天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

幕末。
討幕が政治の主流になることは一度もなかった。

1863年9月、公武一和の実現をのぞむ朝廷は、有志大名に期待し、島津久光、松平春嶽、一橋慶喜、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂らに上京を命じた。

参預会議

という列侯会議が生まれるが、船頭多くしての例えどおり、実績をあげられぬまま、殿様同士の口喧嘩をきっかけに短期間で会議は瓦解した。

その2年半後、1866年1月に薩長同盟があり、その翌年11月はもう、大政奉還である。

幕府は倒され、天下の政治は朝廷の手に帰した。
しかし、そうなってもまだ、封建制度をやめて統一国家にしなければ、国が立ちゆかないなどとほとんどの者が思わなかったのである。
諸藩は存続するものと、諸大名たちも考え、新政府でさえも、考えていた。

そして、やがて気がついてきた。
このままでは、日本は強化されない、と。

その気づきから新政府は、ようやく版籍奉還をし、廃藩置県をして、日本は統一国家になった。
維新から3年後のことであった。

日本は、明治維新によって、封建の体制から脱却して統一国家となり、周回遅れを克服して、なんとか世界をおおう風潮に同調することができた。

本稿の前篇でこんなことを書いた。

はたして、薩長史観を剥がしてみたらそこには何があるだろうか、と。

 

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廃藩置県(聖徳絵画館蔵) Wikipediaより


***

1866年に薩長と軍事・政治同盟が結ばれ、あとは坂道を転がるように政権は幕府から朝廷へ、朝廷から薩長による新政府へと移っていったように見える。

ただ、朝廷の中には最大の親幕家がいた。

孝明天皇である。

幕末のとくに幕府の浮沈に関して、孝明天皇の存在はきわめて大きい。

 

司馬遼太郎の『王城の護衛者』は小説であるが、史実の補助線として有効なので、文を借りて少し触れたい。
司馬氏はまず、孝明天皇の性格と政治姿勢について書く。

帝にとっては、徳川幕府の武威は、依然として家康当時のものであったし、その軍事力は列強と大差あるまいということを漠然と思っておられた。
さらに、この帝の性格には、軽佻さがなく、重量感のある保守的思考法を好まれた。
自然、秩序美の礼讃者であり、その当然の帰結としてゆるぎようもない遵法観念のもちぬしであった。


次いで、武家政府と天皇の歴史について書き、孝明もその歴史に対して謙虚であったと、書く。

法的にいえば、天皇はこの国の潜在元首である。
しかし、鎌倉以来、武家政権に国政のほとんどを委任しているのが日本の伝統的統治形式であり、さらに徳川家康の江戸幕府開創によって、天皇の国政上の位置は明文化され、単に公卿の統帥者に過ぎない。
わずかに官位を与える権限はあるが、それも極度に制限されたものである。
主権者としての権能は皆無であった。
それらのすべてを、徳川将軍家に委任しきってしまっている。
それが翕然とした法であった。


この帝は、性格上、無法者になることを好まれなかった。

孝明天皇がおわす限り、朝幕関係は安泰だったといっていい。

 

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〈上〉孝明天皇(小山正太郎筆) Wikipediaより〈下〉征夷大将軍在任時の徳川慶喜 文春オンラインより


慶喜は、正式に将軍に就任した1866年12月にただちに改革を開始した。

慶喜は、江戸幕府にヨーロッパの行政組織の要素を取り入れるとともに諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を幕府を頂点とする中央集権国家に体制そのものを変革することを意図する改革を図った。


これを慶応の改革という。

慶喜は、まだ見ぬ統一国家像を持っていた数少ないひとりであった。

 

すでにある陸軍総裁、海軍総裁に老中をあてた。
1867年5月には、

会計総裁
国内事務総裁
外国事務総裁

に、老中を任じて、老中を専任の長官とする事実上の五局体制を確立。
そして、老中首座の板倉勝静が五局を統括調整する首相役を務める、事実上の内閣制度が導入されたのである。

まだある。

⑴人事制度の改革による人材登用の強化
⑵新税導入を含めた財政改革
⑶旗本の軍役を廃止してフランス軍事顧問団指導の下での陸軍の整備
⑷フランスの支援による横須賀製鉄所の建設

短期間にすべてやった。

小栗忠順などは、⑶や⑷を勘定奉行として主導し、日本の近代化の基礎を築いた辣腕の改革派官僚なのである。

一方で、日仏会社による国内流通と国際貿易の独占支配、本格的な蝦夷地開拓など実行に移されることなく挫折した構想も多かった。

しかし、この間に不測の事態が起きている。
1867年1月30日に、孝明天皇が崩御されたのだ。
天然痘であった。
幕府は、最大の後ろ盾を失った。

日本史の中に謀略というものがあるならば、これなど最大の謀略なのではなかろうか。

謀略の中心には公卿・岩倉具視と薩摩大久保利通がいた。
1867年10月14日。

正親町三条実愛は、薩摩大久保利通と長州の広沢真臣を自宅によんで、薩摩藩主と長州藩主にあてた討幕の密勅を手渡した。

そこには、

汝よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、もって回天の偉勲を奏し……

と書かれていた。
さらに京都守護職と所司代を速やかに殺戮すべしとあった。

朕とは、明治天皇のこと。
殄とは、絶やすこと、戮とは、殺すことだ。

殺し尽くせという言葉は、天皇の言葉としては不似合いなほど過激な言葉だ。

これは武力討幕命令以外のなにものでもない。
しかも、この詔勅には天皇の署名と印がない。
これは、薩摩の武力討幕への意志を固めさせるために、岩倉具視らが天皇や朝廷の認可を得ずに作成した偽勅であることがわかっている。

 

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岩倉具視 東洋経済オンラインより


幕末史が専門の井上勲教授はいう。

討幕の密勅は奇怪な文書というほかない。朝廷会議での決定をへて作成された文書ではない。中山(忠能)、正親町三条(実愛)、中御門(経之)、そして岩倉(具視)の手によって、秘密裡に作成された文書である。

偽勅により、徳川慶喜は殺害の対象となり、幕府は討滅の対象となったのである。


一方、討幕の密勅の動きがあることを密偵からの情報で知った慶喜は、起死回生の一手をうつ。

大政奉還。
将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に返上したのだ。

だが、慶喜は朝廷に政権をになう体制はないと考え〝新政府〟においてもみずからがその実権をにぎるための政治工作を続けながら、改革を並行させてゆこうとした。


このままいけば、無血平和裡に維新は成るはずだったのである。
おそらくその可能性のほうが、かなり高かったのではないか。

維新の56日前のことである。

***

道理でもなければ、正義でもない。
政治の一瞬の空白で、官と賊とが定まる。


いま、大政は朝廷にあった。
孝明はすでになく、16歳の若き明治天皇がいる。
新帝はすでに岩倉と大久保らの掌中にあった。
慶喜ら旧幕府側は、いわゆる〝玉〟を取られたため、完全に守勢となり、陥穽へと追い込まれてゆく。

岩倉らは次の手をうつ。
密勅を根拠にした挙兵策から、朝廷内における王政復古のクーデターに作戦を切り替えている。

このあたりは、興亡を賭けた詰め将棋の棋譜のようだ。

王政復古の大号令はこんな内容である。

徳川慶喜の大政奉還と江戸幕府将軍職辞職の件を、朝廷はこのたび許可された。
1853年以来大変な困難で、孝明天皇が毎年ご心配されていたことは皆も知るところである。
そのため明治天皇は決断を下され、王政復古の基礎を築かれたので、

摂政
関白
江戸幕府

を廃止して、

総裁
議定
参与

の三職をおいて政治を行うことになった。
この日、1868年1月3日が、維新が成った日とされている。

王政復古には、徳川家主導と徳川家排除のふたつの道があり得たが、岩倉・大久保らによるそれは、徳川家排除による王政復古のシナリオであった。

明治天皇臨席のもと、新たに任命された三職によって小御所会議が開設された。

メンバーは、次のとおり。

〈総裁〉有栖川宮熾仁親王
〈議定〉仁和寺宮嘉彰親王、中山忠能、島津忠義、松平春嶽、山内容堂など
〈参与〉岩倉具視など

有栖川宮、仁和寺宮はこの後、朝敵となった旧幕府勢力を征討する総督となったし、中山は明治天皇の祖父にあたる。
いずれも薩長の持ち駒だ。

果然、このメンバーに徳川慶喜は選ばれていない。
なぜなら、この会議自体が岩倉・大久保らの謀略の一環だからである。

 

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徳川家排除の舞台・小御所会議 宮内庁ウェブサイトより


謀略であることが、司馬遼太郎の『酔って候』の一節でわかる。
薩摩藩の西郷隆盛と土佐藩の後藤象二郎のやりとりだ。
以下、史実の補助線として。

薩摩の西郷は後藤象二郎を河原町土佐藩邸にたずね、
「お人払いを」
と言い、三時間にわたって密議した。
西郷が明かした密謀はおそるべきものであった。
「将軍はなるほど大政は奉還した。しかしその領地四百万石はなおそのままになっている。これを朝廷に返上せしめる」
というのである。後藤はおどろき、
「徳川領四百万石がなければ、旗本八万騎は養えないではないか」
というと、西郷は動ぜず、
「その返上を勅命で将軍に命ずる。もし将軍が応じなければ、朝敵として討伐する」
後藤はあっとおどろき、これによって薩長にふたたび主導権をうばわれたことを覚った。


事実、この会議で、徳川家の所領の没収と官位のはく奪などが決定。

慶喜が上の命令に応じないとき、そして会津と桑名藩主が帰国命令に応じないときには、追討令を下して挙兵するシナリオであった。

慶応の改革→大政奉還→徳川家主導の王政復古→新政府樹立

慶喜のそういうシナリオが、維新前の2ヶ月で、薩長によって破れたのだ。

そして、いつの間にか、まるで魔術のように、旧幕府勢力が朝敵となり、逆賊になってしまったのである。

***

勝者たちのエネルギー群が幕府を倒し、維新を実現させたという薩長史観を剥がすことのつたない真似事をしてみたが、薩長史観とはちょっと異なった時代の空気を感じられたからどうか。

二百数十年にわたる鎖国によって、世界の体制に、まるで無知であったからだ。
彼らには、ただ眼前の事象しかわからなかった。(略)
こんな次第だから封建制度をやめて統一国家にしなければ、国が立ちゆかないなど、思いつくはずはなかった。


本稿の冒頭に、この海音寺氏の言葉を載せたが、最後に討幕の核心勢力だった薩摩の島津久光の姿を見ておきたい。

明治維新の歴史的意義は、国家的には日本が統一国家となり、社会的には市民社会となったところである。
こうならなければ日本は国際場裡に伍して独立を保っていくことはできなかったはずであり、世界の歴史と歩調もそろわなかったはずである。

維新の志士らは、おそらくはじめはこの到達点はわからなかったであろう。

ただ外国勢力の切迫にたいして、日本を強化しなければならないということしか考えなかったろう。
しかし、いろいろと歴史の中を生きてくる間に、次第にわかり、封建制度を揚棄するところに達したのであろう。

久光にはそれが最後までわからなかった。
はじめは幕藩体制を保持しながら皇室を尊重する国柄になろうと努力し、幕府がたおれると、せめて藩はのこして封建制をとりとめようとした。
結局、彼には尊王だけがわかって、維新運動の真の目的は、最後までわからなかったのである。

※海音寺潮五郎『歴史余話』(文春文庫)所収「殿様の限界」より

新政府ができあがっても、ただ名目だけのことで、三百諸侯は依然として地方に割拠し、土地人民を支配していた。
それを東京の手におさめないかぎり、政権とはいえず、ただ徳川氏から力ずくで奪い取った旧幕領の上でめしを食う盗賊政権のようなものであった。


版籍奉還は、当然のことながらこの革命をやった薩長土からということになるが、薩摩がもっとも難物であった。


久光がいる。
どの藩主が返事しても、久光だけは頑として藩を返上しないということは、東京の政府内では常識になっていた。
(略)
「おれは離さぬぞ」
と、久光は西郷にもいった。


西郷はさからわなかった。
さからわずに、藩兵を「御親兵にする」といって東京にあつめ、長州、土州の兵も同然に東京に集結させたうえで、その武力を背景に、あっというまに版籍奉還を断行してしまった。

※司馬遼太郎『酔って候』(文春文庫)所収「きつね馬」より

新政府は、ようやく版籍奉還をし、廃藩置県をして、日本は統一国家になった。

封建政権を倒した張本人が、誰よりも封建社会を手放そうとはしなかった。
その意味では、久光ほど統一国家を望んでいなかった者もいまい。
歴史のアイロニーである。

一方の小栗忠順。
彼は、幕府重役として日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に渡米している。
彼は世界にいち早くふれ、世界を知った。
統一国家がどういうものかを知っていた。

おそらく彼は、徳川家主導の王政復古による新国家の柱石として、かつて詳しく見聞した米国に比肩するような新しい日本をつくろうとしていたに違いない。
その彼は統一国家をその目で見ることなく、刑死する。

 

官と、賊と。

来年の小栗忠順が主人公の大河ドラマのタイトルは『逆賊の幕臣』というそうだ。
小栗を指す〝逆賊〟の一語が、大いなるアイロニーのようにみえるのは、私だけだろうか。

 

■小栗忠順に関する拙稿

 

【参考】

海音寺潮五郎『歴史余話』(文春文庫)

海音寺潮五郎『日本の名匠』(中央公論社)

司馬遼太郎『酔って候』(文春文庫)

司馬遼太郎『王城の護衛者』(講談社文庫)