新参者・大久保長安の異能②〜狡兎死して走狗烹らる〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

こんな男、主君をもつ全国の武士のなかには誰もいない。

 

老中

総代官
金山総奉行
所務奉行(のちの勘定奉行)
一里塚総奉行
越後高田藩75万石の付家老
 

大久保長安はこれらの要職をすべて兼務していた。

家康が長安をこうまで珍重したのは、第一に、三河武士のなかに国家建設の実務を任せられる人材が不在だったことがあったろう。

第二に、家康もすでに還暦を迎えようとする老境にある。

一人の男にいびつに権力が集中したとしても国家建設は急を要していたのだ。

第三に、長安は家康にとって、外から来た天下普請の請負人だ。

請け負うだけの稀有な能力があった。彼なら必ずやりとげるという確信がある。
天下普請が終われば彼の仕事も終わる。


仕事が終われば、捨てればよい。

冷徹かもしれないが家康はそう思っていたのではないか。

 

大河ドラマ『徳川家康』の徳川家康(演:滝田栄) NHKオンデマンドより


大久保長安の起こした奇跡をひとつあげるとすれば、鉱山開発に成功し金銀の産出量が飛躍的に増えたことであろう。

長安はもともと甲州流の鉱山技術を体得していたが、さらにスペイン宣教師を通じて精錬法もマスターしていたという。
その精錬法を、アマルガム法という。

佐渡金山の場合、鉱床から人足が掘り出すのは金鉱石だ。
金鉱石から金を採取するには精錬が必要になる。
アマルガム法による精錬は、砕いて粉末にした金鉱石に水銀を混ぜてアマルガムを生成させる。
そののちに、蒸留して水銀を取り除く方法だ。残ったものが金である。
スペインがメキシコなどの金銀鉱山で導入していた精錬法だ。
 

アマルガムは水銀と他の金属との合金の総称 Wikipediaより


前稿を思い出していただきたい。

家康はジェロニモ・デ・ジェズスというスペインの宣教師を呼び寄せ、「新しい製錬法を伝えてほしい」と言った。
家康は金銀増産のために、何らかの形でスペイン宣教師などから精錬法を聞き出した可能性がある。
もっといえば、長安と宣教師を引き合わせたかもしれない。

長安は佐渡金山において、アマルガム法を実践している。
日本の旧来のタテ穴掘りをヨコ穴掘りに変えた。
それまでは安易に穴を掘って、排水溝や水汲み足場を作ることをしなかったため、水が坑内に溜まり廃坑になってしまっていた。
長安の工法だと排水溝によって存分に排水できるので、従来の廃坑を生き返らせることができた。

そのうえ〝水銀流し〟という技術によって、鉱石の洗浄、蒸留の方法に特別な手法を用いた。
長安は積極的にスペイン宣教師と交流し、どうやら多数のキリシタンが働いていたらしい。

佐渡では水銀のことをミズカネと言っていて、いまでも水金町という町名が残っている。

これはそこに精錬所を造ってアマルガム法で金を作っていた証拠だと郷土史家はいっている。

佐渡金山 佐渡の金山ウェブサイトより


長安はプロジェクトチームを上手く活用した。石見銀山の成功実績を引っさげて、山師、役人らをチームごと佐渡に異動させてきたのだ。

長安は、櫓の数が80梃もある千石船を2艘、新造させた。
これに各地から大量の物資を載せてはこび、来港する商船があれば物資を買い上げた。
京からかぶき踊りの一座を呼び、遊女を来島させて公許の遊廓を設けた。
こうして多くの人とモノが佐渡に集まった。

まさに、佐渡へ佐渡へと草木もなびくであった。

平時と戦時の違いはあるが、鳥取城攻囲戦や小田原攻めのときの秀吉を彷彿とさせるスケールの大きさである。

金銀の産出量は、長安以前から江戸時代を通して最多になり、鉱山集落である相川は上相川千軒と呼ばれ大変なにぎわいだったという。

それは長安一人の力で実現された。
なぜなのか。


大久保長安八王子陣屋跡 お城解説ウェブサイトより

その答えと、長安が史上きわめて稀有な存在であることがわかる。

家康の、大久保長安への信用は、じつに、その裏表のない出納の報告であった。
広範多岐の職域を支配し、大幅な職権をゆだねられている長安の収入は莫大である。

この時代の天領代官や金山奉行は、徳川安定期に入ってからの俸給者としての役職とは根本的にちがう。
一種の請負であり、歩合制である。
生産を上げれば、当然公納は増えるが、私益も多くなる。
(堀和久『大久保長安』より)


天領にしろ鉱山にしろ、長安は決まった金穀を過不足なく公納すればよく、利益を図ろうすればいくらでもできたのだ。
しかも、それは必ずしも不正ではない。

長安は私益を私有はしたが私利私欲のために使うことはなかった。
その代わり、余剰は投資や拡大再生産に使った。

治山治水
新田の開発
道路の整備
施設の増強
最新技術の導入
そして、人材育成

長安の配下は、地方衆、鉱山衆とも他家に比して高禄である。
広範多岐の諸職には、主家が滅んで路頭に迷う遺臣、浪人を、関ヶ原の残党をふくめて、有能者は積極的に登用している。
(堀和久『大久保長安』より)


貧乏旗本の次男坊や反徳川の浪人やキリシタンも例外ではなかったのである。

長安は自分の存在の異様さに気づいていたはずである。
すでに幕府という名の徳川という組織のなかで、家康の信任を得、長安は巨大化しすぎている。
彼は、本願寺、武田信玄の遺児、伊達政宗にも強いつながりがあった。

大河ドラマ『徳川家康』の大久保長安(演:津川雅彦) NHKオンデマンドより

幕府は初期ながらも閣僚や官僚の権力構造が機能している。
動かしているのは、譜代の連中であった。

武功派も吏僚派もいたが、長安は彼らからすれば、異質であった。
無限のフィールドを自由に動き回り、人やモノを動かし、自分たちのやれないことをやり、巨万の富を産み出して家康に献納していた。


大久保長安とは何者だ。

家康以外の者は、あるいは羨望し、嫉妬し、なかには憎悪する者も少なくなかったであろう。

いつの世にもあるように、臣下の権力闘争が長安のまわりで起きたが、足もとをすくわれることはなかった。
家康は超然としてこれらを、どうでもよいわとばかりに静観していた。

徳川家を不朽永遠のものにするために、家康にはまだ大きな仕事が残っている。
家康は老境にあって、その仕事をし終えなければならない。
ただ、心配なことが一つあった。

長安の尽力によって、できたばかりの幕府の財政は、ゆるぎないものとなった。
当初は、この長安の能力を使いこなすことによって、おのれの権力基盤を固めた家康であった。
しかし、おおむね基盤が固まってみると、あまりにも巨大化したこの長安に不安と焦燥をおぼえるようになった。

家康自身が天上の雲だとすれば、長安はそれに摩するほどにそびえる高楼のようだった。

あやつは大きくなりすぎた。

と思ったか。あるいは、

はやく死なぬか。

と思ったか。

1612(慶長17)年7月。
長安は突如、たおれた。
中風(脳卒中)であった。
このとき家康は、自分で自分ために調合した烏犀円という秘薬を、長安に下賜している。
異例の厚遇だ。

しかし、快癒することなく9ヶ月後、家康の望みどおり(?)、長安は死んだ。
大久保長安、69歳。

家康晩年の居城・駿府城 朝日新聞デジタルより

生前、あれほど赫赫たる大功がありながら、死後、長安の評価は一変した。

家康は、にわかに厳命して葬儀を禁じ、大久保屋敷に検察官を入れて帳簿などをあらためさせた。

その結果、不正蓄財と反乱計画があったという。

子息のほとんどが死罪となったほか、連坐制が適用され関係する多くの大名が改易となった。

私は、長安の死によって起きた大粛清にあまり興味がない。

ただ、家康はなぜ、長安の生前でなく死んでから断罪したのだろう。
生きてしゃべられては困る秘事が二人にはあったのだろうか。

たとえば現今にあっては、芸能界のある大物社長の過去の醜聞が社会問題化し、国会や国連をも動かしている。
だが、問題が表面化したのは社長なる人が亡くなってからのことで、その行為は数十年も続いていたにもかかわらず、生前に問題化することはなかった。

それは、社長なる人の存在があまりに巨大で社会における多方面にわたり影響がおよぶことから、手を出せなかったといえよう。
長安の死後の断罪もこれと同じように思える。


少なくとも、家康は他の家臣らとは異なりタブーに目をつむり、長安に天下普請を請け負わせた。
その結果、家康の望みどおり幕府百年のための財政基盤は盤石となった。
と同時に長安の経済力が徳川将軍家を摩するほどに肥大してしまい、封建秩序を崩壊させてしまうことに家康は気がついた。

長安の富と権力の相続者を許すことは否であった。
遺族に汚名を着せ、家名も家財も家禄も男系の血もすべて消し去ってしまった。

狡兎死して走狗烹らる

大久保長安の死で、私はこのことばを思い起こす。

むかし、中国では漢の劉邦が天下統一を目指していたが、その武将に韓信がいた。
あの〝股くぐりの韓信〟だ。
韓信は多くの敵をやぶり諸国を平定して、劉邦の天下統一の功労者となった。
韓信も劉邦より封土ももらい王となるが、ある者からこう忠告された。

このまま劉邦が天下を取って平和な世が訪れたあと、戦さの天才の韓信様の立場がどうなるかおわかりですか?
恐れられ、じゃまにされるだけの存在になるのです。
獲物のウサギがとりつくされますと、不必要となった猟犬が煮て食べられるということわざがあるのをご存知でしょうか?
どうか深くご考慮くださいますように。


その言葉どおり韓信は、次第に劉邦の不興を買うようになり、謀反を企てているという密告により捕らえられ、左遷。
最後は本当に謀反を企てていることが発覚し、韓信一族は皆殺しにされたのだ。

 

韓信 Wikipediaより

長安は韓信のように、幕府の基盤強化のために功績をあげるという大きな仕事を完遂した。
すると劉邦のように家康は長安が謀反を企てたとして、長安一族を抹殺したのだ。

ただ、一点でまったく違う。
韓信はほんとうに謀反を起こし、劉邦が韓信を葬ってこれを鎮定したのに比べ、家康は病臥した長安に手厚く薬などを下賜したのち、死んだと見るや、まるで死体を揺さぶり心臓に耳を当て息のないのを確認してようやくたかだかとその罪名を読み上げたかのようだ。
そんな家康の姿を想像してしまう。

いずれにしろ長安は、家康にとって外から来た天下普請の請負人だ。天下普請が終われば彼の仕事も終わる。

仕事が終われば、捨てればよい。

家康はそう思っていた。

長安は、わかっていただろう。

使い捨てられるのは、はじめからわかっていたことだ。
いずれ捨てられるからこそ、おれは使われている間に全知全能を発揮して、生命を燃焼しきったのだ。


そんな長安の声が聞こえてくる。

大久保長安の墓 しまね観光ナビより
 

大久保長安の遺した莫大な遺産を我がものにした家康は、その半年後にバテレン追放令を発令し鎖国へと舵を切る。
さらにその1年半後の1615(慶長20)年5月、最後の障害である豊臣家を滅ぼしている。

家康の死は、豊臣家滅亡の約一年後。
家康、75歳。
大久保長安より6年、長命だった。

 

【参考】

堀和久『大久保長安』(講談社文庫)

童門冬二『江戸管理社会反骨者列伝』(講談社文庫)

司馬遼太郎『街道をゆく』(朝日文庫)