宗教。
というと、無宗教の私など、どうにも立ち入れないひるみがある。
ただ、宗教の一部(または全部?)に、人々の魂の救済という役割があるということだけはわかる。
おそらく、ひとに聞かれて、「私は無宗教です。」と答える人でも、辛いとき、困ったとき、願いを叶えたいとき、リセットしたいとき、癒しや救いを求めて何かに祈ったり、思いを馳せたりするのではなかろうか。
そのなかのいく人かは、都会の雑踏を逃れて、自然の世界に身を浸しにゆく。
滝、泉、井戸、磐、巨木。
パワースポットと呼ばれる場所へいざなわれる人々は、大なり小なり心にそうした思いを持っているのではなかろうか。
日本は、火山帯が多く台風の通り道であり、地震の巣でもある。
自然災害が多い。
しかし、富士の美しい山容があり、国土が狭いため川は滝のように流れ、渓谷を作る。
四季があるため、森が育ち、多くの生き物のいのちを養っている。
自然の恵みが豊かでもある。
原始古代より現在まで、日本人は自然とともに生きている。
たとえば、現代人にとって都会を離れ山に登ぼりきれいな空気を吸い身心をリフレッシュすることを好む。
しかし、やがて人は里と違い山が「異界」であることに気づく。
そして、人間にとって「異界」である自然の懐に抱かれることによってそこに生きる動物や虫、 樹木や草花と同じ一つの生命として大自然のなかに生きていることが自然に体感できる。
さらに山に分け入れば、平地と隔絶し、岩肌をさらけ出す山の頂。うっそうと繁る深い森。
その人にとって、山は畏怖すべき自然の驚異そのものになる。
そして、森羅万象が発する息づかいをこの身で感じ、すべてを包みこむ大いなるものに向き合いたいと思う。
その異界に、カミがいると感じる人も少なくないだろう。
原始古代にカミだったものが、後世になるにつれ、神や仏などと呼ばれるようになる。
自然崇拝は、修験道になり、さらに神や仏に姿を変えてゆく。
ひとりの呪術者がいる。
史書にはほんの数行あらわれるのみの謎に包まれた宗教者。
本名は、役小角(えんのおづの)。
彼が7世紀の飛鳥時代に実在したことは、ほぼ確からしい。
なぜなら、彼は「続日本紀」という国史に登場する。
文武天皇3年(699)の記述に、こうある。
役君小角は初め葛木山に住み、咒術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足に「師は妖惑の術を用いている」と讒訴され、伊豆島に流された」
と書かれている。
さらに、
小角はよく鬼神を使い、(それらに)水を汲ませ、薪をとらせた。もしか鬼神が命令に従わないときは、咒をもってこれを縛った。
という表現で、どうやら小角が超人であるらしいことがわかる。
以上が役小角に関する信頼できる消息のすべてなのだ。
役行者像(キンベル美術館) Wikipediaより
役小角が流刑になった2年後に、僧尼令が国から発令される。
これによって僧尼は国家公務員になった。
国の許可のない私的な僧尼は違法となったのだ。
僧尼令は、社会を妖惑する行為を第一条にて禁じている。
正規の僧尼でも、これを行うものは処罰された。いわんや役小角のように、山に棲んで呪術を行うなど、危険とされて配流されたのは当時として当たり前のことだった。
ひょっとすると僧尼令は、第二の役小角の出現を排除するために作った法律かもしれない。
史実の中の役小角はこれだけしかない。
以前取り上げた崇峻天皇の子、蜂子皇子によく似ている。
彼も正史への記述は極めて少ない。
しかし、逃亡して出羽国に至り、能除という修験者になったという伝説がある。
役小角は、伝記・伝説のなかでさらに飛躍した。
彼が修験道の開祖として登場するのは室町時代末期(15世紀後半)の「役行者本記」からである。
役行者(えんのぎょうじゃ)
という新しい名前で、その後18世紀に至るまでいくつもの伝記が残されている。いわく…
●役行者は、鬼神をこき使うほどの法力を持っていた。
●役行者は、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとしたが、いうことを聞かない神を折檻した。その神は天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため伊豆大島へと流刑になった。
●役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていった。
●孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ。
●40歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得た。(日本霊異記)
史実の人、役小角は優れた呪術者だったが、周囲から危険視されて罪を得た。
その彼を山に登らせ、空を飛ばせ、印を結ばせ、孔雀明王(密教)に遭遇させ、ついには十界修行という仏になるための行をせよ、と人々に教えている。
ワシが仏をかよ。
役小角が聞いたら腰を抜かして驚くのではないか。
そもそも孔雀明王が日本で信仰され始めたのは奈良時代。西大寺金堂に安置されていたというから765年以降だ。
役小角はすでに亡い。
役小角と孔雀明王との遭遇は、呪術と密教との融合を象徴しているのだろう。
国宝 絹本著色孔雀明王像(東京国立博物館) Wikipediaより
司馬遼太郎の小説「空海の風景」にこうある。
孔雀は悪食である。
体が大きくそのため多量の蛋白質をとる。
毒蛇、毒蜘蛛なども容赦なく食ってしまうことにドラビダ人たちは仰天し、超能力をもった存在として偉大さを感じた。そこに「咒」が発生した。「咒」は古代インドの土俗生活にとって生命を維持するために欠かせぬものであり、たとえば歯が痛むときにはそれを癒す咒があり敵を退散せしめるときにもそのための咒がある。
咒は、役小角の得意とする能力ではあったが、まだ孔雀の存在に仮託してはいなかった。
やがて孔雀の上に仏を乗せて孔雀明王が誕生する。密教(純密)の誕生である。
いわば生身の役小角は亡骸を残した。
亡骸は皮だけを残した容器のようになった。
その容器の中に、孔雀明王や蔵王権現、比叡山回峰行や大峰奥駆けや富士講などのいろいろな肉塊が入り込んで、役小角という男とはまったく別物の「役行者」という修験道の巨人として蘇生した、といっていい。
奥駈道を行く修行者 Wikipediaより
冒頭、魂の救済のために宗教が存在すると言った。
作家・司馬遼太郎は若い頃、軍隊に行かなければならなくなったときの逸話がある。
みんな、入営するいうたら、女を買いに行ったりしよったんやけど、おれは、大峰山へ行き、その山上ヶ岳の岩の上にすわって、三時間あまり、ひとりで、付近の山やまを見はるかしながら、気がまえの広さを養うて、死について考えたんや
熊野の峨々たる大山塊の山やまにかこまれた山上ヶ岳の絶巓の岩に、あたかも、小角のようにすわって、気宇の壮大さを養い,死について考えた。だが、小角が得たような悟りをひらくことは、ついにできなかった。
磯貝勝太郎著「司馬遼太郎の風音」より
葛城山 Wikipediaより
生命力の充溢する若者が、突如として戦場へ送られることになり、死が現実のものとなるとき、若者は宗教を乞うたのである。
宗教の教義やディテールはわからなくても、役行者という偶像を思い描くだけで、宗教の内心に触れ、若者は魂の救済に達することができるのではあるまいか。
役行者という偶像は、そのためになかば意図的に作られたと思えるのだが、どうだろう。