この映画は夢を実現することの大切さ、夢に向かって努力することの大切さ、特に年をとってもそれを行うことの大切さを描写しているのだけれども、実際にはこの物語に表現されているように一定以上の年齢になるとそれはなかなか難しいことですね。でも、難しくても、やっぱりそれは大切なこと、そして人間が忘れてはならないこと、、そんな風にこの作品は訴えてかけてきますね。

主人公ジムの父親の「夢を追うことも結構だが、その前に自分の責任を果たせ」という言葉、このある意味では当然ともいえる言葉にジムは失望します。せっかく生涯の夢であった、メジャーリーガーになる夢に向かって挑戦するチャンスが再び訪れようとしているのに、、。

家に帰ってから妻のロリーに父親に言われたことを話すジム。でも、ロリーもまた、父親の意見に賛成するわけです。「夢を食べて生きていけない」これは確かに事実です。子供も3人もいる。妻も含めると養うべき家族は4人。そして近くの町で給料が2倍の仕事が待っている。

そしてこの作品には詳しくは描写されていませんがジムは若い時にさんざんメジャーリーガーになるための努力をしてきた。そして何度も挫折した。挫折に挫折を重ねた末に、高校の理科の先生という安定した仕事を選んだ。そして高校の野球部監督にもなった。そしてある意味平凡かもしれないが、幸せな日々を送っているわけです。妻や子供達にもめぐまれて、、。そして高校生の野球部員達からも慕われて、、。

そんなジムは野球の試合でふがいない負け方をした高校生達に説きます。「夢を持て」「あきらめるな」「夢を持たなければ、何もできない。夢に向かってしっかり努力しろ」と、、。

でも高校生達は言います。「夢をあきらめてしまったのは、監督の方じゃないんですか?」「監督こそもう一度、自分の夢に向かって努力して下さいよ」と。

このことがきっかけになって、高校生達は一生懸命練習をし、そして一生懸命試合に打ち込むようになります。そしてついに地区優勝。高校生達の夢は達成!「次は監督の番ですよ!」とジムは高校生達に励まされます。

プロのトライアウトを受けることになったジムはちょっととまどい気味ですが、スカウトのとまります。そして物語の大事な部分にさしかかります。

夢を追うことも結構だが、その前に自分の責任を果たせ」との父親の言葉。

夢を食べては生きていけない。」との妻の言葉。

確かにこれは真実です。この物語に限らず多くの人にとって真実です。これを書いている私にとっても、これを読んでいるあなたにとっても、、。

でも、妻のロリーは大事なことに気が付くのです。8才の長男ハンターの寝顔を見ているときに、子供の心の中に、父親の夢が、しっかりと子供自身の夢として生きていることに。そしてその夢が、その子がこれから長い人生を生きて行く上で非常に重要な役割を果たすであろうことに、、。

夢を持たなければ、何もできない。夢に向かってしっかり努力しろ」

このジムの言葉は人生のもう一つの真実なのです。そしてこれもこの物語に限らず多くの人にとって真実なのではないでしょうか?これを書いている私にとっても、これを読んでいるあなたにとっても、、。

そしてジムのメジャーリーグへの再挑戦が始まります。10年以上も年下の選手達と一緒になって、、。マイナーではそれなりに活躍しているジムもなかなかメジャーへの声がかかりません。

ジムは深く苦悩します。「自分は時間を無駄に過ごしている」「他で良い仕事が待っているのに、安月給で家族に迷惑をかけている」。

当然ジムは15年前もメジャーリーグへの挑戦をしていた訳だから同じような苦労を何度も何度も味わっているわけです。そのころ肩の手術も4回もしているわけです。だから、当然ながら苦労するであろうことはわかっていて、その上で再挑戦を始めたわけなのです。

また当時と違って子供も3人もいる。妻もいる。そして何よりジム自身が年をとってしまっている。だから、今回の苦労は、前回よりもより一層つらいわけです。出口の見えない苦労、だから逃げ出したくなる。そして逃げ出して、ジムの父親の言う通り、家族を養う責任を果たすことが正しいことに思えてくる。当然これは正しいことなのですが、、普通に考えるならば、、。

でも妻のロリーはジムに言います。「本当に野球が好きなら、そのことをもう少ししっかりと考えて」。「いま中途半端にあきらめたら、一生後悔するわよ」。と。

もちろん妻のロリーだって家計が苦しくなって苦労しているわけです。でもジムに頑張って欲しくて必死に支えているわけです。それとやはりジムだけではなく、息子のハンターのことが頭の中にあるから、ジムに野球を続けさせようとするのではないでしょうか。いま父親があきらめてしまったら、息子もすぐに物事をあきらめてしまうような人間になってしまうのではないか? 成功するにせよ、失敗するにせよ、父親が必死に夢に向かって努力している姿は息子の教育上とても大切なことなのではないか? こんな風にも妻のロリーは考えたのではないかと、私は思うのです。

8才の息子が家にいて、自分の父親が皆が不可能だと思っている夢をかなえるのをずっと待っている。今挑戦しなかったら、あの子になんて言えばよいの?」

ジムを再挑戦に向かわせたこの言葉が、このマイナーリーグでの苦悩の時にも生きてくるわけです。

そしてもう一つは妻ロリーのジム自身に対する言葉

本当に野球が好きなら、そのことをもう少ししっかりと考えて」

今中途半端にあきらめたら、一生後悔するわよ」

これですね。そしてジムはテレビで夢を語る自分自身の姿を見て、迷いがふっ切れます。迷いがふっ切れたジムは快投し、ついにメジャー昇格、、

メジャーのマウンドに立つジムの姿は美しすぎるくらいです。そして家族愛情。これまでジムを支えてくれた人達の喜びの姿。

この映画は実話に基づいているというところが大切な点ですね。すなわちこれは単なる映画の中のおとぎ話ではないのです。実際にジム・モリスという人物がいて、ほぼこの映画と同じような人生を送っているのです。だから、これは、夢物語ではなく、だれもが追求できる、そして挑戦できる、そういうお話なのです。

でもやっぱり、実際にこんな風にジムのように生きるのは難しい。映画ではジムの父親は、そもそも野球に興味がなかったことになっています。でも現実世界ではジムの父親もまた、マイナーリーグで野球に挑戦した経験があるらしいです。当然メジャーリーグでプレーすることを目指して。そして挫折した。挫折に挫折を重ねて苦労した。だからおそらく息子のジムには同じ苦労を味合わせたくなかったのではないでしょうか? だからこんなに野球に対して冷たい態度を取る。息子のジムを野球から遠ざけよう、遠ざけようとする。

親の感情としてはこれは理解しやすいのではないでしょうか?ジムの父親もまた野球を愛し、そして挫折した一人だったのです。

この映画は単純だけどとても大切な事を観ている者に再認識させてくれますね。

夢を追うことも結構だが、その前に自分の責任を果たせ。」「夢を食べては生きていけない。」

夢を持たなければ、何もできない。夢に向かってしっかり努力しろ。」

お互い矛盾することなのだけれども、どちらも真実なんですよねぇ、、。
人はどんな時に人を殺すのであろうか?人はどんな時に殺人鬼になるのであろうか?どんどん殺人鬼になっていく兄ジンテ。敵兵を惨殺し、そして処刑する兄ジンテ。そしてそのことに強い反発を感じる弟ジンソク。そしてジンテの婚約者ヨンシンもまた処刑される。

兄ジンテはとても家族思いの人間である。弟のことをいつも考え、そして弟のためなら靴磨きになっても後悔しない、そんな家族愛に満ちた人間である。そして戦場では弟のためなら自分は死んでもよい、弟を無事に家に帰すためなら自分は死んでもよい、そんな風に思っている人間である。

その兄ジンテが、どんどん人を殺していく。殺しに殺して、どんどん殺して、そして処刑し、処刑しようとし、仲間を見殺しにし、そして自分も殺されそうになりながら、人を殺していく。全ては弟ジンソクを生きて家に帰らせるために。弟を生きて帰らせるためには何でもする。人を殺しても構わない。仲間が死んでも仕方がない。必要があれば処刑も行う。弟のためにどんどん殺人鬼になっていく兄ジンテ。弟ジンソクの激しい反発にあいながらも。

そしてついに勲章を手にする。弟を生きて帰らせるための勲章を手にする。これまで多くの人を死に追いやったことの報賞として勲章を受け取る。家族愛のために人を殺しそして勲章を手にする。愛する家族のためなら人を殺しても仕方がない。弟を救うためなら人を処刑しても構わない。愛する家族のためなら、、、。

そしてそんなジンテにも身内が殺される時がやってくる。婚約者の処刑。救おうとしても救えない。弟ジンソクも兄の婚約者を救おうとするが救えない。考えてみれば当然のことかもしれない。自分たちも、兄ジンテだけではなく、弟ジンソクもこれまでさんざん人を殺してきたのだから。これまで家族を救うためにさんざん戦って人を殺してきた兄ジンテの悲しみ、そして絶望。愛する婚約者を殺されたことのこの深い悲しみと絶望。

そして婚約者ヨンシンの処刑につづき、ジンテはこれまでずっと可愛がって来た弟まで殺される。正確にいうと殺されたと誤解するのだが。愛する婚約者を処刑され、そして弟まで殺されたこの兄ジンテの深い悲しみ、苦しみ。そして怒り、激しい憎しみ。弟を死に追いやった大隊長を石で惨殺する兄ジンテ。憎しみと苦しみ、悲しみの中で殺さざるを得ないこの慟哭の激しさ。

「味方」に婚約者を処刑され、弟を殺されたジンテの絶望と苦悩。これまで家族を救うために、愛する家族を助けるために人を殺してきた兄ジンテの絶望。そんな彼が「敵方」に寝返ったのはある意味自然のなりゆきだろう。兄ジンテにとっては愛するものを助けるために戦った、ただそれだけなのだ。殺人も処刑も惨殺も彼にとっては別に「人殺し」でもなんでもない。愛するものを殺されないために人を殺す、ただそれを行ってきたにすぎない。

婚約者も処刑され、弟も殺された(と思っている)ジンテ。愛する全てを失ったジンテ。今度は愛する者を殺した者達を殺すために戦う。再び殺人鬼になる兄ジンテ。憎しみの中で、復讐心の中で、大隊長として愛する者を殺した者達を殺す兄ジンテ。もはやそこには心の救いなど何もない。殺すか殺されるか、愛する者を救うために殺すか、あるいは愛するものを殺されるか。

殺し殺され、処刑し処刑され、そして自らも殺人鬼となる。そこには救いなど何もない。これが戦争の現実である。救いなど何もないのだ。これは隣国の話と思ってはならない。我々もまた太平洋戦争の時に、殺し殺され、愛するもののために戦い、処刑し処刑され、愛するものを殺された。そうなのだ、人は殺し合いになれば誰でも殺人鬼になるのだ。ごく普通の人間が、家族を大切にする愛に満ちた人間が、このジンテのように、、、。

浄土真宗の経典「歎異抄」に親鸞の言葉として次のものが記されている。

「これでわかるであろう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せと私(親鸞)が言った時には、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう。(中略)。人はだれでもしかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである。」(「歎異抄」浄土真宗本願寺派(西本願寺)による現代語への正訳より引用)

そうなのだ。我々人間は、いざ戦争となれば人を殺し、また殺され、処刑し、処刑されるのだ。ごく普通の人間が。家族を愛する普通の人間が。私の祖父も戦争中招集礼状が来て、中国で戦った。つまり中国人を殺していたわけである。そんな中で自分も殺されそうになり、日本に残した家族(私の父や祖母)のことを思い、そして戦い、中国人を殺し続けた。捕虜を殺させられたこともあるそうだ。つまり、処刑である。

新約聖書には次のような一節がある。

「あなたがたも聞いているとおり『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書、第5章38節より)

これがいかに難しいことかは、聖書の他の箇所に何度も繰り返し記されているとおりである。そして聖書は以下のように続く。

「あなたがたも聞いているとおり『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」

これがいかに難しいかは、現在の世界の戦争を見ればすぐにわかるとおりである。特に上記のように説教したイエスが生まれ育ち、そして死んでいった中東のイスラエル、パレスチナの地のイエスの時代から二千年後の状況、すなわち現在の状況を見ればよくわかるとおりである。ユダヤ教徒がイスラム教徒を迫害し弾圧して爆殺し、イスラム教徒がユダヤ教徒を自爆攻撃で殺し、そしてイラクではキリスト教徒がイスラム教徒を機関銃で惨殺し、イスラム教徒がキリスト教徒を生首処刑している。これが真実である。

そんな中での救いは、戦場においても人間としての正常心をある程度失わない弟ジンソクの姿であろう。自分を生きて帰らすために自ら危険な任務につく兄ジンテの姿に戸惑いを覚えるジンソク。コ・ヨンマンの死と引換に勲章をもらって自分を除隊させようとする兄に激しく反発するジンソク。そして敵兵を無慈悲に惨殺し、処刑し、そして処刑しようとする兄の姿に苦悩を覚えるジンソク。敵兵を殺すことに躊躇するジンソク。捕虜虐待に対して自らの最大限の皮肉でもって抗議するジンソク。友人を処刑した兄に激しく怒りをぶつけるジンソク。そして、ついにジンソクは兄ジンテに対して決定的な不信感を持つにいたる。

自分を愛してくれる兄のことを憎み、「あんな奴は兄ではない」と言い切るジンソク。そして兄ジンテの母への手紙を偶然手にして読んだジンソクは兄にも人間としての愛情があることに再び気付く。

戦場で修羅となった兄を救おうとするジンソク。弟は死んだと思っている兄ジンテは自分の弟だと気付かない。兄弟で殺し合いのような状況になってしまう。内戦だから実際に親子兄弟が敵味方にわかれて殺し合った歴史的事実というのはおそらく多数あるのだろう。そしてやっと兄ジンテは自分の弟だと気付く。そして少しの間だが、人間としての感情を取り戻すことに成功する。弟を気遣う兄、「兄さん一緒に帰ろう」と泣き叫ぶ弟。そして兄は戦死する。

この映画は「外国映画」だと思って見れば本質を見誤ることになるだろう。我々日本人にも、殺し殺され、そして修羅となり殺人鬼となり、処刑し処刑された歴史があるのだから、、、。
この「笑の大学」という映画、一応題名からして喜劇なんでしょうが、やけに奥が深い映画ですね。映画の中に「笑いのない喜劇」という言葉が出てくるんですが、この映画は「笑いのない」とは言わないけれど、テーマがやけにシリアスで本当に奥が深い。「真剣な喜劇」とでも言うべきものなのかもしれないですね。

多分この映画の持つ意味は一回見ただけでは深くまで読み取れないのでは?あるいは、あまり若すぎる人が見ても、なかなか深くまでは意味が取れないのではないか、とも思います。そしておそらく私が十年後あるいは二十年後に再びこの映画を観たとしたら、そこでまた新しい発見をするのかもしれない。そんな風に思わせてくれる映画ですね。

とても題名の「笑の大学」という呼び方からは予想できない内容でした。最初はこの題名を見たときに、この映画の中で出てくる 「石川三十五右衛門」という劇のような、純粋なお笑い劇かと予測したんですが、内容は全く違っていました。でも「笑いの大事さ」ということを伝える意味では「石川三十五右衛門」もこの「笑の大学という映画」も同じなのかもしれない。そんな風に思いました。

人にはそれぞれ生き方がある。そしてこの映画の中でも向坂(さきさか)と椿の生き方は違う。さらにもっと言えば 青空貫太と向坂の生き方はもっと違う。いや生き方が違うというよりは「人はいかにあるべきか」という基本的な人間観 が違う。そしてその違いがさらに 「社会はいかにあるべきか」という社会観の違いに結びついている。青空貫太が8回も 「さるまた失敬」を行うように、向坂も同じくらいの回数この映画の中で「激怒」している。例えば、ここや、ここや、 ここ、ここ、 ここ、そしてここ、 ここでも、など。

こんなに激怒されたら周りの人はたまらない。検閲に合格する必要でもない限り、あるいは辞められない仕事でもない限り、ふつう人はこんな人からは離れていくでしょう。でも向坂には向坂なりに激怒する理由がある。

つまり向坂(さきさか)にとっては「笑いなどいらないもの」 なわけです。いや、正確に言えば映画の終わりで 「(笑いが)大好きなんだ」と言っているから、「笑いなどいらないものだった」と言うべきなのかもしれません。その代わりに「お国のため」というのは向坂にとっては非常に重要なことなんでしょうし、さらにもっと言えば「人間はもっと真面目で勤勉で努力家で強くあるべきであり、そして社会や国も強く立派であるべきであり、人は社会や国にもっと奉仕すべきものであり、人間は強い『武士』で『戦士』あるべきであり『戦士』であるためには『幸せ』は犠牲になっても仕方のないものであり、そのためには『笑い』など低俗で不要なもの」なのでしょう。いや、映画の中で向坂の心境が変化しているから、過去形で表現すべきものなのかしれません。

それに対して青空貫太のいかに対照的なことか、、。この座布団回しの場面、こんな ばかなことを公衆の面前で行うことのできるこのばかさ、 それはそれですごい。そして青空貫太は椿が言っているように 「座布団回しと『さるまた失敬』があればそれで満足な人」なんでしょう。そしてそういう人も社会の中で必要なんでしょう。ここで椿が言っているような理由で。

それに対して向坂は「そんなものはくだらない。」「次の公演で青空貫太が 座布団回しを始めたらその場で射殺する。」みたいなことを言っています。この場面は第6日目ですが、もっと前でも同じようなことを言っています。

では向坂にとって「幸せ」とは一体何なのか?向坂にとってみれば「幸せ」などおそらくあまり重要なことではおそらくない。「私は心の底から笑ったことがないが、どうにかここまで生きています」なんて言っているし、「笑い」も「幸せ」もおそらく向坂にとっては大事なことではない。では、彼はなぜ生きていけるのか?

その疑問に対する一つのヒントがこの場面だと思うんです。この心の中で制服警官になって 走り回るこのシーン、向坂は自己陶酔 の世界に見事にはまりこんでいます。ここでは心の中で制服警官になって 自己陶酔していますが、これは恐らく他の場面でもある程度は同様なのではないか、とも思います。

例えば先ほどの何度も出てくる椿を 怒鳴りつける場面。これなんかも「人を怒鳴りつけるほどのある種強い精神性を持つ自分自身の心的あり方」にある意味心の中で自己陶酔している向坂自身がいるのではないでしょうか?向坂自身は気がついていないと思うんですが、、、。あるいは「陶酔」という言い方を変えれば「倒錯」という言葉で表現できるのかもしれません。少し言葉は悪いですが、、、。もっとも心の中で制服警官になって 自己陶酔するシーンあたりから、向坂の 心の中の変化が徐々に大きくなってくるのですが、、、。

お国というのはあくまでも大日本帝国のことでなければならない」。これは向坂の、あるいは当時の日本国民の何割かの陶酔の世界だったのかもしれません。そしてその「お国のために死んできます」という「武士道」「奉仕の精神」「戦士としての人のありかた」「強い人間としてのあり方」これがおそらく向坂にとっては大事だったんでしょう。だから当時の日本国民の中には神風特攻で命を落とすことが「できる」人もいたし、そして向坂もそういう考え方や心のあり方に陶酔しきっている、いや、正確に言えば陶酔しきって「いた」わけです。ではなぜそういう風に陶酔することができるのか?

それはきっとその陶酔の中に向坂は「幸せ」を感じることができたからなのではないでしょうか?この心の中で 制服警官になって走り回るシーンのように。あるいは 「反日思想の統制の仕事」をしていた時のように。椿や青空貫太の「幸せ」とは全く違うが、このことが向坂にとっては「幸せ」だったのではないでしょうか?ちょうど向坂が「笑いというのは人それぞれですから」と言っているのと同じように「幸せというのも人それぞれ」なんでしょう。

そしてその向坂の心境の変化。この映画の中で椿との対話を通じて起こってくる向坂の心境の変化、これがこの映画の一つの大きなテーマなのではないでしょうか?笑いの大学の劇場でひとり涙を流す向坂。家に椿の書いた台本を持ち帰って 大笑いしている向坂。「君の本がもっと読みたい。君の作った舞台が見たい。もっと私を楽しましてほしいんだ。」と赤紙が届いた 椿に言う向坂。「(この笑いの世界が) 大好きなんだ」と椿に涙ぐんで言う向坂。


そして向坂は陶酔と倒錯の世界から徐々に解き放たれて生身の人間としての心を取り戻していく。検閲官向坂から人間向坂 へ徐々に生まれ変わっていく。「笑いの心」や「幸せの心」を徐々に取り戻していく。

生きて帰って来い!お国のために死ぬなんて口にするな。君は自分で書いているじゃないか。死んでいいのは、お肉のためだけだ」。涙ぐむ椿と向坂。そして出征していく椿。この場面でこの映画は終わる。

この映画は十代前半の若者が見れば「よくできた喜劇」に見えるかもしれない。そして一定年齢以上の大人が見れば「喜劇」の背後に埋め込まれた「人間ドラマ」を感じ取るだろう。60才70才くらいの年長の方が見ればどのように感じるのだろう。この映画は「喜劇」という形をとった「文学性の高い作品」だと私は思います。
この映画の前半の明るさ、そしてコミカルさと、そして後半部分の暗さ、深刻さは対照的ですね。しかし、そこに一貫して通じるものは、人間として生きる「命」のかがやきのそのすばらしさ、みずみずしさと、美しさなのではないでしょうか?

たとえどんな境遇にあっても、、、楽しい境遇にあっても、そしてつらく苦しい境遇にあっても。

主人公のグイドは底抜けに明るいですね、、前半部分は。そしてその明るさはおかしさといってもよいほどで、ある意味コメディのよう、、いやコメディそのものですね、、。

でも、その一見不真面目に見えて「この人、人生ちゃんと生きているのかな?」とも思わせるようなお笑い(?)の中にも、

ボンジョールノお姫様(こんにちはお姫様)」とかドーラに言って、異性に対する誠実さがあって、なおかつ

人を楽しませる明るさを持っている。それは彼の持っている心の明るさであり、一見「おもしろおかしく」見えるものの中に、見えにくいですが、人生誠実に、そして明るくなおかつ楽しく生きていくものがあるんですよね、、

だからこそドーラのハートを射止めたんじゃないのかな?

そして一見コミカルに見えるものの中にも、「夢」がありますよね、、例えば、「鍵があれば」ってドーラが言えば、マリア様に祈ってちゃんと鍵が出てくる。アイスクリームを食べるかどうか迷っていると、「7分後に(食べます)」って答えが返ってくる。この雨の階段にカーペットを敷くところなんかもロマンチックですよね、、。

最初はグイドに血を吸われてびっくりしていたドーラも、何度もグイドに偶然(??)に会ううちに、どんどんグイドに魅せられていきますよね。もちろんこれにはドーラが婚約者に不満を持っていたことも大きいんだけども、グイドの底抜けの明るさ、そして、その中にある「命」のかがやきとみずみずしさにひとめぼれしたってのもあるんじゃないのかな?

この映画の前半部分はおもしろおかしく楽しい喜劇なんだけども、その中にも後半の暗さを暗示するシーンがいくつか出て来ますよね。たとえばこの馬に「ユダヤの馬」と落書されるシーンとか、こっちの「障害者を粛正すれば何マルク儲かるか」なんて場面がそれですね。馬に落書するのは見ず知らずの不良ってことになっていますが、「障害者達を粛正すれば120万マルク節約できる」って言っているのは、残念なことにドーラの婚約者なんですよね。そこには人間としてのかがやきも、みずみずしさも何もない。そして残念なことに映画の後半の強制収容所に通じる「非人間性」が出てしまっているんですよね。そういうこともあったから、ドーラはお金持ちの婚約者から逃げて、グイドを選んだんじゃないのかな?

そして、新しい二人の生活。いや、息子のジョズエが生まれて3人の生活、本当に楽しそうですね。この自転車で坂を駈け降りていくシーンのこの笑顔、本当にみずみずしく生きているな~、って感じますよね、、。この笑顔DVDのジャケットにもなっていますよね。"Life is beautiful", この言葉の通り、本当に命が輝いていますよね。私はこんなにはみずみずしく輝かしくは生きていけません。だからちょっと嫉妬してしまいますね、、(笑)。

で、映画の後半ですが、急に暗い話になってしまいます。もはや絶望としか言いようのない強制収容所での生活。多くの人が殺されていきます。生きる、みずみずしく命が輝いて生きる、その正反対の極北にあるのが、戦争とその狂気、そして集団殺戮。この映画は前半と後半でものすごいコントラストを描いていますね。

でもその中でも一生懸命生きる、そして人間の愛情の心を持ってせいいっぱい生きようとするグイドの姿は変わりませんね。もちろん前半のようなお笑い話は消えてしまうのだけども、その一生懸命生き抜こうとする姿、ドーラとジョズエを守ろうとする姿、その絶望の中でも希望と愛情を失わずに生きていこうとする姿に、"Life is beautiful." という言葉の別の視点からの真実を見ることができますよね。いや、この一見別に見える2つの "Life is beautiful"は別のものではなく、その本質を堀下げてみれば、実は全く同じものなのかもしれません。映画の前半と後半で舞台の設定が著しく違うので、ちょっと違った現われ方をしていますが、本質的には同じもので、そしてそのことこそがこの映画のテーマなのではないでしょうか?

昔イタリアの劇場で見た音楽のレコードをかけて、ドーラに聴かせるグイドの姿。そしてその音楽を聴いて涙しているドーラの姿。ナチス兵の隙をみて、スピーカから自分の声で「ボンジョールノお姫様(こんにちはお姫様)」と語りかけるグイド、そして母に語りかけるジョズエ。そしてそれに聴き入っているドーラの姿。この家族は本当に愛情に満ちた家族なんだなぁ、、と思います。"Life is beautiful"まさにこの言葉がぴったりですね。

もちろんここは強制収容所だから、こんなにすばらしい話ばかりではありません。息子のジョズエは見つかったら殺される、そんな状況に追い込まれます。だから父グイドは嘘をジョズエに信じさせて救おうとします。これはみんな「楽しいゲーム」なんだと。普通の人ならそんな嘘をついても、この絶望の中、嘘をつきとおすのは難しいでしょう。でもグイドには天性の明るさと、楽しさがあります。映画の前半では過剰に見えたこの「笑い」が、この後半の暗い世界の中で家族を救うことになります。もちろん、「笑い」といっても心から笑っているのではありません。必死の作り笑いです。でも、その一生懸命がんばって生きようとする、その「命のかがやき」「命の美しさ」が家族を救うことになるのです。"Life is beautiful..."

この映画に出てくる家族のように「命」の輝いた、みずみずした、美しく愛情の深い生き方をしてみたいものですね。(もちろん殺されたいわけじゃないですが)。でも今の私にはちょっと無理かもしれませんね。そのことがこの映画が涙を誘う映画であると同時に、私にとってはちょっと嫉妬心を感じる映画にしているんですねぇ、、。
この映画の主人公である西郷1等兵は現役の兵士、しかも最前線の戦場にいる戦士であるにもかかわらずこの映画の中で訓練の時以外一発も銃弾を発砲しない。実戦でただの一発たりとも発砲しない。ここにはこの映画を作ったクリント・イーストウッド監督の強い反戦メッセージを感じ取ることができる。

西郷は言う。「こんな島アメ公にやっちまえばいいんだよ。」「いっそのことこんな島アメリカにくれてやろうぜ。そうすりゃ家に帰れる。」彼ははっきり言って戦う意識ゼロである。はっきり言えば兵士としては失格であろう。でも彼が兵士として失格であるからこそ、この映画の主人公である資格があるのだと思う。悲惨な戦争を描くことにより強い反戦メッセージを発することが目的であるこの映画において。

映画の終わりの方で、この映画のもう一人の主人公である栗原中将が西郷1等兵を「立派な軍人だ」とほめたのに対して、西郷は「私はただのパン屋であります」と答える。彼はあくまで自分が戦士であることを否定する。たとえ中将閣下の前であろうと。

召集令状が来た日、西郷は妻とおなかの子供に対して「今から言うことは誰にも言っちゃあいけないぞ。父ちゃんは生きて帰ってくるからな」と言う。召集令状を配達する人達の前では「お國のため、精一杯御奉公して参ります」と言っているが、本当はそんな気持ちは無いのである。「お國のため?」彼は戦場でもこのことについて疑問を投げかけている。

彼は兵士としては意志が弱い。戦士としては士気が低い。そしてそうであるからこそ戦争に対する疑問の意志、大東亞聖戰に対する疑問の意志、人殺しに対する疑問の意志が強く、そして必ず生きて帰ってくるという意志も強いのである。少なくともこの映画の登場人物のなかでは一番その意志がしっかりしている。

西郷は1等兵なのであるが、この映画の中では「2等兵らしさ」があちらこちらに出てくる。戦争に対するやる気のなさ、銃を扱う技術の未熟さ、戦闘の際にも実際に銃を発砲する役ではなく銃弾を補給する役になっていることなど、「2等兵らしさ」があちらこちらに出てくる。そしてさらには彼の外面的行動における「2等兵らしさ」よりも、彼の心の内面における「2等兵らしさ」、すなわち彼の心の中における兵士としての失格さ、士気の低さ、これこそがこの映画の救いになっているのである。

この映画のもう一人の主役である栗林中将はこれとは違う。彼は確かに大日本帝國の軍人としては知米派であり、リベラル派であり、穏健派、人道派であろう。しかしそれと同時に、部下たちの前にたって「天皇陛下、万歳!万歳!万歳!」を叫んでいるし、「靖んじて國に殉ずるべし」とも部下に命じて、「バンザイ突撃」の先頭に立ってもいる。

栗林中将は若き日、まだ大尉だった頃、米国に駐在していた。その際の米軍人との会話が興味深い。

米軍人「もし米国と日本が戦争になったら?」
栗林大尉「そうなれば自分の國に忠義を捧げます。私は信念に従わなければなりません。」
米軍人「それはあなた個人の信念ですか?それともあなたの国の信念ですか?」
栗林大尉「その2つは同じものなのじゃないんですか?」

栗林もやはり大日本帝國軍人なのである。そしてそれは中将として硫黄島の司令官になった時も変わりはない。「國の為忠義を尽し、この命を捧げやふと決意してゐる」。他の軍人に比べて相対的にリベラル派色、人道派色が強いとしても。

しかしそうではあったとしても栗林中将は他の軍人に比べて大日本帝國軍人らしくない一面を持っていることも確かである。だからこそ全く大日本帝國兵士らしくない西郷1等兵とも心を通わすことができるのである。

実際この映画では栗林中将に比べて、他の軍人には大日本帝國軍人らしさをより強く持っている将校も多い。例えばこの擂鉢山の防衛隊長である足立大佐など、栗林中将が「自決してはならぬ」と繰り返し命令しているにも関わらず、「武士の本懐を」と言って栗林中将の命令を無視し、部下に自決の命令書を渡す。そんなに死にたいのなら自分一人で死ねばよいのに。多くの兵士を死に追いやるその「武士の本懐」とやらに一体何の価値があるのだろうか?

西郷1等兵達の直接の上官である谷田大尉も同様である。西郷が足立大佐の自決の命令と栗林中将の撤退の命令が食い違っていることを報告しようとしても、それを無視して、部下に自決の命令を出してしまう。「天皇陛下、万歳!万歳!万歳!」を唱えながら。谷田大尉は部下の大部分が自決したのを見届けた後、自分自身も拳銃で自決する。そんなに自決したいのなら、さっさと先に自分一人で自決すればよいのに、と思うのはおそらく私だけではないだろう。そうすれば西郷1等兵の友人である野崎1等兵たちを始め、多くの兵士たちの命が助かった可能性が高いのであるから。

大日本帝國軍人らしさの極めつけは伊藤中尉である。擂鉢山から撤退してきた西郷1等兵、清水上等兵のふたりに対し、「この愚か者めが!貴様らは部隊と共に死なねばならぬのだ。この恥さらしめが。」と言い、西郷1等兵と清水上等兵を軍刀で処刑しようとする。この映画では偶然にタイミングよく現れた栗林中将の命により伊藤中尉による西郷と清水の処刑は中止されるが、これはあくまで映画だからこのような偶然のタイミングで栗林中将が現れることができるのである。実際の大東亞聖戰においては大岡昇平が「レイテ戦記」に対するNHKのドキュメント番組の中で述べていたように、大日本帝國陸海軍においては逃亡兵などに対する本物の処刑はしばしば行われていたようである。

この大日本帝國軍人らしさの極めつけであり、部下に戦死を強要し、「戦死しないのなら処刑する」とまで言う伊藤中尉が戦死せずに生き残るのは監督であるクリント・イーストウッドの最大限の皮肉であろうか?
日常の中の非日常、非日常の中の日常、そしてその中での幸せ探し、ってとこがこの映画のテーマでしょうかね、、、。出てくる人は何か特別なことをするわけではないし、また何か特別な事件が起こるわけでもない。日常的ですよねぇ。でも場所がフィンランドってのは非日常的ですよね。日本から遠く離れたフィンランド。

その遠く離れたフィンランドに3人の日本人がやってくる。みんなそれぞれ「何か」を求めて。そして日本での生活での「何か」を置き去りにして。それが何なのかはこの映画でははっきりとは描写されていないのですが、、(原作の小説には3人それぞれフィンランドに行くことになった理由が記されているらしいです)。

みんなそれぞれ変わっていかなきゃいけないですからねぇ」、「ここでなら何とかやっていけそうな気がしたんです」って主人公のサチエは言っていますよね。どうしてわざわざ遠いフィンランドまで来ることになったのかはこの映画を見ただけではわからないけど、でも彼女の中にはきっとそうする理由があるんですよね。それはミドリにしても、マサコにしても同じなんですよね。

サチエは食堂をやっていますが、ミドリとマサコは本当にぷらっと、、、ぷらっとフィンランドにくるんですよね。別になにか特別なことをするつもりでもなく、本当にぷらっと、、、。人生は旅のようなものだという言葉もありますが、この映画では本当に旅なんですよね。「何か」を探しながらの、、。その「何か」が別に特別なものでなくてもいいのだけど、、。

そしてその「異国」の地での生活。買い物に行ったり、お魚を焼いたり、おにぎりを握ったり、お肉を焼いたり、そういったある意味普通の生活。もちろん食堂だからお客さんにそれらの料理を出すんだけど、出す料理そのものは、普段の日常のありふれたもの。普通外国で日本料理というと何か「お寿司とか、日本酒とか」なにかそういういかにも「日本らしい」特別なものなのかもしれないけど、このかもめ食堂の料理は”日本人の日常食”なんですね。だからとても自然体なんですね。

その”普通の生活”の中になにか満たされていくものがある、これがこの映画のテーマなんじゃないですかね?とは言っても、最初はかもめ食堂には全然お客さんが来なくて、やっぱりサチエも少しさびしそう、、。まぁ、そういうことはある程度わかった上でフィンランドに行ったんでしょうけど、、。でも、少しずつお客さんも増えてきて、特に最初のお客さんトンミ・ヒルトネンが来たときは、とても嬉しかったんでしょうね、、。「あなたはかもめ食堂の記念すべき初めてのお客さんだから」なんて言っちゃって、、。

そして、同じように日本から来たミドリやマサコといった友達も増えてきて、だんだん楽しくなってきたんでしょうね。現地のフィンランド人とも心の交流ができてきて。

コーヒーは人に作ってもらったもの方がおいしい」

おにぎりは人に握ってもらったものの方がおいしい」

やっぱり人は一人では生きていけないんですよね。友達がいて、いろいろ話せる仲間がいて、そしてできれば家族もいて、な~んて、、、。

最初にサチエが本屋でミドリに話しかけたのも、そして「よかったらうちに泊まりませんか?」って言ったのも、本人は「ガッチャマンの歌を知っている人にわるい人はいませんからね」なんていっていますが、本当は少しさびしかったんじゃないのかな?お店にほとんど誰も来ないし、、、。やっぱり友達が欲しかったんじゃないかな?ミドリの方にしても、「地図を広げて指をさして」放浪の旅(?)に来たフィンランドでちょっとだけ寂しかったんじゃなかったんじゃないかな?だから「かもめ食堂のお手伝いをさせてください」なんて言ったりして。

この映画にでてくるフィンランド人たちの方もそれは同じで、以前同じ場所で店を出していたおじさんがぷらっとかもめ食堂に立ち寄ったのも、やっぱりある種のなつかしさや、わびしさや、寂しさみたいなものがあったからなんじゃないかな?店の外からいつも見ていたおばさんも、ご主人に逃げられてやっぱり寂しかった。

トンミ・ヒルトネンも「友達はいないのか?」と聞かれて本当かどうかわからないけど、あまりいないみたいだし(??)、なんかそういう、ちょっと寂しめの人たちがみんなで集まって、そしてワイワイ楽しく自然体にお食事ができるところ、それが「かもめ食堂」なんですよね。そしてみんなが満たされていく、お腹の中も、そして心の中も。

最後にお店がお客さんでいっぱいになり、プールの中でサチエは本当に嬉しそうですね、、、大勢の人に囲まれて、、。

マサコも探していたものが出てきたんでしょうかね。日本を出る前に最初に探していたものとは少し違うみたいですが、、、。

フィンランド人のおばさんもご主人が帰ってきて、そしてみんなの「探しもの」が何となく出てきて、そして普段のなにげない生活の中に、でもちょっとだけ日本での生活とは違う心の旅の生活の中に幸せを見つけていく、そんなほのぼのとした心の温もりのある、そんな世界なんですね。
この映画作品に出てくる人たちはみんな純心ですねぇ。そしてみんな多感ですね。みんな20才くらいの学生さんたちだから、みんな多感な時期なんですね。自分が同じくらいの年齢だった頃を考えてみても、やっぱり多感で、そして傷つきやすかった。私も、そして私の友人たちも。

でもこの作品に出てくる人はみんな一生懸命生きていますね。一生懸命恋したり、そしてそれに傷ついたり。でもやっぱり頑張ったりして。

舞台が美術大学の設定だから、よけいにみんなそういう傾向が強いのかもしれませんね。感性が敏感な人でないと、芸術はできないから、余計にそういう傾向が強いのですね。

そしてこの作品の作者がそれを素直にそのまま表現している。それがこの作品のよいところでしょうね。この作品のオリジナルの漫画は私は読んだことがないんですけど、でもこの映画単体でも、かなりいい作品になっていますね。登場人物はみんな多感でそして純心。そしてみんなそれをもてあましている。

特に一番若いはぐちゃんは一番多感で敏感。ちょっとしたことですぐに傷ついてしまうし、そして嬉し涙を流したりもする。そしてその多感さが彼女の絵にそのまま出ている。だからいいんですよねぇ。そして主人公の竹本はそんなはぐちゃんに一目ぼれしてしまう。

竹本も多感なんだけども、だけどもこの物語では「美大らしくない」って設定になっているから、多感さははぐちゃんと比べれば、少しすくない。はぐちゃんが森田に魅かれていくのも、なにかお互いの多感さが共鳴しているんでしょうね。

そして、強い多感さの共鳴の中に入っていけない竹本は寂しさを感じて、はぐちゃんに対してあまり自信が持てない。竹本も普通の若者らしく十分多感なんだけども。

山田なんかも本当に一本気。真山に「背中曲がっている」って言われるシーンがあるんだけど本当に一本気。背中はまっすぐに伸びている。山田の真山に対する想いも本当にまっすぐでそのまっすぐさがストーカーっぽくなってしまうんだけども、ふられてもふられてもあきらめない。

それは真山も同じで、やっぱり一途なところがある。自分よりだいぶ年長の女の人ならあきらめてもよさそうなのに、どうしてもあきらめられない。山田もそれがわかっているから真山の背中を押してしまう。背中を押される真山もストーカーっぽいのは山田と同じ。

人間みんな若い頃は多感な人が多いわけで、そうしていろいろな壁にぶつかって、乗り越えられなくて苦労することも多い。この映画でもはぐちゃんなんか本当に大きな壁にぶつかって、乗り越えられなくなってしまう。

多感でまっすぐだから壁にぶつかってしまう。でも、それと同時に、多感でまっすぐだから壁を乗り越えられるってのも、あるんじゃないのかな?この映画でもはぐちゃんがまっすぐだから、この最後の場面なんかで、ちゃんと壁を乗り越えている。もちろんそのためには周りの多くの人の助けが必要なんだけども。

その純粋さとまっすぐさの大事さ、そういうものをこの作品を見ていると強く感じますねぇ。

この映画は20才くらいの人たちが見れば、一番感情移入がしやすくて、共感しやすい作品なんじゃないでしょうか?多分漫画版の読者もその年代の人たちが多いのでは?でも、それと同時にある程度歳がいった人が見ても、登場人物の多感さ、まっすぐさ純粋さに魅かれて、そして自分の心の中にまだ残っているそういう多感さやまっすぐさを再認識できる、そういうすばらしい映画になっているんじゃないでしょうか。
この映画は戦いの映画であると同時に、どうやって心の平安を求めるか?ということを題材にした映画ではないだろうか。

主人公のオールグレン大尉は自らの南北戦争やネイティブ・アメリカン虐殺の経験を大きなトラウマに感じて、戦争神経症ともいうべき状態になってしまい、自棄的で酒浸りの生活になってしまっている。

そこには何の救いもなく、ただトラウマと自責の念、そして悪夢に悩ませられる苦悩の日々があるのみである。心の救いは何もない。これまで惨殺した人々、そして自分も殺されそうになった記憶。

そこへ日本に行く仕事が用意される。皮肉なことに、また反逆者を殺す仕事。オールグレン大尉はおそらく日本にくることが決まった時には、お金を得るためだけに仕事をするつもりであって、そこで自分が心の平安を得られるとは思ってもいなかっただろう。

ところが、この映画を通じて、オールグレン大尉は徐々に心の平安を得ていく。これまで得たことのなかった心の平安を、少しずつ、獲得していく。

戦いと心の平安、この2つは一見矛盾するように見えるし、確かにこの2つは矛盾する。オールグレン大尉はアメリカ内部の戦争での影響で戦争神経症になってしまったのであるし、現実世界でも、例えばイラク戦争やベトナム戦争、第二次世界大戦の帰還兵でトラウマに悩まされ続ける人は多いし、自殺してしまう人もいる。

しかし他方で、もし真の心の平安が戦いを通じてしか得られない、とするならどうだろうか?ここでいう「戦い」とは何も実際に戦場に行く、ということを意味しているのではなく、「心の内面での戦い」ということを含めて考えてみればどうだろうか?苦悩とトラウマに苦しみ続けるその先にこそ、真の心の救いがあると、もし考えるならばどうだろうか?

この場面で勝元は般若心経を唱えている。般若心経は無や空を説いた経典であり、簡単に言えば、無や空になることによって顛倒した心を離れて心の平安に達することができると説いた経典である。

ではどうすれば心を無や空にすることができるのであろうか?当然ながらこれは簡単なことではない。

般若心経よりずっと古い仏典であるスッタニパータには「煩悩の激流を渡りきり彼岸に達せよ」との言葉がある。スッタニパータは「煩悩を避けることにより彼岸に達せよ」とは説いていないし、「煩悩を無視することにより彼岸に達せよ」とも説いていない。節度ある正しい心の態度が大事だとは説いているのだが、では具体的にどうやって心の平安に達することができるかについては「煩悩の激流を渡りきり彼岸に達せよ」としか書いていない。

すなわち煩悩や苦悩をを正面から受け止めて、それに苦しみ抜き、そしてその苦悩に苦しむその先にこそ、心の平安がある。そういうことなのではないか?

この寺で勝元とオールグレンが対面する場面、勝元は既にある程度心の平安に達しているようである。般若心経を唱えている勝元も、若き頃、あるいは小さい頃は甥の飛源のように、戦で死ぬのが怖くて仕方がなかった時期があったはずである。そしておそらくその恐怖に苦しんだに違いない。しかし幾つもの戦いを経験するうちに、その苦悩に苦しみぬいた末に、ある彼岸に達したのではないか?

人はみな死ぬものである。この桜が散るように」

この悟りともいえる彼岸に達したのではないか?そして死すら受容できるようになった。

一方オールグレンの方は、勝元と出会ったときには苦悩に苦しみぬいている。そしてそれにもがき続け酒におぼれ、トラウマに苦しみ、恐れ叫んでいる。

しかし、そのことこそが、オールグレンが後になって心の平安を得る、その下地になっているのではないだろうか?苦しみに苦しみ抜き、不安におびえ、そして出会った異国の世界。オールグレンは当然ながら般若心経を聞いたこともなかっただろうし、「武士道」というものに出会ったこともなかった。そしてこの新鮮な出会いと、これまでの苦しみやトラウマが一つになって、悟りとも言える境地にオールグレンを導いたのではないだろうか?

これまで苦しみ続けトラウマに悩み続けてきたオールグレンは、勝元とその一族郎党の精神世界に魅かれていく。苦悩に苦しみ続けるオールグレンには「雑念」が多い。

勝元の息子信忠はオールグレンに言う。
「失礼だが、雑念が多い。心を無に。」

そしてオールグレンにも無の境地がだんだん見えてくる。これまでいろいろなことに悩まされ続けてきたオールグレンにも無や空の悟りが少しずつ見えてくる。

当然ながらこの映画は戦争映画である。だから最後まで戦闘シーンが続き、「悟りを開いたオールグレン」も、「無」ではいられない。なぜなら戦場では戦い続け、そして殺し続け、刀を振るい、叫び声を上げ続けていなければならないからである。

しかし、その戦いの中に、これまでの戦いとは違うものを見出している。死の受容、そして肉体的には激しい戦いであっても、心の中に見出せる「悟り」、「激しさの中の悟り」、「戦いの中の悟り」。そしてその強さと激しさ。武勇無双の強烈さ。

オールグレン大尉も勝元も、これまで幾度もの戦の経験をしてきた。そしてその戦いの戦闘的な強烈さだけではなく、その戦いの強烈さに伴う心の内面の死の不安、苦痛、恐怖、恐れおののき、その激しさ。この強い苦悩の激流を渡りきったからこそ、オールグレン大尉も勝元も平安の彼岸、無と空の境地に達することができたのかもしれない。
絶望と希望。死と生。そして生きることの意味。さらに問えば生きていること(生存していること)に一体意味があるのかという疑問。この映画のテーマはあまりにも重いのではないでしょうか? 実際この映画の中では何人もの人が死んでいきます。トミーは殺されて死に、新入りの太った受刑者は暴行で死にます。彼らは自ら死を選ぶわけではないですが、老人ブルックスは自ら死を選んで消えていきます。精神的に追い詰められて死に追いやられる、、、そこには希望など何もない、、、

「希望」、この言葉を口で言うのは簡単です。しかしそれを実際に持ち続けるのはそう簡単なことではないのではないでしょうか?今、幸せに暮らしている人でも昔は挫折と苦悩を味わったことがある人は多いでしょう。また、今、幸せに暮らしている人でも将来苦悩に苦しみ、生きていくことの意味を見出せなくなる人も多いでしょう。そして現在苦悩に苦しんでいる人はどうか?例えば終身刑で刑務所に服役している人など。いやそれに限らず失業に苦しんでいる人、病気で苦しんでいる人、家族の病気で苦しんでいる人など、、、。あるいは病気にならなくても人生に不安と苦悩をおぼえて引きこもりになってしまった人、ニートになってしまった人など、、、。そして自殺してしまう人など、、。

この映画はいろいろな人がいろいろな感想を持つことのできる奥の深い映画だと思いますが、一つの見方として、刑務所に終身刑で服役、という極端な状況を設定することによって、人間が生きることの絶望、そしてその中からわずかに見えてくる希望の光というものに焦点をあてた映画だと思います?

最後のシーンで出てくる太平洋のなんと青く見えることか、、、普段なにげなく聴いているモーツアルトの音楽のなんと美しいことか、、、

この美しさはこの映画全体では苦悩や絶望の方がより多くの部分を占めているから、その中に見えてくるかすかな希望の光が、より美しく見えるのだと思います。

アンディーの言う「希望をもつことは大事だ」という言葉。そしてレッドの言う「希望は危険だ」という言葉。私はどちらも真実だと思います。

しかし実際に刑務所に終身刑で服役している、あるいは引きこもりになってしまって一生家から出られない、などの状況になったときに、そこから希望を現実のものとして感じるのは相当難しいのではないかと思います。

この映画の主人公のアンディーは最終的には脱獄に成功するものの、そこに至るまでの苦難の数々。そして刑務所の所長の不正につきあわされることの苦痛。人が殺されていく状況に対して何もできない苦痛。そして刑務所に入って最初の2年間の 屈辱の数々。もう一人の主人公のレッドが言うようにアンディーはまさに廃人になりかかっていたのではないでしょうか?

もしこのままボグスが刑務所から追われなかったなら、、そして図書室の仕事にめぐり合わなかったなら、、、。アンディーは本当に廃人になっていたかもしれません。あるいはそういう構成で映画を作ることもできたかもしれません。無実の終身刑の中で廃人になっていくアンディーの姿をこの映画の主題にすることもできたかもしれません。実際に引きこもりになったり、刑務所で終身刑になったりして廃人同様になってしまう人も多いのだから、、、。そして自殺してしまう人も多いのだから、、、。

しかし所長の厚意により(後に所長は不正を働くのだがこの時はおそらく部分的には厚意)図書室の管理というやりがいのある仕事にめぐり合い、そしてそこから少しずつ生きる喜び、すなわち希望を取り戻していきます。銀行員だったという自分の専門性が刑務所の中でとはいえ評価され、刑務官たちからも一目置かれる存在になっていき、そしてアンディーは少し希望を取り戻していきます。

希望を少しでも取り戻したからこそ図書に予算を割いてくれという手紙を議会に毎週送ることができたわけです。もし廃人になっていたら、もし人生に絶望しか感じられなかったら、こんな希望に満ちた要請を議会にすることは不可能だったでしょう。

そして手にした本の山の中に偶然入っていたモーツアルトの音楽。それを皆に聞かせたいと思った心。しばらくの間、絶望の中にも希望を感じることのできた大勢の囚人たち。我々は普段何気なくモーツアルトの音楽を聴いていて、その中で感動や幸せを感じることも多いと思います。しかし、この時の囚人たちのように、まるで「天からの美しい声」のように感じながら心を震わせていつも聴いているわけではないですよね。囚人たちは絶望の中にあるからこそ、フィガロの結婚の中の「希望の光」をより強く感じることができるのではないでしょうか?

でもやっぱり絶望の現実に引き戻されてしまう人も多い。皮肉なことに釈放されることによって不安と絶望を感じている老人ブルックス。例えば50年間引きこもっていた人を社会に無理やり連れ出して自活させようとすることを考えてみるとその難しさがわかりやすいと思います。そしてブルックスは社会の中で居場所が見つけられず、絶望の淵に立たされ、刑務所の中にいた時よりもより強い絶望を感じ、自らの命を絶ってしまいます。ああ、なんと苦しく悲しいことでしょうか、、、。実社会でもこのようにして命を絶ってしまう人は多い。

仲間にモーツアルトを聞かせたアンディは、その一方で穴を掘りつづけます。穴を掘った先に何があるのかは当然わからない。しかし20年近く掘り続けます。そして所長の不正と殺人を機に脱獄を決意。そしてメキシコのジワタネホで「それなりに幸せなささやかな人生」を手にすることに成功します。これはある意味映画の中だからできることなのでしょう。実世界でアンディーと同じことができる人はごく少数だと思います、、、。

でも映画の中の話とはいえ、このアンディーの人生に、絶望の中の希望を感じることのできる人は多いのではないでしょうか?実際この映画でもアンディーの友人のレッドはアンディから「希望」という大きな贈り物を手にします。もしこの「希望」という贈り物を手にしていなかったら、40年間服役したレッドも50年間服役したブルックスと同じように自殺してしまっていたかもしれません。レッド自身が言ってるように、、。

そしてその最後のアンディーとの再会のシーン。太平洋のなんと青くて美しいことか、、、。「絶望の中の希望」、これは「希望」よりもはるかに美しく素晴らしいものなのかもしれません、、。
この映画は1930年代のものなのですが、お金がないと世の中で生きにくい、というのは1930年代も現代も同じですね。盲目の少女との最初の出会いのこのシーン、浮浪者チャップリンが花を買ったのに、少女はお金持ちが花を買ってくれた、と勘違いしてしまいます。チャップリンとしてはこの少女のことが個人的にちょっと気になったという以外にも、ちょっとかわいそうだから、という思いもあったから花を買ってコインを渡したのでしょうが、このコインを渡すシーンとこの最後の逆に少女が浮浪者チャップリンにコインを渡すシーンを重ねてみると、なにやら複雑なものを感じます。

最後のシーンで目が見えるようになった少女は、目の前の浮浪者チャップリンのことを自分の恩人だとは気付きません。そして多少さげすんだような表情を見せて、浮浪者チャップリンにお金を恵んであげようとします。お金がない人にお金を恵んであげるのはもちろんよいことなんですが、相手が例えば浮浪者だったとしたら、やっぱり多くの人の心には、多少なりとも上から見おろすような気持ちがあるのではないでしょうか?この映画に出てくる子供もチャップリンにいたずらをして、すなわち弱いものいじめをしているわけですが、現代に住む我々もやっぱり新宿のホームレスの人たちに対して、心の中で多少なりとも見おろしてしまうというのを本当の意味で全く行わない、というのはそれなりに難しいのではないでしょうか?

この映画のよいところは、単に恵まれない立場の人を助ける、ということにとどまっていなくて、そこに愛情があることだと思います。チャップリンは浮浪者なんだけども、目が見えなくて生活に困っている少女を何とか助けようとします。家賃の督促状が来てアパートを追い出されそうになる少女を何とか助けようとします。少女の見えない目をなんとかしてあげようとします。そこにはもちろんチャップリンがこの少女のことを個人的に気に入っているというのもあるのでしょうが、それ以外にも立場の弱い人、恵まれない立場の人、社会的弱者に対する愛情があるのだと思います。これはおそらくこの映画の中だけではなく、現実の世の中での映画監督チャップリン自身のものの考え方や、やさしさがあって、それらがあるからこそこういう映画をチャップリンが作ったのではないでしょうか?

この映画の中では目の見えない少女が貧窮しているだけではなく、チャップリン自身も浮浪者として貧窮しています。さらには億万長者と友達になりますが、彼もまた人生に絶望して心に異常をきたし、そして自殺を試みます。その億万長者もチャップリンが自殺しないように助けてあげます。そこにはチャップリンの心のやさしさがよくあらわれていると思います。

でもやっぱりお金がなくて少女を助けてあげるのは難しい。だから、少女が病気になったところをみて、これまで浮浪者をしていたチャップリンも一念発起して働きはじめます。でもやっぱりクビになってしまって、仕方がないからボクシングの試合でお金を稼ごうとしますが、これも失敗してしまいます。結局、億万長者の友達のお金で少女を助けることになります。だから、チャップリンはいろいろ努力をして、少女に愛情を注いで、助けようとするのだけども、実際に少女が貧窮から救われたのは、その億万長者のお金によって、ということにこの映画ではなってしまっています。ここらあたり、観る側としては気持ちが複雑ですね。

堀江貴文は「人の心はお金で買える」と本に書いて、世間の顰蹙を買い、逮捕されて起訴されましたが、彼の言っていることが100%間違いかというとそうとも言い切れないところが悲しいです。この映画の中でチャップリンが少女の花をバスケット全部分買ったのも億万長者のお金で買っています。そしてそのことに少女は「ご親切ありがとうございました」と言っています。また家賃が払えたのも、目が見えるようになって少女が立派な店を構えることができるようになったのもこの映画の中では億万長者のお金によってなのです。

でも大事なことはそういうことではなくて、少女の祖母が「その方はきっとお金持ちなのね」と言ったときに、少女が「ええ、でもそれ以上の方よ」と言っていることだと思うのです。やはりチャップリンに盲目の少女に対する愛情や思いやりがあるからこそ、少女の側も単に恵んでもらったと思うのではなくて、本当にすばらしい方だわ、なんて思っているのではないでしょうか?

浮浪者チャップリンは自分の生計を立てることもできないのに、病気になった少女のことを思い、がんばって仕事を始めます。少女が家賃を払えないで困っていることを思い、そして少女の目が見えないことを思い、ボクシングの試合をして何とかしようとします。結局チャップリンは少女のためにお金を稼ぐことには失敗するのだけども、そこにはしっかりと思いやりや愛情というものがある。だからこの映画は70年以上たった今でも観られ続けているのではないでしょうか?そしてその思いやりや優しさの大事さをチャップリンは表現したかったのではないでしょうか?

現実世界ではチャップリンは相当のお金持ちだったと思われますが、でも弱い立場にある人への思いやりや優しさに満ちた人だったのではないでしょうか?もしチャップリンが現代日本に生きていたと仮定して、現代日本社会が抱える問題、例えばライブドア問題や村上ファンド問題のことをどう思うのかな?なんて、ちょっと興味があります。