信長の秘計〜阻む者・光秀、受け継ぐ者・秀吉〜 | 天地温古堂商店

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1591(天正19)年6月、奥羽平定を最後にして、秀吉の天下統一は成った。

 

鳥取城攻略以降、不殺の人となった秀吉は、天正偃武を呼号し内治に専念するかと思いきや、その年の8月に、来春に「唐入り」を決行することを全国に布告したのだ。

 

結果からすると、朝鮮出兵の泥沼にはまり唐入りは失敗。

結果が秀吉の不殺主義の栄光を剥ぎ取り、老耄による愚行と断じられてしまった。

1595(文禄3)年、甥の関白秀次に切腹を命じ、その妻妾30余人を殺害しひとつ穴に投げ込み葬り去ったことも、評判を下げた。

 

秀吉は老耄によって人変わりした。

 

長年、そう言われてきた。

しかし、天下統一を果たしてわずか二ヶ月後に唐入りを宣言するなど、計ったようなタイミングだ。

人変わりするには、手早すぎはしないか。

 

唐入りの発案者は、別にいた。

それも秀吉には極めて近い人物である。

 

紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)  写真 Wikipediaより

 

 

織田信長

 

毛利氏を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた。

 

宣教師ルイス・フロイスは、1582(天正10)年、11月5日付で、島原半島の口之津から発信したイエズス会総長にあてた日本年報の追信に、織田信長の考えとしてそのように書いている。

 

この信長発言は、毛利攻め(1577年〜)の直前か最中であろう。

 

1578(天正6)年、信長は石山本願寺・毛利連合軍との戦いに新たに建艦した鉄甲船6隻を出撃させ、木津川口の海戦に勝っている。焙烙火矢を防御する鉄張りの巨船であった。

すでに、一大艦隊の建軍を意図した模擬戦だったかもしれない。

 

織田信長軍が使用した安宅船 写真 Wikipediaより

 

さて、この信長の秘計を知ってか知らずか、秀吉は毛利攻めの最中に、安土に帰って信長に復命した折にこんなことを言っている。

 

拙者、中国を切り従えましたら、上様の側近の方々を賜りとうござる。拙者はその者どもを引き連れて九州を征伐いたしましょう。

しかし、これもさっそくに平らげるでございましょう。


九州が平らぎましたら、願わくは九州を一年間支配させていただきとうござる。

拙者は軍勢をととのえ、兵糧をたくわえ、大船を造り、朝鮮に討ち入り申すでありましょう。


上様が、もし拙者に褒美を与えようと思し召されるなら、朝鮮をくださると御教書を賜りとうござる。朝鮮を打ち従えましたる上は、さらに進んで明国へ討ち入るでござろう。


明国が平らぎましたなら、公達のお一人を大将となして渡海なし奉りとうござる。

かくして、日本、朝鮮、明国の三国は、上様のお手に入りましょう。

 

そう大言壮語したという。

実は、子どものいない秀吉は信長に頼み込んで、信長の四男・於次丸を養子にもらっている。秀吉の得た領地は信長の子の物になる寸法だ。

 

秀吉がカラカラと阿諛を使い大法螺を吹いてみせ、しかも、おのれがいかに無欲か、その赤誠を表している。

 

おそらく、秀吉は信長の秘計を知っていたのであろう。

 

信長と秀吉の間で、唐入りの一件は黙契となった。

 

 

話は変わるが、明智光秀の側室の子に於寉丸(おづるまる)という遺児がいたらしい。

 

「明智系図」「明智軍記」には、安古丸、十内、自然、内治麻呂などの名はあるが於寉丸の名は見えない。

先述の宣教師ルイス・フロイスは、「死んだとされる二人の子は逃げたという噂もあった。」と言っている。名を隠し姓を変えて生き延びた者がいてもおかしくはない。

 

於寉丸の子孫といわれる方が明智憲三郎氏(1947年〜)である。

 

明智憲三郎氏はインタビューに答えて、本能寺の変について新たに突き止めた事実をこう言う。

 

光秀が本能寺の変を起こす前に詠んだという有名な句があります。

 

時は今 あめが下しる 五月かな

 

という句で、これは「時=土岐(とき)氏(明智家も含まれる名家のこと)が天下を取る」という決意を歌ったものだといわれています。

ところが、私の研究によって、この句は秀吉に改竄されたものだと判明しました。

正しくは

 

時は今 あめが下なる 五月かな

 

正しく解釈すれば「土岐氏は今、この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる(この状況を脱したい)」となります。

この句は天下取りへの野望などではなく、一族の苦境を救いたいという願望の表れなのです。

 

光秀が信長を討った理由について、明智憲三郎氏は、ルイス・フロイスが言った信長の秘計を前提に、こう言う。

 

光秀をはじめとした家臣たちは、現在の領地を取り上げられ、異国の地に送られてしまいます。

後年、秀吉の唐入りが失敗したことからもわかるとおり、異国の地での戦や生活は、一族を滅亡させかねないほどの危険をはらんでいますよね。


ようやく天下統一が近づき、一族も安寧を手に入れられると思っていた光秀は、自らの死後も一族が無事に過ごすためには、信長を止めなくてはいけないと決意した。信長への怨恨などではなく、一族を救うための謀反だったのです。

 

参考 明智光秀の子孫が独自に研究 本能寺の変の真相は「唐入り阻止」 - ライブドアニュースより

 

本能寺の変の理由は織田信長の「唐入り」の阻止だったと言うのだ。

 

その光秀を討った秀吉が、1592(天正20)年に唐入りの始点となる朝鮮出兵を行ったのは、歴史の大きな皮肉だ。

 

織田信長の秘計を阻んだのが明智光秀なら、それを斃して、秘計を受け継いだのは豊臣秀吉であった。

 

秀吉がなぜ唐入りをしたのか諸説あってはっきり分からない。

 

ただ、第一次出兵だった文禄の役の後の和平交渉の時に秀吉が提示した条件に、日明貿易の再開があった。

 

明国は1381年以降、鎖国体制をとっているが、私貿易を禁じているのであって、日明貿易のような公貿易は続いていた。

しかし、それも日本側の窓口である大内氏が滅亡して途絶した。

 

秀吉はそれを再開しようとしたのだ。

秀吉は、鳥取城を経済封鎖して開城させたように経済を知っている。

貿易を豊臣家が独占することによって高価な明の特産品の交易で莫大な富が生み出そうとしていたのだろう。

 

しかし、それならそれで外征なんぞしなくてもよかったのではないか。

信長にしても、秀吉にしても、唐入りのワケはいまだ定かではない。

今後の新たな文献の発見や地道で優れた学究に期待したい。

 

この稿では、信長の「唐入り」の秘計を、光秀が阻み、秀吉が受け継いだという奇譚に触れてみたかった。

 

そして、みな折り伏すように続けざまに斃れ、彼の地に永い不信の歴史だけが遺った。

痛恨事である。