天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

もしも、のことである。

私の父が住んでいる土地はブロック塀で囲まれていた。
その土地を購入したときのいきさつがあって、父の土地がブロック塀の外側に10坪くらいはみ出していた。
そこを隣家の主人がコンクリートをうって駐車場として使っていた。
20年が過ぎた頃だろうか。
父が亡くなり、私が土地を相続した。

そのとき私は、ブロック塀の外側の隣家の駐車場の一部が、自分の土地であることに気づいた。
隣家の主人に問いただすと、

民法162条により、その土地はわたしのものです。

と、いう。
私はびっくりした。
私は納得がいかず、訴訟を起こそうとしている。

冒頭あるように、以上はフィクションである。

本稿では、源頼朝のいる、ある風景を書きたいがためにまずこのことを書いた。

この隣家の主人が、根拠にしているのは

20年間、みずから所有の意思をもって他人の物を平穏かつ公然に占有した者は、その物の所有権を取得する

という、民法162条1項である。

実はこの法律、そうとう古くからある。

「20年占有していれば自分の土地」というルールは、なんと1232(貞永元)年に制定された御成敗式目にさかのぼることができる。

日本の民法の祖型が800年前にあるとは驚きでしかない。

 

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御成敗式目 コトバンクウェブサイトより


時代をさらに200年ほどさかのぼらせてみよう。
時代は平安時代中期。
私は関東平野の一隅に住んでいるが、その頃の関東は当然のことながらいまとは別世界である。

広大な原生林
湿地
入り組んだ河川

そして、台地になるとそこは、

武蔵野は尽きぬ ながめて入るよりも
出づるを待つべき 月の影かな

と古歌にうたわれたように、月が昇るのも沈むのも草の中の、見わたすかぎりの未開拓の原野だった。
原野には、シカやイノシシ、タヌキやキツネ、アナグマやイタチ、果てはオオカミまでが棲息していた。

むろん人もいた。

人は未開の原野を耕し、田畑が少しずつ増え、荒野の中にパッチワーク状に人里と耕作地が広がっていった。

未開の原野を彼らは少しずつ開拓し、農具や肥料などのイノベーションも進み、しだいに農地が広がり収穫も増えていった。

この時代の庶民(農民)たちは、聖徳太子の憲法十七条も儒教も知らない。
和も、礼も、信も、知るよしもない。
そういう意味では十分に我執我欲という獣性を宿していた。

未開拓の土地は、無主の地だ。
初めはどこにでもあった無主の地が、誰かの耕作地となり、やがてぶつかり合って、だんだんおれのだ、おれのだと取りあいになって戦いが起きる。
戦いに勝つために農民たちは武装した。
武士の誕生である。

果然、強い者が勝つ。
そうすると弱い者を家来にする。
こんど別の強いのと戦うときには、家来になった者を連れて行って、いっしょに戦う。
そして勝てば、直ちに家来に褒美を与える。

褒美とは土地のことだ。
もらった人は耕地面積が増える。
収入が増える。
モチベーションがあがる。
また手柄を立てようとして懸命に戦う。

平安時代の武士とは、自衛の軍備を持つ農場主であり、家の子・郎党とはその家来であり、兵力であった。

たとえば関東平野には、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏など坂東八平氏といわれた武士たちがいた。

しかし、彼らの勢力範囲の境界で重なり合ってしまえば、武力に訴えるしかない。
中央政府は何もしてはくれないのだから。
武士にとって、現世は決して居心地のよいものではなかったのである。

敵は、まだほかにもいる。

平安時代に入ってしばらくすると、京の公家や有力寺社などが、これらの武士の土地を横領しはじめたのだ。
これらの権力者どもは、地方政府にわたりをつけて広大な土地を開墾する権利を手に入れた。

律令制とは、その点おかしなもので、せっかく切り拓いた土地の所有権が、その開拓者である武士やその子孫のものにならなかったのだ。

おかしいではないか。

と、政府に訴えようにも、地方の首長や役人たちは、その権力者たち(藤原摂関家などの大貴族、大寺社)の味方だ。
受けつけてもらえない。

仕方がない。

所有がままならぬのなら、せめてその管理人になるほかない。

開発人たちは、その農場を京の公家や有力社寺に献上し、ひきさがってその管理人となることで、安堵された。(略)
法的な持ち主である京の公家から、いつ、
「お前の面が気に入らない」
と、いわれるかもしれない。
そうなれば、管理人であることから追い出される。公家は、その人物の伯父や従弟などに、跡目を継がせてしまう。鶴の一声だった。このため管理人たちはつねに京に対しておびえていた。
(司馬遼太郎『街道をゆくー三浦半島記ー』より)

身を粉にして原野を開拓し財を成しても、境界争いに負ければすべてを失うし、公家どもが跡目を叔父に指名すればそれはそれですべてを失う。
なんと不安定な人生であることか。

彼ら武士たちは、平たくいえば、農場主とその使用人だ。
きわめて安直にいえば、彼ら武士たちは、

こんな生活はもうイヤだ!

と言って、現状変更を強烈に求めていた。
そこで、目に止まったのが伊豆の蛭ヶ小島で流人となっていた源頼朝だった。

 

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『後三年合戦絵詞』の騎馬武者 Wikipediaより


司馬遼太郎は、『街道をゆくー三浦半島記ー』のなかで言っている。

頼朝には、存念があった

と。
存念は2つあった。


大きくは律令制国家から武士団の利益をまもり、小さくは武士団相互の紛争を公平に裁くということである。

前者について現状では、土地を開拓した者に所有権があるということにならないということだ。

律令制国家から武士たちの利益をまもることについて、頼朝は守護・地頭の任命権を得ていた。

平家を滅ぼして約半年後、義経追討を理由にして後白河法皇に強迫して得た果実であった。
これによって、実質的に全国的な警察権と徴税権を掌握することになった。
公家がもっていた人事権と土地管理権を頼朝が奪ったのである。


後者すなわち武士団相互の紛争を公平に裁くことについて現状では、土地の境界や相続の係争を決裁してくれる者がいないということだ。
この不利益を解消しなければならない。

そのためには、頼朝は征夷大将軍にならねばならなかった。

この職には、辺境の政治について専決権がゆるされるのである。
その職を得ることは、すでに一部認められていた武士たちの権利を、組織として補強し永続させるために絶対に必要だった。


後白河法皇は、頼朝の狙いを熟知していた。

ゆえに、法皇の眼の黒いうちは、頼朝を征夷大将軍に任ずることをしなかった。

そのかわり右近衛大将に任じている。この職は、武官として最高の地位である。
右近衛大将は、天皇の親衛軍の司令官で、実態は儀仗隊の隊長のようなもので、名門貴族の名誉職といったところだ。

すべてをわかっていて、こんな芸当をする法皇の人の悪さであろう。

頼朝はすぐに右近衛大将を辞している。

頼朝はしびれを切らしたのだろう。
法皇に〝意地悪〟をされて右近衛大将に任ぜられ、失意のうちにこれを返上して鎌倉へ帰ると、それまであくまでも頼朝の私的な機関に過ぎなかった

侍所
政所
問注所

を、正式に鎌倉幕府(まだ朝廷からは認められていないが)の機関としたのだ。

結果として、頼朝は後白河法皇という障害がなくなったあと、征夷大将軍の職を得ている。
1192(建久3)7月のことである。

 

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木造源頼朝坐像 Wikipediaより


私が本稿を書き始めた理由は、「20年占有していれば自分の土地」であるという民法の源流が御成敗式目であったという驚きによる。

しかし本当は、さらにその原点となる光景を書きたいがためであった。

ふたたび『街道をゆくー三浦半島記ー』による。

あるとき、頼朝屋敷であつまりがあった。
頼朝を上にして諸将が序列に順ってすわっていた。
一人の武士が、どういう事情からか、自分の幼い嫡子を横にすわらせていた。

その少童の席は、来着が遅れている某の席だった。
やがて某がやってきて、背後から無言で少童を抱きかかえ、他に置き、自分がすわるべきその場所にすわった。
少童がそれをうらみ、某の前に立ち、石でもってその額を力まかせに打った。

某の額が割れ、血が滴った。
少童の父親はその子を連れて去り、打たれた某も、そのまま辞して屋敷にこもった。


この当時の武士は、粗野で勇猛で、人一倍自尊心がつよい。

この理不尽な屈辱に、某とその一族は命を懸けて戦うであろう。

頼朝以前なら、双方党類をあつめて合戦になるところだった。

が、そうはならなかった。

しかし双方、頼朝の裁きにゆだねた。
頼朝は双方に使いを出し、双方の言い分をきき、自分の意見として、打たれた某に公事(裁判)を申し立てよ、といった。
某は、頼朝のそのことだけで十分に得心し、
「なにぶん、こどものことですから」
と、事を穏便にすませた。


この光景は、いつのことだったろう。

このときの頼朝の調停の意義は大きい。

それまでなら双方が血を流して、場合によっては滅亡を賭して解決していたものを、これを契機に法理によって解決するようになったのだ。

極論をすれば、頼朝は、多くの某のような人のために征夷大将軍になる必要があったのである。


某の場合はいわば示談で済んだが、公事(裁判)に及んだ場合は、それを問注所という役所が受けた。
当初、問注所は頼朝の邸内の東西にある小さな建物にあった。
問注所とは、武士たちの訴訟について審問をおこない、当事者たちを対決させる場所である。

のちに三善康信という都から下ってきた公家あがりの男が長官に任じられたが、問注所と名のつく前はこのように頼朝みずからが親裁していたと思われる。

 

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問注所旧蹟碑(鎌倉市) Wikipediaより


それでもかなり晩年になるまで、頼朝は裁判の場に立ち会ってみずから裁定をしていたようだ。
それは『吾妻鏡』という幕府の資料にも残っている。

1192(建久3)年11月25日というから、頼朝が将軍になって4ヶ月がたった頃のことだ。
鎌倉の御所で熊谷直実と叔父の久下直光との所領争いの裁判が開かれた。

以前、戦功によって、熊谷郷の土地は直実のものとされたものの、結審には至らなかった。
つまり、再審にあたる裁判であり、いわば頼朝は最高裁の裁判長の立場だ。

頼朝は直々にこの席に臨んで、細かく直実に質問した。
直実は武勇にかけては一騎当千の強者だったが、弁舌の才に乏しく論理的な会話が出来なかった。
頼朝としても納得できないことが多過ぎた。
応答している間にも、直実の言うことは、筋が通らなくなってきた。

直実は、ついに逆ギレ。
あろうことかとうとう直実は頼朝に対して突然怒鳴り出して、こう言ったという。

御所さまお気に入りの梶原景時がわが叔父をひいきにするから、こういうことになるんだ!
ああ、御所さまはわが叔父に有利な判決をなさるに違いないのだ。
こうなりゃ、証拠の文書なんかなんの役にも立たぬわい!


怒りに任せ訴訟文書をわしづかみにするや庭に投げ捨てると、控室に戻るなり髻を切って飛び出してしまったのだ。

御所中は大騒ぎになり、頼朝も驚き慌てて後を追わせた。
直実はこのあと、鎌倉にも故郷にも戻らず京に上り、僧侶となってしまった。

 

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熊谷直実銅像 熊谷商工会議所ウェブサイトより


将軍に逆ギレする熊谷直実の武骨さも見事(?)だが、頼朝の心証一つで結果が決まる不安定さは親裁というものの限界だろう。
その後、訴訟件数は増加し、頼朝親裁は物理的に不可能になり、問注所の長官(執事)が裁定するようになった。

これは、

文書などの証拠の正当性
常識や慣習など社会の道理

を基準とする裁定の合理性を武士たちが理解し受容したことにほかならない。

さて、頼朝が死に息子の頼家が将軍となった。弱冠18歳の若者だ。
彼は、むかしの父を真似たのか、ただ手にした権力を行使してみたかったのか、問注所とは別に親裁をやり始めた。

頼家やその取り巻きに近い御家人たちが、自分に有利な判決を得たいために問注所でなく頼家に直訴したと思える。
そしてついに、御家人たちが看過できないゆゆしき事態が起きた。

以下は、比較的有名な話だ。

ある時、ある御家人の間で複雑な所領争いが起きた。
問注所執事が頼家のところへやってきて、その土地の境界線が描かれた地図を持参し、裁決を仰いでいただきたいという。

本来であれば、双方の主張や証拠を吟味し、過去の経緯を調査した上で判断をくだすのが、問注所執事の期待するところであり、この場合の正解でもあった。

頼家はどうしたか。

頼家は、地図を見るなり筆を取り、地図の真ん中に墨でさっと一本の線を引き、こう言い放った。

広い狭いは運次第だ。今後はこの線を境にせよ。

そういって一方的に裁判を終えてしまったのである。


腐っても頼家は征夷大将軍だ。
しかし、この〝事件〟のわずか数日後、北条時政や政子らは頼家から直接の裁判権を事実上奪い、有力御家人たちによる13人の合議制を敷いたのである。

これが、世にいう鎌倉殿の13人である。

頼朝の死からわずか3ヶ月後のことだった。
頼朝が征夷大将軍になる理由のひとつは御家人相互の紛争を公平に裁くことであったが、その日は、それが源氏の棟梁である必要がなくなった瞬間だった。

 

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のワンシーン スポニチアネックスウェブサイトより


その20年後、源実朝が暗殺されることによって源氏による将軍家の血流は絶え、その13年後に御成敗式目が制定されている。

御成敗式目は、日本史上はじめての武家法として、その後の室町時代や戦国時代の武家法の手本となり、江戸時代に至るまで日本の法制度に影響を与えつづけた。
人々の行動規範や道徳観を形成する上でもまた然りであった。

また、御成敗式目には、「20年占有していれば自分の土地」といった社会的な公正の基準としても現代の法制度のなかに生きている。

が、私が言いたかったのはそうしたたいそうなことではない。

もし、源頼朝という人がいなければ、石で額を割られた御家人某と割った少童の親双方の一族が、どちらかが倒れるまで戦う法なき世界がつづいただろうということである。

その後、短期間で栄光は源氏から去ったが、この国の庶民の自立と法制度の起源は、頼朝に求めることができるのではないか。


畏敬の念を抱きつつ、私はそう思うのである。

【参考】
五味文彦・本郷和人『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
司馬遼太郎『街道をゆくー三浦半島記ー』(朝日文庫)
永井路子『つわものの賦』(文春文庫)