戦国・江戸時代を通して大名としたら二流、いや、三流かもしれない。
とにかく負けてばかりいた。
小笠原氏という武家がいる。
歴史上、この苗字の人物がなぜかちょこちょこ顔を出す。
小笠原氏は、甲斐源氏の祖・源義光の曾孫から始まる。
小笠原というのは、甲斐国の在所の地名だ。
鎌倉幕府創業の功臣の一人で初めて小笠原氏を名乗った初代の長清は、信濃国の守護となる。
長清は弓馬の術に優れており、鎌倉御家人の中で弓馬の四天王に数えられた。
長清は、弓上手、馬上手だった。
格闘して敵を首を取るなどという武力というより、天性のスポーツマンだったのだろう。
将軍と鎌倉武士団らによる軍事演習の「巻狩」でも長清は活躍したようだ。
小笠原長清 江戸時代『前賢故実』画・菊池容斎 Wikipediaより
小笠原が初めて有名になったのは、弓と馬による。
長清以降、代々弓馬の家として小笠原ブランドが後代に受け継がれていった。
南北朝動乱の時代になると、小笠原貞宗が当主であった。
鎌倉幕府を倒して成立した建武政権は、後醍醐天皇が帝王然として親政した。
すべての武家は天皇の前に拝跪した。
かつて木曽義仲は、後白河法皇の平家追悼の院宣を拝して入京したが、「立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」と言われたように、無骨で無作法な田舎者まるだしの男だった。
そのことだけが原因ではないが、法皇や公家たちに忌避されて、やがて没落した。
後醍醐の時代の武家は、天皇や公家に無礼狼藉を働き、婆娑羅(ばさら)などと称して身分秩序を無視する者が少なくなかった。
武家が義仲や婆娑羅どものようでは困る
後醍醐や周囲の公家はそう思ったに違いない。
そうした中にあって、貞宗が戦略として小笠原ブランドを活かしたのなら、相当な切れ者だ。
貞宗は弓馬術に礼式を加え、弓・馬・礼の三つの法をもって小笠原の基盤を作ったといわれている。
新しく加わった小笠原の礼は、
手も足も皆身につけて使うべし
という。
見憎いという動作を避けて、見好いという動作美を意識して行動するというのだ。
公家たちにしてみれば自分たちの前では、木曽義仲や婆娑羅では困る。
武技は小笠原の弓馬術のように、平時の行動は小笠原の礼法のようにスマートであれ、と言っているのだ。
後醍醐は、その意志を行動をもって武家どもに示した。
後醍醐は貞宗に、
小笠原は日本武士の定式たるべし
と言って、自らの手形を捺した証明書と「王」の字を家紋に下賜した。
王の字と甲斐源氏の菱紋を合わせると三階菱になる。
天皇・公家は、ノンモラルで自己本位で強欲な武家を礼法という名の秩序によって鎮めたい。
一方、貞宗は武家礼法というマル適マークを、天皇からお墨付きを得ることによって、小笠原ブランドを永き未来に向けて確立したい。
この2つの思惑が一致したといえそうだ。
小笠原貞宗卿木像(鎌倉禅巨庵蔵) Wikipediaより
このことで思い当たることがある。
「礼」について、司馬遼太郎は「街道をゆく」の中でこう言っている。
礼とはつまり形式のことで、この形式がいかに煩瑣であれ、これを命がけでまもってこそ人間と社会が成立するというのが、儒教の祖とされる孔子の考え方であった。
逆にいえば儒教国家というものは自然のままの人間というものをみとめない。
人間は秩序原理(礼)でもって飼い馴らされてはじめて人間になる。
たとえば野馬は馬ではなく、それをとらえてきて一室のかこいのなかに入れ、非自然的な調教法(礼)で馴化させてはじめて馬になる。人間もおなじだ、という思想である。
(司馬遼太郎「街道をゆく・韓のくに紀行」より)
こう読むと、野生の馬とは、木曽義仲や婆娑羅どもであり、調教法とは小笠原礼法になる。
しかし、残念ながら小笠原礼法が中国の儒教のように荒くれどもの飼い慣らしシステムになることはなかった。
なぜなら、小笠原貞宗は礼法を一子相伝としてほかには伝えないこととしたからだ。
ただ、この礼法を朝廷と将軍家だけに伝授した。
徳川時代になるとさらに儀式を複雑にし、模倣できないように更新していったという。
つまり、高貴な筋にだけ小笠原ブランドを分与し、あとは密かに私蔵した。
そのため小笠原礼法は儒教のように普遍化せず、永らく日本の文化にも公共財にもならなかった。
貞宗は日本の孔子になる機会を永久に失った。
時を経て、第二次大戦後。
価値観が大きく変化した戦後の風潮のなかで、日本人がかつて持っていた「相手を大切にするこころ」が薄れ始めた。
小笠原惣領家三十二代当主・小笠原忠統は、そうした状況を憂えて、礼法の普及活動をはじめることにした。
ついに、貞宗以来の一子相伝の封印を解いて一般へ、小笠原礼法の教授を始めたのだ。
貞宗からはるかに600年の歳月が過ぎていた。
小笠原礼書七冊 amazonホームページより
貞宗に助け舟を出すとすれば、彼もまた私利私欲が黒煙のように天地を覆っている時代の子である。
建武政権は、鎌倉倒幕の功により貞宗を信濃国守護に任じた。
その後、権力が変転し足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府が創建された。
貞宗は一貫して尊氏に与し、信濃国守護の地位を安堵される。
彼の真に守るべきは信濃国であった。
室町時代後期の時代相である一族内での抗争が、例外なく小笠原家にも起きている。
守護大名が、子々孫々、道理のように安穏とその地位にいられる時代は終わりを迎えていた。
守護大名でありながら戦国大名として一族をまとめ自立割拠に成功した長棟(ながむね)の跡をその子・長時が継いだのが1541(天文10)年。
奇しくも同じ年に隣国甲斐で、家督を相続して国主になった者がいる。
武田晴信。
のちの信玄である。
小笠原長時と武田晴信。
二人は同じ源義光を始祖に持つ永遠のライバルであった。