこの国の人と社会に対する危機感が体内に充溢していたのではないか。
抑制的ではあるが、裁判官が判決をいいわたすように書く次の言葉は、私たちへの遺言のようでもある。
風塵のなかにあっての恒心について書こうとしている。
恒とはいうまでもなく、つね、あるいはかわらぬもの、ということで、恒心とはすなおで不動のものという意味である。
ひとびとに恒心がなければ、社会はくずれる。
【参考】
産経新聞社『新聞記者 司馬遼太郎』(文春文庫)
関川夏央『司馬遼太郎のかたち』(文春文庫)
司馬遼太郎『風塵抄』(中央公論社)
司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)