坂の上の雲
菜の花の沖
いずれも司馬遼太郎の歴史小説である。
「坂の上〜」は日露戦争を、「菜の花〜」は高田屋嘉兵衛を通して日露交渉を描いた傑作だ。
べつにロシアそのものを考える義務をたれから負わされたわけでもないのに、ロシアが関係する二つの作品(『坂の上の雲』と『菜の花の沖』)を書くために、十数年もロシアについて考え込むはめになった。
(司馬遼太郎「ロシアについて~北方の原形~」より ※以下同じ)
この二つのあまりに重々しい作品を描き、描くために厖大な史料を渉猟したことで、氏のなかでロシアについてよほどの思いが蓄積したのだと思う。
そのことは、私の年齢の四十代と五十代で終わったはずなのに余熱がまだ冷えずにいる。
そう言って書いたのが
ロシアについて〜北方の原形〜
である。
知の巨人というべき氏にとって、歴史上のロシアとの邂逅は、巨大な異物を呑み込んでしまったような戸惑いがあったのではないか。
「坂の上の雲」でも「菜の花の沖」でも消化しきれなかったものを、書くことで鎮めようとしたとしか思えない。
いまから40年前、文芸春秋で「雑談・隣りの土々」が連載された時に初めて読み、しばらくして改題され、1989年に文庫化されたのが本書である。
ただ、司馬氏は本書では、ロシアを国家として捉えようとはしていない。
隣りの土々と書いて〝くにぐに〟とルビをふっていたように、こだわりを持って地域という視点で書いていた。
ロシアについて考え続けていたころ、私は努めて、ロシアが好きでも嫌いでもないという気持ちを保とうとした。
もし好悪とか主義とかいった、いわば酒精分が私の中にあるとすればこういうものは書かなかったはずである。
私にとってのロシアは、ただそれをみたかったというに過ぎない。
「あとがき」で、繰り返すようにそう言っている。
いままた、平明な目で読み返してみた。
歴史は現実の無限の蓄積だ。
平らかに歴史を知ることほど意味のあることはないだろう。
本書では、冒頭、被害者としてのロシアが描かれている。
ロシア人は、国家を遅く持ちました。
ロシアにおいて、国家という広域社会を建設されることが、人類の他の文明圏よりもはるかに遅れたと理由の一つは、右のように強悍なアジア系遊牧民族が、東からつぎつきにロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化であるとそれを荒らし続けた、ということがあります。(略)
ロシア人の成立は外からの恐怖を除いて考えられないといっていいでしょう。
右のように…とあるのは、たとえば遊牧民族・フン族や中国で蠕蠕とよばれたアヴァール人だ。
彼らは今の中国周辺において4世紀から6世紀まで飛び跳ねるようにして活躍し、やがて西方に大移動し、ロシア平原に出現した。
このとき、まだ、ロシア人による国家はなく、スラヴ人系の農民が散在するように小さな社会を作って、平原の原野を耕作していた。
そこを通過する東から来た遊牧民族は、スラブの社会をかき回しその女たちを奪い多数の混血児をつくった。
彼らスラヴ系の人たちが、ロシアやウクライナの遠い祖先である。
9世紀になってやっとウクライナのキエフの地に、ロシア人の国家(キエフ国家)ができたということは、ごく小規模とはいえ、ロシア史を見る上で、重要なことだと思います。
(略)
9世紀に樹てられるキエフ国家の場合もロシア人が自前につくったのではなく、他から国家をつくる能力のある者たちがやってきたのです。やってきたのは海賊を稼業としていたスウェーデン人たちでした。
882年、キエフ大公国、建国。
キエフ大公国は東スラヴ人、バルト人、フィンランド人が、リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた国で、いまのウクライナ、ベラルーシ、ロシアの各国はいずれもキエフ大公国を文化的祖先としている。
日本は平安時代の前期で藤原基経が初めて関白になった頃のことである。
ところが、しばらく平和だったロシア平原に、13世紀の初めに異常事態が発生する。
チンギス汗が起こした大モンゴルがやってきたのだ。
大モンゴルは、農耕社会という定住文明に対する破壊者であり掠奪者だった。
チンギス汗は1227年に死にます。
それから8年後にモンゴル高原のチンギス汗の首都であったカラコルムにおいて大集会がひらかれ、
「ヴォルガ川の流域ーロシア平原ーとその西方を征服しよう」
ということが決められたのです。
征服のための総帥としてチンギス汗の孫のバトゥが派遣されることになりました。
当時、ロシア平原には都市ができつつあり、その代表的な都市であるモスクワはモンゴル人によって破壊しつくされ、人々は虐殺されつくした。
チンギス汗の肖像 Wikipediaより
やがて、その一部がロシア平原に居すわるのだ。
キプチャク汗国(1243〜1502)。
1240年 代、キエフは陥落し、キエフ大公国は滅亡した。
この13世紀において、かれらにはじめて居すわられてしまい、帝国をつくられるはめになったのです。
以後、ロシアにおいて
「タタールのくびき」
といわれる暴力支配の時代が、259年のながきにわたってつづくのです。
このモンゴル人による長期支配は、被支配者であるロシア民族の性格にまで影響するほどのものでした。
16世紀になってはじめてロシアの大平原にロシア人による国ができるのですが、その国家の作り方やあり方に、キプチャク汗国が影響したところは深刻だったはずだと私は思っています。
259年間とは異常な長さだ。
日本でいえば、いまから259年前は江戸時代後期、将軍家治、田沼意次の時代である。
民族の体質に与える影響ははかり知れない。
キプチャク汗国の支配とは〝収奪〟だ。
キプチャク汗国がロシア農民に対して行った搾りあげはすさまじいもので、ある説では14種類もの貢税がかけられたといわれ、ロシア農民は半死半生になりました。
汗国のやりかたは、ロシア諸公国の首長を軍事力でおどし、かれらを隷従させ、その上でかれらを通じ、農民から税をしぼりあげるというもので、これにたえられずに逃げてしまう農民もあり、悲惨なものでした。
首長が汗国にすこしでも抵抗の色を見せれば、汗国から軍隊が急行するのです。軍隊はその町を焼き、破壊し、ときにに住民をみなごろしにし、女だけを連れ去るというやり方をとりました。
汗国の権力の実体は、すべて軍事力であった。
ロシア人にとって絶望の259年間だった。
ロシアの体質として、支配する側に回ったとき、または、国家体制を構築するとき、こうした強烈な被支配の長い体験が、骨髄まで沁みわたっていたのではないか。
外敵への異様な恐怖心
病的な外国への猜疑心
潜在的な征服欲
火器への異常信仰
それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だ、と司馬氏はみている。
ロシア世界は西方から見れば二重にも三重にも特異な世界たらざるをえなかったことを、ロシアというものの原風景として考えておく必要があるのではないでしょうか。
キプチャク汗国の最後は、はかないものだった。
キプチャク汗国は、その分家のクリム汗国によって滅ぼされた。クリム汗国も独力では自信がなく、イワン三世のロシアと共同でこれを攻めた。
そして1783年、エカテリーナ女帝のとき、ロシア帝国に併合されるかたちで、このチンギス汗の末裔の国は滅亡した。
モスクワのクレムリン
そして、司馬氏は本書の「ロシアの特異性について」という章で、
武力のみが国家をたもつという物騒な思想を、ロシア帝国は、かつて自分たちを支配したキプチャク汗国から学び、引き継いだといい、武力をうしなえば、クリム汗国のような最後をとげるという教訓を得た、といった。
歴史は現実の無限の蓄積だ。
平らかに歴史を知ることは、知らないよりは意味のあることだろう。
いま、戦火にあるロシア平原の地下には、こうした歴史がいくえにも重なりあっている。
キエフの美しい街並み