天地温古堂商店

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

貴方にはあるだろうか。

残念ながら、私にはいまだにこんな気持ちになったことがない。

あの瞬間が私の人生だった

という瞬間が、である。

いまだにないが、似たようなことはあった気もする。
似たということすら、はなはだおこがましいことではあるが…。

本ブログで歴史上の人物について稿を重ねてゆくと、私はいくたびかその人にとってのその瞬間を目撃していることに気づく。

***

たとえば江戸時代後期の人、高田屋嘉兵衛(1769〜1827)がそうである。

嘉兵衛の生涯の異様さは、異国に捕まったことである。
鎖国の国・日本と隣国ロシアとの国交をめぐるトラブルに巻き込まれたのだ。
争いは負の連鎖によって起きる。

はじめに罵り合いだったものが、どちらかが手を出して、小づきあいになり、殴り合いになり、刃物を持ち出して斬り合いになった。

そういうことである。

嘉兵衛の災難もそれだ。

ロシアは鎖国日本と通商がしたい。
日本の国是は鎖国だ。のらりくらりと対応してなんとか穏便に引き取ってもらうことにした。
腹を立てた皇帝の使者・レザノフの命令で、フヴォストフ大尉らが樺太、択捉島などの日本の居留地を襲撃し、略奪や放火を行い日本側に死者がでた。
世にいう文化露寇である。

最初の連鎖が起きる。
ロシア海軍のゴローニン艦長を乗せた軍艦ディアナが千島列島の測量のため国後島に来た。
日本側は、先年のフヴォストフの襲撃がロシア政府の意思なのかどうかを確かめようとした。
ゴローニンはフヴォストフと同類ではないか。
幕府はゴローニンを捕まえることにした。
捕縛の方法は、だまし討ちに近い。
その後、松前に護送。

ロシアは報復を決意。
ディアナ号はいったん帰国、翌年に国後島に来た。
ゴローニンの副官だった艦長リコルドは、ゴローニン救出のため、情報を得ようと近海を航行している日本船の拿捕を実行。
それが持船に乗って航行中の高田屋嘉兵衛だった。
リコルドは嘉兵衛という人質が今後、ゴローニンの釈放交渉に役に立つと思いカムチャッカに連行した。
次の連鎖だった。

 

image

再現された高田屋嘉兵衛の持ち船「辰悦丸」 神戸新聞nextWebサイトより


外交の手段は途絶してしまっている。
このままでは戦争になるだろう。


嘉兵衛はここで負の連鎖を断つ行動に出る。

ひとりの庶民でありながら嘉兵衛は、日露両国のトラブルを、自分の力でなんとかいい方向に持っていこうと決意したのだ。

カムチャッカでの嘉兵衛の日常は、そのほとんどがロシア語の習得だった。
習得してロシア語で交渉できるようにならねば、と思うのだ。

リコルドがカムチャッカに滞在しているときは、嘉兵衛と同じ部屋で起居した。

ついに二人の通話レベルは、フヴォストフの暴挙について互いに理解するところに達したのである。

嘉兵衛はこう考えていると、リコルドは見た。

それまでの日本では、ロシアは寛仁にして信義の国であると理解されていたが、フヴォストフの暴挙によって、意外にも海賊同様の国であることを知った。
しかもそれは国王の指揮によるものだと見た。

リコルドは嘉兵衛の説明によって、日本側のロシアに対する敵対行為(ゴローニンの捕縛)のわけを理解した。

また、嘉兵衛はリコルドに日本の国是が鎖国であることを説いていることがわかる。

彼は、日本には万世不易の法律習慣があるが、外国人はそれを知らないために、日本人について誤った判断を下す、という事情をも説明してくれた。

やがて、ふたりはお互いをタイショウと呼び合うようになった。

まず、リコルドの欲するところを嘉兵衛が理解した。

大将に頼みたいことは、日本に生け捕られたゴローニンはじめ7人の者を無事にロシアに帰すことだ。

囚われの身のゴローニンも、またリコルドもそれぞれの場所でフヴォストフの暴挙がロシア政府の命令によるものではなく、私的な行為であることを主張していた。

嘉兵衛はおのれ一個の頭脳でこの解決策を考え、リコルドに言った。

イルクーツク総督から、ロシア政府はフヴォストフの行動を関知していない、という釈明書を出してもらいたい。

リコルドは、嘉兵衛のこの言葉を詭弁とも詐術とも思わなかった。
二人の間に「信」が成立していたのである。

リコルドはイルクーツク総督のもとへ。
嘉兵衛は釈明書を携えて松前へ。

紆余曲折がありながら、ついにゴローニンの釈放はかない、両国和平の義は成就した。

リコルドは、イルクーツク総督による松前奉行あての釈明書を受け取ると日本に向かい、箱館で待機していた嘉兵衛はディアナ号を途中で出迎え、入港した。

その後、嘉兵衛は日本側とロシア側のあいだを往復し、会談の段取りを整えた。

リコルドと松前奉行高官が会談。
リコルドはイルクーツク総督の釈明書を日本側に提出した。

松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、ゴローニンを釈放。

嘉兵衛が見送るなか、ゴローニンやリコルドが乗るディアナ号が箱館を出港し、ついにゴローニン事件は終結した。

 

image

リコルド著『対日折衝記』に描かれた高田屋嘉兵衛 Wikipediaより


冒頭の

あの瞬間が私の人生だった

の一言は、嘉兵衛についての司馬遼太郎氏の講演でのことばである。

ゴローニンが釈放され、嘉兵衛の仕事は終わります。
ロシアの軍艦が箱館を去っていく。

そのときリコルド艦長以下、すべての乗組員が甲板上に出てきて、見送る嘉兵衛に叫びました。
「ウラァ、タイショウ」

ご存じのように、「ウラァ」はロシア語で万歳という意味です。別れを惜しみ、感謝してくれた。
嘉兵衛はこの感情を生涯忘れませんでした。淡路で亡くなるときに、枕もとの人たちに頼んだそうです。
「大将、ウラァ」と言ってくれと。


「あの瞬間がおれの人生だった」が、この「大将、ウラァ」なのである。
司馬氏の書いた嘉兵衛の小説では、嘉兵衛が臨終のとき、まわりの者たちに「大将、ウラァ」と叫んでくれと頼むシーンがある。


高田屋嘉兵衛は大きな仕事をした不世出の人でした。
われわれは嘉兵衛のような人ではありません。けれども人はその人なりに「大将、ウラァ」ということがあるらしいですね。

総理大臣になることより、大きな企業の社長になることより、死ぬときに「大将、ウラァ」ということがあるかないか。


あの瞬間がおれの人生だったという思い出を持つかどうかが、大事だと思います。

名声や財産を残すことだけが人生の目的ではない。あれが自分の人生だったといえる瞬間があったかどうか。
その人物の生きざまを追う、ということは、おのずからその瞬間を追うことではあるまいか。

◾️君に「大将、ウラァ」はあるか〜高田屋嘉兵衛という生き方〜


***

話をつづける。

たとえば、高田屋嘉兵衛と同時代の人、間宮林蔵(1780〜1844)にとってもその瞬間がある。

彼は、幕府の雇として蝦夷地の探査測量をしているとき、択捉島シャナ会所でロシア船襲来に遭遇した。
前述した文化露寇に、林蔵は遭ったのだ。

林蔵は、ボートに大筒を載せたロシア兵が陸地に近づくのを見て、シャナ会所の責任者に上陸させないよう一斉射撃をすべきだと進言した。
しかし、責任者は冷静さを失い、何の処置も取らない。
林蔵が射撃して早く追い払うべきことを叫ぶと、責任者は林蔵に向かってこう言った。
 
騒がしいことをいうな!あっちへ行け!
おまえは一介の雇いだ。炊き出しの手伝いでもしてろ!


林蔵は憤然としてその場を立ち去ったという。

結局、彼らは会所から撤退した。
会所はロシア兵らに占拠された。
みじめな逃走だった。

 

image

測量用のくさりを持って立つ間宮林蔵の銅像 神戸新聞nextWebサイトより


彼はその後、この屈辱的な体験をバネにして、幕命を受けて未知の領域であった樺太(サハリン)北部を踏査した。
さらに、樺太が島であることを実証するため、10メートルほどの軽舟をもって海を超え東韃靼大陸に渡った。

林蔵は、樺太に住む水先案内人の助けを借りて、近くの湾に舟を着け、しばらく陸行してアムール河に出た。
そこから数十キロも河をさかのぼって、ついに清国の出張所・デレンに着いた。

おびただしい数の仮小屋、奇異な構造物、人々の喧騒。荒涼とした大陸に突然の大集落。
林蔵は清国役人の前に連行された。
 
お前は本当に日本人か
 
林蔵が日本から来たと言い、漢字を書いて見せると役人たちはびっくりしたという。
清国以外の野蛮人が文字の読み書きができるとは信じられなかったのだろう。
林蔵は清国役人に最も知りたいことを聞いた。
 
ロシアとの国境はどこか
 
と尋ねると、「国境などあるはずがない。我が国はロシアを追い払ったのだ」と答えた。

清国は海を隔てた樺太北部にも関心を示し、軍船を率いてアイヌやほかの原住民を従属させた。そして村落の酋長に役職を与えて清国へのの忠誠を誓わせたという。
林蔵はデレンでの見聞をむさぼるように記録した。

林蔵は多くの知見を得て、デレンを去った。
舟は進みアムール河の河口を離れ、やがて樺太の陸影を見た。
林蔵の旅は終わった。
すべてが夢のように思えた。

image

間宮林蔵の軌跡 間宮林蔵豆辞典Webサイトより


幕府は林蔵の探査に対して、金10両と扶持米と隠密という役職をもって報いた。
その後の林蔵は、幕府の隠密として各地の情勢を調査し、密輸の摘発などをおこなっている。
なかには林蔵を密告者扱いする者も現れ、江戸の庶民の目に敬意が消えたという。

林蔵は生涯、妻帯しなかったが、病床を手伝い女が面倒をみた。
寂しくも安らいだ晩年だったと思われる。
手伝い女ひとりに看取られ、林蔵は64年の波乱の生涯を閉じた。

林蔵はその晩年、しばしば病床の夢寐のなかで、海峡をわたる小舟を漕ぎながら濃霧のむこうにはるかにかすむ陸影を見た。
また、あのデレンのおびただしい数の仮小屋、奇異な構造物が見え、人々の喧騒が聞こえた。


林蔵は、あの瞬間がおれの人生であったと思い、この光景を生涯忘れなかった。


◾️間宮林蔵の孤独な戦い①~択捉島の敗走、雪辱の決意~


***


たとえば、警視庁警備部警備第一課長(当時)の佐々淳行氏(1930〜2018)にとっては「あさま山荘事件」がそうであっただろう。

1972年(昭和47年)2月19日。
日本の新左翼組織連合赤軍の残党メンバー5人が、管理人の妻を人質にあさま山荘に立てこもった。

佐々氏は事件の現場指揮者であった。
相手は、散弾銃、ライフルに鉄パイプ爆弾を所持している一方で、警察には、人質無事救出、犯人全員の生け捕り、身代わり人質交換の拒否、火器使用の制限が至上命令がくだっていた。
佐々氏は現場に向かう前に遺書まで書いたという。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビに映し出されたのを覚えている。

 

image

巨大な鉄球で壁を打ち壊したあさま山荘に放水し、突入を図る機動隊員ら 読売新聞オンラインより


人質を無事に救出し、犯人は全員逮捕。一方で、内田警視、高見警部2名の警察官が殉職した。
事件が収束し、現場を引き上げる佐々氏に、残酷な記者の声が届く。

佐々さん、内田さんや高見さんを死なせてしまって、今はどんなお気持ちですか。コメントを。

心の重い凱旋だった。
警察庁に戻ってみると嫌な噂が流れている。

わずか5人の鼠族のために1500人の警察官が10日もかかって、しかも殉職者2人、負傷者24人も出して、よくオメオメと帰って来れるな、誰も辞表を出すのはおらんのか。

佐々氏は辞表を出す決心をした。
自宅に帰って、ねぎらう妻に警察を辞めると告げて、ベッドにもぐり込み深い眠りにつく。
やがて、妻からの呼びかけて目を覚ますと、後藤田正晴長官から電話だという。
さてはお叱りの電話かと、ふてくされた声で電話に出た。

佐々君か?あのなあ、いろいろ言うとる奴はおるが、だ、君をおいてあれだけやれる奴はおらんかった。
ようやってくれた。
お礼を言います。
御苦労様でした。
疲れたろう。
ゆっくり眠ってくれ。


佐々氏は男泣きに泣いた。

 

image

佐々淳行 NEWSポストセブンWebサイトより


私にとっても殉職者2名を出してしまったという悔いは、生涯担わなければならない指揮官の十字架である。
今一度いまはあまり評価されない男たちの勇気と犠牲的精神の尊さを見直すべき時がきているのではないだろうか。


と語った佐々淳行氏にとって、あの瞬間こそが人生であったのではなかったか。


◾️ 戦場は遥かになりて〜ある籠城事件にまつわる雑話〜


***

たとえば、雪印乳業初代社長の佐藤貢氏(1898〜1999)にとっては「八雲の脱粉事件」がそうであっただろう。

1955(昭和30)年3月1日。
学校給食にだされた脱脂粉乳により、東京都の小学生1,936人が、相次いで食中毒の症状を起こす。

 


まっさきに脱脂粉乳が疑われたが、翌日、製造元の雪印乳業は会見で因果関係を否定した。



しかし、翌々日、東京都は脱脂粉乳から溶血性ブドウ球菌を検出する。


 

すると雪印乳業は、ただちに自社製品の落ち度を認めたのだ。

当時の社長であった佐藤氏は、一分一秒を争うように即座に販売停止と全量回収を指示する。


一方で、新聞各紙に謝罪広告を出し、社長自ら原因工場に駆けつけて調査を始めたのだ。



同時に、会社の総力をあげて



 

被害者や取引先、酪農家などへのおわび行脚

全工場で再点検
衛生管理部門、

検査部門の独立化
検査網のトリプルチェック化



 

などの対策を突貫でおこなった。



 

まだある。


佐藤社長は、その後の衛生管理に対しても一切の妥協を許さず、工場従業員は全員丸刈りとした。


そして、酒やタバコも、味覚を麻痺させるとして禁止。


社長自身、頭をつるつるに剃り上げたという。
いまならできることではないかもしれない。



間髪を入れない徹底したクライシスマネジメントだった。



 

はじめは批判的な論調だったマスコミは、雪印の迅速で真摯な対応を目の当たりにして、徐々に論調を変えていったのである。


やがて全国から激励の電話や手紙が雪印へ寄せられるようになった。


雪印乳業のあのクライシスマネジメントは単なるパフォーマンスではなかった。

その証拠に、この年から毎年入社式で新入社員にあるものが配られるようになった。

全社員に告ぐ

という佐藤社長のメッセージだった。

 

image

雪印乳業初代社長・佐藤貢 ウェブマガジンカムイミンタラより


そのなかの一節にいう。

信用を得るには永年の歳月を要するが、これを失墜するのは実に一瞬である。
しかして信用は金銭では買うことはできない。
これを取戻すためには今までに倍した努力が集積されなければならないのである。


信用を得るには永年の歳月を要するが、これを失墜するのは実に一瞬である。

佐藤社長は、おそらく万死に値するという悔恨の念にさいなまれながら、しかし、冷静に懸命に誠実に、ひょっとすると自分の一生はいまこの時のためにあると思い至って、1955年3月の危機対応にあたったのではあるまいか。

この「全社員に告ぐ」は30年以上、雪印の社員に配られ続けた。

私の想像が正しければ、佐藤貢氏にはあの瞬間こそが自分の人生であったはずである。


◾️そして教訓は風化する〜最善のクライシスマネジメント、最悪の記者会見〜


***

高田屋嘉兵衛
間宮林蔵
佐々淳行
佐藤貢

こう書いていくにつれ、気がついたことがひとつある。
いずれの人も、大きな危機に見舞われていることである。災難に襲われていることである。

人は、危機や災難に陥って、あがき、もがき、必死に這いあがり、光を見出したとき、あの瞬間こそが私の人生だったと思うのだろう。


だから、総理大臣になることも、大企業の社長になることも、富や栄誉を手にすることもこの話とは関係がない。

人生はつづく。
だれにでも危機や災難はやってくるだろう。
だからこそ、だれにでも「大将、ウラァ」と叫ぶような、その瞬間があるにちがいないのである。