歴史家がひもとく真理②〜いまこそ江戸時代の多様さを〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

私たちには、いま、何が必要か。

基本的ではあるが、非常に重い問いである。

歴史家が、歴史から導き出した答えはこうだ。 
磯田道史氏は、いう。

価値観の多様化、教育の多様化っていうのは必要なんじゃないでしょうか。

現代社会においては、全国津々浦々、一定の評価基準が決まっており、その評価基準をもとに教育がおこなわれる。
いま、それが危ういというのだ。

磯田氏の話は続く。

江戸時代にあった身分制が崩壊したときに、身分に代わって、いい学校に行ったらいい処遇があるっていう社会を200年、僕らはやってきました。
それは戦後も変わってなくて、特に大企業サラリーマンのうちとかで、子どもをまったく塾にやらないおうちっていうのはあんまり見かけないんですね。
塾へ通って、いい中学・高校とか行って、給料の払いのいいところへ所属できて、所属でもってサラリーをいただく。


戦後社会のなかで続いてきたこの幸せへのレールが崩壊しているという。
200年この法則だというのだから明治時代から脈々と続いていることがわかる。

それをみんながやった結果、昔は世界中をわくわくさせたような商品がいっぱい日本から出てきてましたけど、今はあまり新しい製品とかができないし、経済的な成長もそれほど高いものではなくなってきている。

その理由は経済の範囲が、

おもしろい何か
わくわくさせる何か
幸福感を追求するような何か


に変化したからだという。

いい学校に行ったらいい処遇があるという社会では、それに応える製品やサービスやソフトがなかなか生まれにくくなっているらしい。

200年やってきた社会では、画一した評価基準によって一人一人を数値化し序列化する必要に迫られる。
こうして単層化、均一化した戦後社会が行きついた末が現在(いま)である。
多様化社会とは対極の社会といえる。

では多様化した社会とはなんだろうか。

価値観の多様さを磯田氏はこのように説明する。

今の時代、江戸的な多様さ、価値観の多様さが必要だと思います。
僕は、「江戸の道楽」っていうのがすごい好きなんですよ!
道楽の精神っていうのは無償の遊戯性で、必ずそれで何かがもらえるかどうかは期待してないんです。


これってつまり、三度のメシより好きなものってことなのではないか。
あるいは、他人からみればそんなことよく耐えられるなってことを延々やってもなんでもない、平気でできるってことではないのか。

「遠山桜天保日記」豊原国周・絵 和樂ウェブサイトより

賛否はあると思うが、明治時代における日本の近代化は、世界史的に見ても大きな成功例に数えられるのではなかろうか。
しかし、それにも大きな理由があると、磯田氏はいう。

実は明治に近代化できたのは、江戸時代があったから。

それが江戸時代の異常なまでの多様さだというのだ。

例えば、筆の真ん中に、命毛になるイタチの毛がありますが、イタチの毛を集めるだけの職人がいました。
イタチの毛について語らせたら、もうすごいやつが、その分野にはいるわけです。
日本一のイタチ毛を立てる筆をつくるからっていうことで、彼は満足しているんですよ。
みんなにもすごい認められている。
あいつのつくる筆の真ん中のイタチ毛すごいっ!ていうので、誇りに思ってるわけですね。


明治以降の、あの力強かった日本っていうのは、それが各分野に全部ありました。
江戸というゆりかごがあったんです。


いま必要な社会のモデルが、いやモデルとはいえないまでもヒントが、江戸時代という歴史のなかに存在しているらしい。
以前の稿の磯田氏の次の言葉を思い出した。

21世紀を生きる私たちは、20世紀に至るまでの日本と日本人を見つめ続けた司馬さんのメッセージを、今こそ読み取らなければいけない時期にきてきます。

「江戸時代の多様さ」が、いまの時代には必要だということは、かつて司馬遼太郎が明言している。
磯田氏の提言は、司馬氏のメッセージを下敷きにしているに違いない、と思うのだがどうだろう。

仮にそうだとして、いまの日本に必要なものが何なのか、司馬氏の言葉で探ってみたい。

司馬遼太郎『「明治」という国家』(NHKブックス)Amazonより

晩年の司馬氏は大いなる警世家であった。
司馬氏は現代の危うさから、江戸時代の多様さの重要性を語ろうとしていた。

以下、紺字の部分は司馬遼太郎の口述の要約である。

大きな文化ができあがるには、文化が多様でなければいいものができない。
ひとつの国が単純な一つの文化で支配されている状態では、その国は衰弱するだろう。
いまは、少し単純かなと思う。


司馬氏は控えめに言っているが、明らかな警句だろう。

この危機的状況を磯田氏にいわせれば、

いい学校に行ったらいい処遇があるっていう社会

ということになるのだろう。

それとは違う社会がかつての、日本に存在していた。

明治時代をつくりあげたのは江戸時代である。
江戸時代の多様性が、明治時代に一本の川となってあらわれたといっていい。
江戸時代は鎖国をして世界から孤立しているくせに、国内は多様だった。


三百諸侯

といわれるように江戸時代の藩の数は300とも500ともいわれる。
この藩というものが、多様性のミナモトだった。
薩摩藩などは一藩鎖国といわれるほど独自的で閉鎖的な藩であった。
薩摩ほどでなくとも、藩はそれぞれ藩法をもち藩校をもち藩学をもっていた。藩風というような気風もあった。
幕府領にしても藩とは違う風土があった。

三百余藩はいずれも個性的だった。

肥前佐賀は実に勉強ばかりする藩であった。
今でいう小学生から大学院生まで、藩士は勉強をさせられていて、試験に不合格だと役につくことができなかった。
当時は禄(給与)だけでは食べてゆけず、役(役職手当)がないと生きていけなかった。
場合によっては家禄さえ減らされてしまった。


同じ九州でも薩摩藩はまったく違う。

薩摩の士(さむらい)は質素であれ、戦国武士のようであれ。あまり勉強するな、中学を出るほどの教養でよい、とされた。
西郷隆盛はたまたま島流しの時にずいぶんと学問をしたが、決して教養を誇ることはなかった。
佐賀とは違っている。


次いで、司馬氏は思想の多様性について、こういう。

江戸期の官学は朱子学だった。
越後長岡藩は、陽明学が藩の学問だった。陽明学も朱子学であるが、ちょっと一神教の雰囲気がある。
将軍綱吉の時代の人に荻生徂徠(1666〜1728)がいる。徂徠も儒学者だが、観念論哲学のような朱子学ではなく人文科学に似た古学という学派を起こした。ものを平たく見るという姿勢だった。
南部藩は、それらを折衷した学問・折衷学が中心だった。


朱子学と陽明学は、どちらも儒教がベースの学問だ。
権威や秩序を重んじる朱子学と異なり、陽明学では、「心のままに、自分の責任で行動すること」を説いているという点で違いがあるとされる。
荻生徂徠は、朱子学を批判し否定している。

幕末の長岡に陽明学の藩というような男があらわれた。
河井継之助(1827〜68)である。

 

河井継之助 Wikipediaより


藩家老となった河井継之助は若いころ岡山の陽明学者・山田方谷のもとに留学し師事している。
幕府が賊軍となり戊辰の戦いが始まったとき、藩の閣老の多くが新政府軍に恭順・非戦を主張したにもかかわらず、河井はいずれにも与さない局外中立を主張して新政府軍と談判に臨んだ。結果は、受け入れられず開戦となる。
陽明学は知行合一(知識と行動は一体)の学問だ。
河井は重傷を負い敗走中に死ぬが、その直前にこう言い残した。

山田先生に伝えて下さい。
継之助はいまのいままで先生の教えを守ってきましたと。


河井は行動者として生き抜いたという点、もっとも長岡藩士らしいといえるかもしれない。

このように、幕府、長岡藩、南部藩だけを見てもその学問に違いがあったのである。

磯田氏は、明治日本には江戸というゆりかごがあったと言ったが、明治人で南部藩出身の内藤湖南(1866〜1934)は、江戸期の学者を無名の市井の中から発見している。
湖南は明治維新のとき2歳であった。
湖南もまた旧南部藩領でも秋田県境に近い村の人であったが、非常な知識人であった。
南部藩は折衷学が藩学だから、湖南の父は折衷学の人であった。
湖南もまた、江戸期の多様さのなかで成長したのである。

湖南が発見したのは、富永仲基(1715〜1740)という人であった。

富永は、大坂の道明寺屋という醤油屋の息子だが、江戸期の大変な学者だった。
彼は、大乗仏教のお経は釈迦とは関係なく、シルクロードのどこかでできたものだということを綿密に考証して、坊さんたちを震え上がらせた。
いまだに彼の考証を超える説はない。


富永仲基 関西大阪・21世紀協会ウェブサイトより

 

富永は大坂の無名の町人でありながら大天才であった。
富永の天才性は独創と早熟であったということだろう。
大乗仏教のお経は釈迦とは関係ない、といったことは当時の仏教界のすべてを敵に回したことであった。天才は、当時の人々にはなかなか理解されないものだ。
早熟とは、多くの人が長年にわたる研鑽・努力で到達する頂点へ、早い段階でやすやすと到達してしまうということだ。

司馬氏は、似たような例をもうひとつ挙げている。
内藤湖南の南部藩の隣に秋田藩がある。
そこに湖南のひとつ年上の藩士、狩野亨吉(1865〜1942)という人がいた。
狩野は第一高等学校長や京都大学文学部長を勤めた教育者。彼はその後、すべての職を辞めて貧窮のなかである研究に没頭した。

狩野亨吉は、「日本人は創造的能力があるのか」ということを江戸時代をもって検証した。

官職にあるときから古本をたくさん集めて、江戸期の無名の知識人、学者の書いた本が出てくれば、それを読んで独創的な思想家を発見した。
安藤昌益(1703〜1762)がその人だ。


昌益は狩野と同じいまの秋田県大館の人。
豪農の子であったが利発であったため仏門に入り、その後医師になり八戸で開業した。
そのころ、ある思想書を書いた。

身分・階級差別を否定して、すべての者が労働に携わるべきであるという、徹底した平等思想を唱えたのだ。
労働といっても、鍬でじかに地面を耕し田畑で額に汗して働くことのみを肯定して、工や商も否定している。さらに為政者を不耕貪食の輩と断罪している。

 

稿本「自然真営道」 東京大学学術資産等アーカイブズポータルより

富も無く此に貧も無く、此に上も無く彼に下も無く、上無ければ下を攻め取る奢欲も無く、下無ければ上に諂ひ巧むことも無し。

というように、無階級の徹底した平等思想である。江戸時代にこのような思想が存在していた。
当時の人々にはこの思想は奇異に映っただろう。アイツは狂人だと思われたかもしれない。

狩野は、昌益が狂人でないということを証明するため研究をはじめた。
その結果、卑怯でない、バランスのある、愛国心のある人だったことがわかった。


江戸時代の多様さは、地域だけでなく身分階層を超越するほど分厚いものだった。

次に司馬氏は、武蔵・三多摩地方と播磨(播州)を引き合いに出してこう話している。

武州三多摩は将軍、武家の本拠地らしい。
新選組の近藤勇(1834〜68)が新たに隊士をを募るとき、

兵は関東に限り申し候

と言ったという。
三多摩の農民の間では剣術が流行った。
試合に勝つと鎮守様に奉納額がかかる。
私の祖父は数学のできた播州の人で、あるとき姫路の広天満宮に算術の試合があった。
播州の農民は和算を道楽のようにして学び戦い合った。
たとえば三条大橋の円の半径を出せという問いで祖父が勝って算額をかかげたことがある。そういう土地には新選組のような人はでない。


近藤勇 国際子ども図書館ウェブサイトより

寒川神社の算額 Wikipediaより

 

播州は大坂に働きに行ったり丁稚にいったりする土地柄だった。

高砂に工楽松右衛門(1743〜1812)という大発明家が出た。船の帆布や埠頭の発明をした人だ。
山片蟠桃(1748〜1821)も高砂の人で一生番頭だったことから、ユーモアを込めて自らバントウと号した。ヨーロッパ風の不思議な思想家で、無神論を展開した人だ。
播州はそういう特徴のある人が出た。


そういうとは、科学的思考、合理的思考ということだろう。

バラエティがなければ江戸時代の繁盛もない。これがなければ明治時代もない。
江戸時代という270年の文明学校から明治人はできていた。


これが具体的な江戸時代の多様さであった。

ところが。

江戸時代にあった身分制が崩壊し、身分に代わって、いい学校に行ったらいい処遇があるという社会が、いまに至るまでつづいている。

磯田氏も司馬氏も、この状況に憂慮している。

司馬氏はいう。

今はどうだろう。
いまは偏差値の時代だ。
東大、京大、一橋…。おたくの坊ちゃんは〇〇大学ですか。
それが日本全国の親御さんたちの話題になり、子供たちは津々浦々で高校に入って偏差値社会に入って、すこしでも偏差値のいい学校に入ることだけが目的になっている。
戦後社会は偏差値だけが価値基準になってゆく。親御さんたちの日常の気がかりでもある。


自己の多様性を作り出さないといけないのではないか。
私は老い先短いが、若い人たちがこれで大丈夫ですかね、と思えば、われわれの社会にプラスになるのではないか。


そう言って話を終えている。

一方で磯田氏は、多様化のための具体的行動は誰でもできるとして、次のように言っている。

歴史家・磯田道史インタビューの一コマ NHKウェブサイトより

ルーティンという英語があるんですけど、それは決まり仕事ですよね。
学校に何時に行くとか、あるいは宿題をするとか、これはルーティンであって、決まってやらなければならないことです。

誰にも頼まれないし、誰もやってくれって言わないし、そういうことで「何かいつもと違うことをやってみる!」の時間とモノは、持っておいたほうがいいと思う。

要するに、人間の人生の質ってそこで決まりますよね。
僕だって、はにわの模型、誰もつくってくれとは言いませんよ。
自分で勝手に始めてるんです。


このルーティンでないこと、会社の義務でもなく、学校の義務でもないその時間は、将来の日本のためとか、そんなこと考えなくていいので、その人の人生を豊かにする時間。
ルーティンでない時間をつくってください。

そこに充実度を設けていくことしか、もうこの日本で解決策はないと僕は思ってます。

たしかに、江戸時代の富永仲基の本職は醤油屋だし、安藤昌益のそれは医師だし、工楽松右衛門のそれは回船商だし、山片蟠桃のそれは両替商の番頭だ。
けれど、彼らは会社の義務でもルーティンでもない、誰にも頼まれないし、誰もやってくれと言わないことを自分で勝手に始めたのだ。


なにも彼らは異邦人ではないし、私たちのライバルでもない。

多様さとは何かを、私たちに教えてくれる。私たちと同じ歴史を共有する日本人の先祖たちだ。


歴史は繰り返さないが、韻を踏むそうだ。
私たちには彼らと同じことはできないが、会社の義務でもルーティンでもない、誰にも頼まれないし、誰もやってくれと言わないし、将来の日本のためなどと考えなくていいことを、自分で勝手に始めることは、できないことでもあるまい。

 

【参考】

歴史学者・磯田道史 「歴史は韻をふむ」!?(NHK Webサイト)

磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』 NHK出版

司馬遼太郎『明治という国家』(NHK出版)

司馬遼太郎『雑談 「昭和」への道』(NHK)