天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

昔のほうがまだマシだった。

と、元御家人はいう。

後醍醐天皇は、御家人という称号も彼らから奪った。
幕府あっての御家人だから、幕府がなくなったのだから御家人は廃止、との理屈であろう。

大名高家いつしか凡民の類と同じ。その憤りいく千万とか知らん

と『太平記』にある。

時代はちがうが、どうも明治維新後の秩禄処分や廃刀令で、きのうまでの武士の特権を奪われ、激怒するサムライたちを彷彿とさせる一節である。
明治初期には、士族の反乱が頻発したが、このときも怨嗟の声は山野に満ち満ちた。

多くの元御家人たちは、凡民になったことで、現状を冷静にかえりみたのではないか。

自分たちは、幕府政治に嫌気がさしたのではなく、北条氏に嫌気がさしただけだったのだ、と。

源頼朝にはじまる幕府政治は、在地地主である武士を構成員とする社会の要求にもっともマッチしていた体制だった。
そのようにできていた。

それに比べて、後醍醐天皇が目指した王政は現実の変化に適合していない。
それはそうだ。
律令による王政は、公地公民に合わせてつくられた政治体制だ。 
『神皇正統記』によれば、この時すでに公地公民は全体の百分の一しかなくなっていたというのだから。

鎌倉末期と現実が変わらなければ、幕府政治の必要性はつづくのである。

武士たちは、北条氏に愛想をつかし、後醍醐の呼びかけに応じて、北条氏が〝占有〟していた幕府を叩き潰してはみたものの、遅まきながら幕府政治は自分たちを保護してくれる便利なものだったのだ、と痛感したはずであった。

 

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後醍醐天皇像(清浄光寺蔵) Wikipediaより

 

なにごとにも物事にはキッカケがある。

尊氏の〝離反〟にとってのそれは、1335(建武2)年7月に起きた北条高時の遺児・時行の挙兵である。
信濃で挙兵した時行は鎌倉を占拠した。
このとき、鎌倉にいた尊氏の弟・直義は敗走している。

尊氏はこの時を待っていたのだろう。
後醍醐天皇に対して、

時行討伐の許可
総追捕使と征夷大将軍の役職を要請

を、おこなった。

しかし、後醍醐天皇はその要請を拒否し、我が子の成良親王を征夷大将軍に任じた。
後醍醐の強烈な意志表明であったろう。

尊氏は、独走する。

後醍醐に許可も得ず、無断で東に向かって進発したのだ。
憑き物のとれた武士たちも、この機会を待っていた。

足利氏は亡き源氏嫡流につぐ家柄で、身上も大きい。
武士たちは幕府再興という三分の期待は持っていただろう。
しかし、残り七分は、尊氏という勝ち馬に乗ることで得られるかもしれない、みずからの利益への欲求だったのではあるまいか。
そうでなければ彼らは将軍成良親王についていくはずだ。

『太平記』には、こうある。

京を進発した時はわずか五百騎であったが、途中で馳せ参じる者が多く、3万余騎となり、三河で弟の直義勢が合流すると5万騎となった

このことで、尊氏がいかに武士に人気があったかがよくわかる。
尊氏に対するこの人気が、武家政治に対する人気であることはいうまでもない。

 

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京都市内にひっそり建つ足利尊氏邸跡 フォートラベルウェブサイトより

 

***

これが後醍醐天皇と彼との対立の始まりで、いろいろなことがあって、この翌年には、南北朝に分かれて、日本は約60年の長きにわたって、全国の武士がいずれかに与して、抗争を続ける不毛な時代となる。

とにもかくにも尊氏は征夷大将軍となり、京の室町に幕府を開いた。

しかし、朝廷は二つに分かれたままだ。
南北朝が分かれて争っているため、武士は少し気に食わないことがあると、すぐ南朝に走った。

そうなのだ。

武士たちは自分の利害のみで動く。
そもそも国じゅうの武士たちが、欲望で黒煙を上げているような時代だったのだ。

尊氏には、賢弟の直義と有能な重臣の高師直という飛車角がいたが、尊氏その人となりは、すべての人に可愛がられて苦労なく育った人らしく、大様で物おしみの心がなく、いささか気弱でお人好しで、つまり坊ちゃんかたぎの人物にすぎない。

自分から離れてゆこうとする者には、これをつなぎ止めるために惜しみなく領地を与えた。離れてゆこうとした者は私欲で動くため、すぐに転んだ。
ただ、その副作用として、将軍家よりも広大な領地を持つ大名が多数できてしまい、この幕府は、土地も、カネも、権力も小さかった。

司馬遼太郎氏はいう。

足利将軍家は、十五代二百三十五年もつづくが、歴代のなかで後世の鑑となるような人はひとりもいない。
もっとも幕府の機能も小さかった。
室町幕府は、前時代の鎌倉幕府のように、御家人どもを推服させるような威厳はなく、また、後世の江戸幕府のように、巨大な行政機構も、財政力も持っていなかった。 


気前がよく、気弱でお人好しで、坊ちゃんかたぎの尊氏を、影でしっかり支えたのは、弟の直義だった。
尊氏は直義でもっていたといっても言い過ぎでないかもしれない。

二人は非常に仲がよかったのだが、やがて政争に巻き込まれ、いくたびか不和になった。

二人には党派がある。


尊氏に尊氏党、直義に直義党のようなものだ。
どうでもよいことだが、尊氏党には、細川頼春、仁木義長、佐々木道誉などが、直義党には、畠山国清、桃井直常、石堂頼房などがいた。

両派は権勢を争って反目し、戦さの準備をするなどして殺気立った。
争いのもとは、ひとえに私利私欲である。

こうした騒動は、尊氏と直義との権勢が、彼ら自身のものでないところに根本の原因があった。

ついには、両者は戦さとなり、直義が敗れて尊氏に降った。
尊氏はそれを受け入れた。殺したいほどの憎悪があったとは思えないが、尊氏は直義を毒殺してしまった。
そうしなければ、自分を支持している武将たちがおさまらなかったのであろう。

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大河ドラマ『太平記』の足利尊氏と弟・直義(演・高嶋政伸) NHKアーカイブスより

 

南北朝時代は、1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位して終わる。
将軍は、尊氏の孫の義満になっていた。

その後、室町幕府はその滅亡まで約二百年つづくが、ほとんどが乱世だった。
そして、政治はつねに不在であった。

政治は民(オオミタカラ)のためにあるものである。

なのに彼ら支配者たちは、私欲のためにそれを放棄したのだ。

民は生き延びるために、みずから社会をつくるしかなかったであろう。


***

本稿は、主題が南北朝時代であるから、そのあとのことは、余談になる。

とはいえ、室町幕府の不甲斐なさの行き着くさきについて、少しだけふれて終わりたい。

鎌倉幕府は護民意識をもった政府であった。そのことは、以前拙稿でふれた。

 

 

しかし、室町幕府にはその意識がまるでなかった。

たとえば、この時代が、貨幣経済が大発展した世であったにもかかわらず、貨幣の多くは明銭であり、幕府は造幣すらしなかった。
たとえば、大飢饉が起こり、各地で疫病が蔓延し、人々は飢えに苦しみ、餓死する者がでても、将軍は猿楽や酒宴に明け暮れ、何の対策もとらなかった。

幕府も含め中央・地方の支配者たちが頼みがいがないために、農民はほしいままに山野を開墾したり、海浜を開拓したりした。
水田の二毛作もスタンダードになり、施肥や水利の技術もあざやかなほどに進歩した。

室町幕府に護民意識がなかったために、農民は自立意識を持ち、みずから工夫して生産高を上げようとしたのだ。
乱世でありながら、史上最高の農業生産高を上げたのである。

農業の発展は、農村をも変えた。
まず、農民に自立の気風が興った。独立自尊といってよい。
彼らは自衛のために村社や寺を中心に結束し、寄合で合議し、ひとつの自治体を作った。

これを惣とか惣村と呼ぶ。
この惣村はときとして、十数ヶ所にもひろがって結束し、外敵にあたることもあった。

そのために、農村はつねに武装していた。
その代表を地侍と呼び、その大なる存在を国人と呼んだ。

 

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映画『七人の侍』はどこか中世の惣村を思わせる ARAB NEWSウェブサイトより

 

たとえば、三河の松平氏、土佐の長宗我部氏、近江の浅井氏、安芸の毛利氏などがそれで、やがて彼らは戦国大名(領国大名)に成長していった。

護民という政治思想があらわれるのも、戦国大名からであった。
戦国大名のハシリである北条早雲がそれである。

 

 

余談も尽きた。

日本史の上で、このおよそつまらない時代から、少なくとも2つのことを知ることができると、私は思う。

ひとつは、人というものは二百年もの間、政治をなおざりにしたまま、私利私欲を追い求め続けることが現実にあるのか、という素直な驚きである。

もうひとつは、尊氏やその盟友、部下、室町時代の支配者どもが政治をなおざりにしたことによって、人々は政治に頼らず、農村は自立して自衛のために武装し、結果として北条早雲のような民政家を生み出したという、歴史の因果のゆゆしさである。

いつの世も変わらないことなのかもしれないが、このおよそつまらない時代が、次の新しい時代の〝親〟であることに間違いあるまい。

【参考】
海音寺潮五郎『武将列伝⑵』文春文庫
海音寺潮五郎『悪人列伝⑵』文春文庫
海音寺潮五郎『覇者の条件』文春文庫
司馬遼太郎『この国のかたち⑵⑷⑸』文春文庫
司馬遼太郎『手掘り日本史』集英社文庫