熊谷直実の生涯のうち、最も有名な話は、なんといっても「敦盛」だろう。
織田信長が好んで謡い舞ったというあの「敦盛」である。
一ノ谷の合戦ですでに平家の敗北が決まり、一族が争って海上に逃れようとしていたとき、彼らを追って来た直実は、手柄をあげようとよき大将首をと狙っていた。
その時、目の前を萌黄色の鎧を着た高位そうな武将が海へ馬を乗り入れようとしていた。
直実は功名の好機とばかり、狼の如く駆け寄って、組みついて首を打とうとすると、それは十六、七の公達。
つい先ほど同じ年頃の息子が負傷している直実は、その組みついた獲物の年若さにたじろいだ。
柄にもなくこの少年の父に思いをはせた直実は、
名を名乗れば助けよう。
と言うが、少年はそれを手で押さえ、
あなたのためにわたしは良い敵だ、さあ首を打たれよ!
と言う。
なおも、躊躇っていると、味方の兵が後から後からやってきた。この様子では自分が助けてもしょせん誰かの手にかかって討たれてしまう。
涙をこらえながら直実は少年の首を討ち落とした。
あとからわかるのだが、この少年が平清盛の甥、平敦盛。
平敦盛画像 初めてのお墓選びホームページより
直実は、この一事から世の中の無常を痛感して、出家してしまう。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
人の世は五十年に過ぎず、天上界に生まれた化天の寿命8000歳に比べたら、夢幻のように儚いものだ。
幸若舞「敦盛」の中でそう嘆いているのは誰あろう熊谷直実なのだ。
この話は歌舞伎にも「熊谷陣屋」として上演されているが、史書「吾妻鏡」によると、直実の出家の理由はこれとも全く違っているのだ。
事実、直実は出家する。
しかし、それは敦盛を討ってから8年も後のことなのである。
その理由は例の所領争いのもつれからだ。
1192(建仁3)年、鎌倉の御所で直実と叔父の久下直光との所領争いの裁判が開かれた。以前、戦功によって、熊谷郷の土地は直実のものとされたものの、問題解決には至らなかったようだ。
つくづく、武士にとっては一所懸命、土地問題は死活問題だ。
頼朝は直々にこの席に臨んで、細かく直実に質問した。
直実は武勇にかけては一騎当千の強者だったが、弁舌の才に乏しく論理的な会話が出来なかった。
頼朝としても納得できないことが多過ぎた。
応答している間にも、直実の言うことは、筋が通らなくなってきた。
直実は、人生の中でしばしば見せる「事件」がある。このときが、それだ。
あろうことかとうとう直実は頼朝に対して突然怒鳴り出した。
御所さまお気に入りの梶原景時がわが叔父をひいきにするから、こういうことになるんだ!
ああ、御所さまはわが叔父に有利な判決をなさるに違いないのだ。
こうなりゃ、証拠の文書なんかなんの役にも立たぬわい!
ああ、やってしまった、直実。
怒りに任せ訴訟文書をわしづかみにするや庭に投げ捨てると、控室に戻るなり髻を切って飛び出してしまったのだ。
御所中は大騒ぎになり、頼朝も驚き慌てて後を追わせた。
直実はこのあと、鎌倉にも故郷にも戻らず法然の弟子となってしまった。
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵) 写真 Wikipediaより
出家の理由は、敦盛ではなかろう。
敦盛を討ち取った瞬間、直実は幸若舞のように世を儚んだのだろうか。
いや、おそらく彼は、功名の大きさに身を打ち震わせながら、味方に向かってその首を振りかざしていただろう。
東国武士団の中で吹けば飛ぶよな総兵力3名の個人事業主が、平家の御曹司を仕留めたのだ。
ものども、見たかァ!!
激すれば頼朝にも捨て台詞を吐く、単純で、口下手で、アクの強い、愛すべき一騎がけの男。
敦盛を殺し世を儚んで出家のするわけもなかろう。
実は、直実は、この訴訟はあらかじめ久下直光と梶原景時が共謀して仕組んだものであって、裁判自体が公平におこなわれていない、と思っていた。
伏線となる事件があるのだ。
この裁判に先立つ5年前にも、直実は頼朝によってその所領の一部を没収されている。
1187(文治3)年8 月に鶴岡八幡宮において放生会(源平池に鯉を放つ儀式)がおこなわれた際、直実は自分に流鏑馬の的立ての役が与えられたことを不服として、その命にしたがうことを拒否した。
そしてそのペナルティとして所領の一部を召し上げられたのだ。
しかし、この処罰に対しては直実は何も抗議していない。素直に処罰にしたがい、それ以後も頼朝に忠実に仕えている。
現実の世界においては公平や平等ということは絵に描いた餅のような理想にすぎない。
それが現実に行われたためしはないし見込みもない。
そうした虚しい現実を直実は痛いほど経験 し、またそのことに絶望していたのではなかろうか。
新しい鎌倉の世も、また、塵芥のごときものか。
おそらく彼の心中には、ままならぬ世間を厭い、遁世出家したいという願望が潜在的にあった。
そして、それが、あたかも地下のマグマが突然噴火するように、この訴訟事件をきっかけに一挙に爆発したのだろう。
いずれにしろ、彼は熊谷直実の名を捨て、武士の世から消えた。
参考 慈悲の道徳(2) ―法然と熊谷直実―小坂国継