忠義のゆくえ〜難波田弾正に仮託した海舟の思い〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

たとえば、ある人を指して

ドン・キホーテのような男

などという。

ドン・キホーテは、スペインの作家・セルバンテスの小説の主人公だ。

田舎町の老いた郷士ドン・キホーテは、騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなってしまい、遍歴の騎士になりきって、痩せ馬のロシナンテとともに世の中の不正をただす旅に出る。
自分をとりまくすべてを騎士道物語的な設定におきかえて認識し、次々とトラブルを巻き起こす悲喜劇だ。

このように、性格、人物の特徴の典型として劇中の人物も含めて歴史的人物を用いることが、現代の世でも少なくない。

司馬遼太郎の小説『城塞』の中にこんな一節がある。

セルバンテスは「ドン・キホーテ」という架空の物語を創ることによって、人間の性格の典型を世界に教えた。
このおかげで後世のわれわれは人間の性格群を整理したり分類したりすることが至って便利になり、たとえば友人たちのあいだでの気軽な会話のなかで、
「あいつはつまりドン・キホーテだ」
というだけでその人物の全輪郭をひとことで相手にわからせる便利さを得た。

また、司馬氏は違う人物のそれを言いたいがため、まずドン・キホーテを例に出した。

「あれは家康のような男だ」
と後世のわれわれは、いわゆる「狸おやじ」の典型を、この時代の家康によって大いに人間批判や性格分類のなかで使っているのである。

さらに、性格の典型の例示は続く。

後世のわれわれは、
「あの会社には淀君がいる」
といったぐあいに、ドン・キホーテやハムレットなどと同様、そういう便利さで使えるようにまでなっている。



ドン・キホーテとサンチョ Wikipediaより

たとえば、忠義の性格を歴史上の人物に例えたらどうだろう。

大石内蔵助
楠木正成
羽柴秀吉
石田三成
武蔵坊弁慶

これは日本史上の「忠臣」ランキングという調査のベスト5だという。

乃木希典は意外と9位、本多平八郎忠勝はランク外だった。
納得感は人それぞれといったところか。

忠義といってもだれが主君なのか、どんな境遇なのか、その後どうなったのか、などでその印象はかなり違う。
投票する側の忠義観にもよるだろう。
忠義のありようは多様であり、その視点で「○○のような人だ」というのはどうも困難なようだ。


さてここに、勝海舟が登場する。

彼は、歴史上の人物で忠義というものを誰に見たのか。

このあたりから歴史に切り込んでみたい。

海舟が見た忠義の典型は、

難波田弾正

という、あまり聞きなれない名の男である。

難波田

と書いて、「なんばた」とよむ。

諱は憲重(のりしげ)。
戦国時代の武将で、扇谷上杉氏の家臣。
武蔵国の松山城主である。

難波田弾正 Wikipediaより

扇谷上杉と聞いて思い出すのは、上杉定正だろう。
『南総里見八犬伝』ファンには、扇谷定正でなじみ深い。

室町時代後期。
関東の地は、公方足利氏の権力はよほど弱体化し、その家老に過ぎなかった上杉家がこれを凌いだ。
その上杉家も2つに分かれて争い、さらにその家臣が背くなど乱れに乱れた。

その中でも上杉定正が混乱を収束させ勢威を得たのも、家宰に太田道灌がいたからである。
太田道灌は一代の傑物だ。

もし自立したら北条早雲とならんで関東を代表する大名となったに違いない。
しかし、そうはならず、ひたすら上杉定正に仕えた。
しかし、それが道灌にとって不運だった。

道灌の絶大な声望は定正の嫉妬と猜疑を生み、定正は道灌を暗殺してしまう。
1486(文明18)年7月のことであった。


太田道灌像 和樂ウェブサイトより 


難波田弾正の生年はわかっていないが、おそらく道灌の孫の代の人と思われる。

道灌の死後、関東の地に収束する者は絶えて、真に乱れた。
そうした状況で弾正は生まれた。

道灌のいない扇谷上杉家を支えるに耐え得るのは弾正しかいない。

当時の関東は、後北条氏によって侵食が進みつつあった。
初代の早雲が相模に進出し、その子の氏綱も父に劣らず俊秀で、ついに上杉家の領する武蔵に侵入した。
弾正の主家・扇谷上杉家は仲の悪かった山内上杉家と連合してこれに対抗。
裏返してみれば、そうしなければ両上杉は良くて駆逐、悪ければ滅亡の危機にあったのだ。

弾正は、松山城にあって両上杉和解へのネゴや南武戦線の作戦、差配さらには戦闘指揮を行っていたと思われる。

しかし、1524(大永4)年、氏綱は世田谷城、江戸城、岩槻城を陥して扇谷上杉の本拠地・河越城に迫った。

扇谷上杉の当主・朝興は形勢をたて直し、河越以南の諸城で後北条と攻防を繰り広げたが、1537年(天文6年)に病死してしまった。

新しい主君・朝定は13歳の少年だ。

落日の上杉、旭日の後北条。

私利私欲が黒煙を立てていたこの時代。
道灌横死以後、多くの家臣が扇谷上杉家から離反していった。
しかし、弾正は落ち目の上杉の幼君を忠実に支えている。


結果だけをいうと、難波田弾正は後北条との戦いに敗れて死ぬ。
主君の朝定も死に、扇谷上杉家は滅亡してしまう。

何度も繰り返すが、鎌倉武士の頃と違ってこの頃は、我利我欲の離合集散の時代だ。
扇谷上杉の凋落はだれの目にも明らかという逆境にあった。

まだある。
扇谷上杉のために全知全能をもって仕え、関東支配を死守してきた家老・太田道灌は、主君によって謀殺されたのだ。
道灌は、

当方滅亡

と絶叫して死んだのである。

孫の代に生きる弾正がそのことを知らないはずがない。

弾正は道灌には及ばずとも、武勇も知略も学才も十分にあった。
後北条氏や長尾氏など、下剋上の動きがあることもさとっていたはずだ。

ひょっとして学才があるために、「忠義」という思想(理屈)やそれにともなう行動律を認識していて、それを実証していたのだろうか。

つまり、〝こう生きるべき〟と。

ほかに、十分考えられることはある。
幼い主君・上杉朝定の存在だ。
彼は21歳で討死してしまったために、どんな人物だったかがよくわからない。

ただ13歳で当主になった。
扇谷上杉家にはもう彼しかいなかった。
か弱い、しかし心やさしい貴公子だったのではないか。

弾正、そなたが頼みぞ。
わたしにはもうそなたしか信じる者がいない。そなたを父とも兄とも思うている。
どうかこのわたしを支えてくだされ。


その掌にふれ、その声を聞いて、激しく心を揺さぶられたのではないか。


弾正は、我欲追求や下剋上の気質よりも、中世武士が持つ故郷や貴種に対する帰属性、愛着を多く持っていた男だったのではないかと思う。

いまは難波田公園として整備されている難波田城 Wikipediaより

武蔵国は、江戸、河越、松山、鉢形と数珠玉のように南から北へ城が連なっていて、上州へと続いている。

南武蔵を抑え、北進を画策していた北条氏綱は、上杉朝興の死を知って河越城攻略に成功。余勢をかってその北の松山城へ攻めかかった。

弾正は松山城にいて、これを迎撃。
弾正が後世に名を残す最大の出来事が起きたのはこのときだったともいわれ、また、別のときだったともいう。

海舟は、このときのことをその著書『氷川清話』に書いている。
それによると、弾正が八王子の城から退却している際に、後北条の兵の追撃を受けたときに、そのことが起きたという。

弾正が逃げていると、馬が倒れてしまった。
弾正は徒歩で逃げようとしたところを、後北条の兵が呼びかけてきた。

一説には、山中主膳という武士だという。

難波田弾正とも呼ばれる勇士が、敵に後ろを見せるとは見苦しいぞ。

という。

『関八州古戦録』では、山中はこれを和歌にして声をかけたという。

あしからじ よかれとてこそ 戦はめ なにか難波田の 浦崩れ行く

すると弾正は少しもあわてず声高らかに答えた。
和歌だったという。

君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこえなん

主君をほおっておいて、他の者を相手しては
末の松山を波が越えてしまうだろう。


頓知をきかせて、古今和歌集にある古歌で、いまの心境を返したのだ。

末の松山とは、宮城県多賀城市にある砂丘で貞観大地震でも津波がここを越えなかったという。

弾正は元歌の意味する恋人への誓いを、主君である朝定への忠義に読み替え、「末の松山」を最後の拠点である松山城に重ねたのである。


難波田弾正の居城・武蔵国松山城 じゃらんウェブサイトより


海舟はいう。

追っ手もさるものだ。
この歌をきいて、我々はあなたの忠義の心を知らなかった。
死ぬことはやさしく、生きることは難しい。
あなたは恥をしのんで扇谷上杉のあとを追うのだな。
このような忠臣を追い詰めるのは、決して武士道ではない。

そう言ってそのまま見逃した。

そして最後に、難波田弾正をこう評した。

忠義の勇士は、国家に我が身ひとつをもってまごころを尽くすほかない。
難波田のごときは、実に皆のものの手本だよ。


海舟が見た忠義の典型は、難波田弾正。

海舟の話したことは、これでしまいである。

ここからはわたしの拙い想像だが、海舟の難波田弾正評は、海舟自身の境遇と密接に関係していると思えるのだ。

海舟は、弾正とある点で共通している。
ある点とは、「主従」のことだ。
弾正の忠義は、すなわちおのれの忠義を意味するところ、そう言いたかったに違いない。


難波田弾正には上杉朝定。
勝海舟には徳川家茂という主君がいた。

徳川幕府第14代将軍。
家茂は13歳で将軍位につき、21歳で在位のまま病死している。
上杉朝定の当主在位期間と同じで、夭折ということでも同様だ。

幼少の頃は風流を好み、池の魚や籠の鳥をかわいがるのを楽しみとしていたが、将軍になってからは、文武両道を修めるように努めた。
ささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていたという。
きわめて自律的に公人たろうとしていた誠実で純直な人だったのだろう。

海舟は、この家茂によって引き立てられ、軍艦奉行に昇進した。
1863(文久3)年には、海舟にとって忘れられない出来事があった。

家茂は幕府軍艦・翔鶴に乗って江戸から大坂にゆくことになった。
海舟は軍艦奉行としてそのお供をする。
伊豆下田沖を通過するときは強風が吹き、側近たちは将軍を陸路をゆくべしと船内でたいそう揉めた。
ところが家茂は、

いまさら陸で行く必要はない。海のことは軍艦奉行にまかせてあるのだから。

といって海舟をかばったという。

海舟はその日の日記に、

小臣涕泣して、上意のかたじけなきに感激す。

と書いた。

 

徳川家茂像(徳川記念財団蔵)Wikipediaより

家茂が座乗した翔鶴丸 日本の歴史ガイドウェブサイトより


家茂は海舟を出自や位階で見ることはなかった。
海舟を気に入り、刀や酒、銀貨、羽織などを海舟に贈った。日頃の精勤への感謝のつもりだったのだろう。

その家茂は客地・大坂にあって日に日に幕威衰え、内憂外患で心をすり減らし、ついに21歳の若さで脚気により急逝してしまう。

急逝を知った海舟は、日記に

家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ

と記したというから、その落胆は激しかった。
せめて遺骸を軍艦に乗せて江戸まで供するつもりでいたが、長州征伐の後始末を命ぜられそれも叶わなかった。

海舟の次の主君は徳川慶喜である。
忠義ということでは、慶喜に対して果たしてどうだったろうか。
海舟にとって忠義の対象は生涯で唯一、家茂だけだったのではないか。

その思いは明治になっても消えることはなかった。亡き家茂への報恩の念は募るばかりだったろう。
それを、難波田弾正の忠義をほめたたえることで、おのれの家茂への忠義の暗喩としたのではないか。


ただ、海舟にとっての主君を徳川将軍家だとすると、忠義のためなら小栗上野介のように敗亡という道もあったはずである。
事実、弾正も主君・朝定とともに死んだ。

しかし、海舟は生きた。
徳川将軍家の存続に奔走する一方、近代国家の一日でも早い誕生を希求した。

忠義の勇士は、国家に我が身ひとつをもってまごころを尽くすほかない。

難波田弾正のえらさを海舟はそういっている。
しかし、弾正の時代には日本に国家はない。
正しくは、

忠義の勇士は、主君に我が身ひとつをもってまごころを尽くすほかない。

というべきだろう。
が、そうは言わなかった。

主君ではなく国家に尽くすと。

弾正の主君が上杉朝定であり扇谷上杉家であったように、海舟の主君は家茂、慶喜であり徳川将軍家である。
弾正や小栗のように忠義の結果が死ではなくても、世に出ることなく社会的に死ぬこともできたはずだ。

能力のある海舟のことである。
上の文脈は彼にとっては辛辣にすぎるであろう。

だから、海舟は自分への暗喩の正確を期すために、あえて「主君」といわず「国家」と言ったのではなかろうか。
私は新国家への忠義のためにあえて生きた、と。

ただ、そのことが少し引っかかった。それだけのことである。

忠義のありようはまちまちである。
しかし。
もしも、忠義のこころの底に熾火があるとすれば、それは忠を尽くす(いのちを差し出すほどの)相手への巨きな感動であるような気がする。

1546(天文15)年4月20日。
難波田弾正は、味方8万という大軍勢の中にいた。
敵3千の兵が籠る城を包囲しながら、敵の策略にハマり、後北条8千の新手による夜襲をかけられて大混乱に陥った。
乱戦のなか、上杉朝定、弾正の子ら、3千余人が討死。
弾正は河越・東明寺の入口にある井戸に落ちて死んだ。

1888(明治21)年8月20日。
徳川家茂の27回忌がおこなわれ、海舟は弔辞を読んだ。

旧臣勝安芳、昭徳公霊前に慚愧口演

に始まる感動的なものだったという。

 

旧主を悼むとき、海舟のこころに去来したものは何だったか。

世は明治となり、国のかたちも仕組みも、人の容姿も心情も、忠義のこころも、何もかもが変わった。

ただ、旧主の霊前に立った海舟は、将軍家茂へのまごころこそが忠義であったと、激しく心が打ち震えるのを感じながら確信したに違いない。