怒りは破壊しか生み出さない。いたわりの心は生きる力と救いを生み出す。この映画はそんなことを訴えたいのかなぁ、と感じました。

主人公のナウシカは何度も王蟲(オーム)の怒りを安らぎで静めます。他の虫やキツネリスも静めます。そういう優しい心を持った人なのです。

でも、そんなナウシカでも、自分の父親が殺された時には怒り狂って敵兵をどんどん殺してしまいます。そしてそんな自分の姿に心の底から恐怖して「憎しみにかられて何をするかかわからない。もう誰も殺したくないのに、」と不安を感じます。風の谷が虫に襲われると聞いた時には正気を失って暴れてしまいます。

人はだれでも、いや生き物はだれでも、自分が攻撃されていると感じている時には不安を感じ、そして攻撃的になります。このキツネリスのように、、。

そして攻撃によって自分を守り敵を倒して自分の生存空間を得ようとします。しかし多くの場合、その攻撃は相手をより怒らせ、相手をより攻撃的にし、さらにはその相手の攻撃が自分の不安をより大きくし、自分もより大きな怒りを持つようになり、そしてより大きな武力を望むようになります。例えばこの巨神兵のような大きな武器を求めるようになってしまいます。

そして結局殺し合いになり、その殺し合いがどんどん大規模になってどうしようもない事態を招いてしまうのです。例えばこの王蟲(オーム)の大攻撃のように。

これは実世界でも全く同じで、例えばアメリカとイスラム教徒の殺し合いもその一つだし、第二次世界大戦もそうだし、古くは関ヶ原の合戦でも十字軍でもおなじで、人間は昔から殺し合い、そして憎しみ合ってきたわけです。そこには何の救いもない。

この映画でも人々は腐海(ふかい)を自分達を脅かすものとして認識し、腐海を恐れ、腐海と戦い、腐海を焼き払うことを考えます。しかし大ババの言う通りに腐海を焼き払えば腐海の住民である王蟲の大群が怒り狂って人々を襲い、そして人々も王蟲も死に絶えてしまうのです。お互いに怒り狂いそしてみんな全滅してしまうのです。

この映画の火の7日間や巨神兵はおそらく核戦争や核兵器、さらには現代の自然を屈伏させる人間の力を暗示しているんでしょうね。人々は巨大な兵器を手にし、そしてお互い殺し合い、そして世界は絶滅寸前までになってしまった。

そして腐海が生まれた。その腐海は一見人間を脅かしているように見える。だから人々は腐海を恐れ、そして腐海と戦おうとする。でも実際のところ腐海は人々によって汚されたものを浄化する働きを持っているわけです。この汚されたものというのはもちろん人間によって汚染された自然環境であるわけですが、それと同時に「人間の汚れた心」すなわち「怒り」をも意味しているわけですね。

ナウシカはそのことに気付き、腐海の底で喜びを感じ、安らぎを得ます。でもやっぱりナウシカも人間だから怒りから逃れることはできなくて、風の谷が虫に襲われることになっていると聞いたときには正気を失ってしまいます。ちょうどナウシカの父親が殺された時に怒りの塊のようになって敵兵を次々に殺していったのと同じように、、。

でもやっぱりナウシカは優しい人間だから、殺し合い、そして怒りの無力さをよくわかっていて、王蟲の子供を助けようとします。「ごめんね、許してなんて言えないよね、ひどすぎるよね、」と涙を流し、そして王蟲の子供の怒りを静め、そして王蟲の子供の命を救います。そしてそれと同時に風の谷と人々を救うのです。風の谷の人々の命を救うだけではなく、他の多くの人々の心を怒りから救うのです。

ナウシカのこの小さい時の体験記は象徴的ですね。虫と共存し、優しい心を持って、そしていろいろな人とも共存し、安らぎに満ちた世界て生きて行く。

「殺さないで」。ナウシカのこの言葉何度この映画に出てくることでしょうか、、。人々もそして自然も王蟲も共存し、そしてみんなで幸せになっていきたい、この思いの心の底からの声なわけです。

でも人間実際生きていると小さい頃には優しい心を持った人でも大きくなったら強くなる、あるいは強くなろうとすることを覚え、そして競争し、人生を戦い続けて生きていく。どうしてもそういう風になってしまいがち、、、ナウシカもそれから完全には逃れられていない。だから敵兵達を殺したり、その後に「自分が怖い、もう誰も殺したくないのに、」とおびえたりする。

誰だって生きていれば怖いものはある。そして自分が攻撃されていると感じることもある。だからみんな戦い(別に戦争でなくても)強さを競い合い、そして場合によっては相手(自然、ビジネスでも)を屈伏させる。確かにそのことによって一時的には問題は解決することも多いのだけども、戦いによっては心は救われない。そして結局はより大きな戦いを生み出すことになってしまう。

ナウシカが心の中で求めているようにお互い共生し合う世の中に(人間同士でも、自然環境が相手でも)なりたいんだけども、それは我々人間にはなかなか難しいことなんですよねぇ、、、。これが難しいことだから、この映画が作られたんでしょうね、、
この映画は淡い感情描写がよくできていますね、、。例えばこのジーナが昔のマルコ(ポルコ)とのことを想い出す場面など、印象的ですよね。

でも、昔はマルコ(ポルコ)とジーナの間に恋愛感情的なものがあったみたいなのに、どうして ジーナはベルニーニと結婚することになったのかな?もしかしてマルコ(ポルコ)って人は愛情表現をするのが少し下手なのかもしれませんね、、、よくわからないけど、、。ポルコ(マルコ)は異性(女性)にも多分興味はあるのに、一見あまり興味がないようなそぶりを見せる。だからここでジーナに「ずるい人、、いつもそうするのね、、」なんて言われるのかな?はっきりとはわからないけど、フィオもポルコ(マルコ)のことを気に入っているみたいなのに、、、。だからジーナにフィオをあずけたのかな??でも、この場面で ポルコ(豚)はマルコ(人間)の顔に戻っているみたいだから、フィオが言っているように「キスしたら魔法がとけた 」のかもしれませんね、、

でもその後、マルコ(ポルコ)はフィオのところには会いにいかなかったみたいだから、フィオはその後どうしたのかな?ピッコロ社を継いだことは言われているけど、マルコ(ポルコ)とどうなったのかは、よくわからないですね。このジェット飛行艇でジーナの店に行くシーン、第二次世界大戦よりだいぶ後のシーンみたいですけど、マルコ(ポルコ)とどうなったかは言われていないですね。ジーナの賭けがどうなったかも秘密みたいですし、、、。

そしてこの最後の場面、ポルコ(マルコ)はやっぱり一人で空を飛んでいるみたいですね。ちょうどフィオに昔話をしているときに、「オレにはおまえはずっとそうして一人で飛んでいろ、って言われた気がしたがね、、」なんて言っていたのと同じように。フィオは「そんなはずはないわ、、ポルコはいい人だもの」って言っているけれども、、

およそ人生において、男女の間柄ってのはもっとも思い通りにならないものの一つなんじゃないでしょうかね、、、。ジーナもこんなに美人で「アドリア海の飛行艇乗りはみんなジーナに恋をする」なんて言われているのに、 三回も結婚したけど、みんな夫がしんでしまって終わってしまった。「もう涙も枯れちゃった」なんて言っているけど、これはベンガルの奥地で三人目の夫がなくなったことだけを思っていっているのではないのではないんでしょうかね。ベルニーニは戦死し、もう一人は大西洋に消えてしまって、だから「飛行艇乗りはみんなばかなんだから、、」なんて言っている。そしてマルコ(ポルコ)とも昔はこんな楽しい経験があったのに、結局うまくいかなかった。これはマルコ(ポルコ)から見ても結局同じで、ジーナのことを気に入っていたのに、結局 自分がベルニーニとジーナの結婚式の立会人になってしまう。そしてそのベルニーニも結婚の二日後に空に散ってしまって、飛行機の雲に吸い込まれてしまう。

この映画では多分フィオってのは昔のジーナのことを暗に表現しているのではないのでしょうか?ジーナの少女だったころを表現している人物がフィオなんじゃないでしょうか?こういう風に若くて 元気で明るい女の子だった。そしてジーナもフィオの将来の姿を表現しているんじゃないのかな?だからフィオはジーナとよい友達になって、そして毎年夏にジーナのホテルに遊びにくる。

でもマルコ(ポルコ)も異性が自分のことを気に入ってくれていることに結構恥ずかし屋だったり、あるいは少し鈍感なのかもしれませんね。カーチスに「ジーナはてめえのことに惚れているんだ」といわれても「きたねえデマ飛ばしやがって」なんていっているし、少し鈍感なのかも、、??あまりにも異性にもてるから???あるいはずっと一人で飛んでいたいから???だからマルコ(ポルコ)はいくつになっても独身のまま。でもきっとそうしていたいんでしょう。昔は戦争とかに行っていたマルコ(ポルコ)もそういう世間とのかかわりを少し離れたいのかも、、、。だからいつも一人で飛んでいる。ジーナだって、フィオだって、その気になれば手に入るのに、、、。

カーチスに「ジーナかフィオかどっちかにしろ」なんて言われちゃったりして、、。でもやっぱりポルコ(マルコ)は一人で空を飛んでいたい。だから異性とパートナーになったり、パイロットの腕をいかして空軍に戻ったりしない。そして一人で飛んでいる.。 フィオとふたりで飛んでいるのも楽しそうなのに、、、。

フィオに惚れられそうになりかかったときに、「こいつを堅気の世界にもどしてやってくれ」なんていうのも、やっぱり一人でいたいから、、、多分、、。

こういうのって、女の人から見ると、少しずるく感じるのかな?だからジーナにも「ずるい人、、いつもそうするのね、、」なんていわれてしまう。でもマルコ(ポルコ)はやっぱり一人で飛んでいたい。なぜなら多分昔はそうじゃなかったから、、、。第一次世界大戦のころはマルコ(ポルコ)も 大尉として必死に戦争で戦って、そして 生死の境をさまよって、空中に 飛行機の残骸の雲まで見た。もう少しで天国に行ってしまうところだった。そしてジーナとの関係も多分今とは違っていた。この映画には描写されていないけど、多分マルコ(ポルコ)は本気でジーナのことを好きだった。戦死してしまったベルニーニのことも含めて三角関係とか、四角関係とか、多分いろいろあった。そしてジーナが恋に破れたのと同じように、マルコ(ポルコ)も恋に破れ、そして戦場であの世にも行きかかってしまった。だから、やっぱり人間の世界の色々とした出来事には嫌気がさしてしまった。だから豚になってしまった。

この映画って、多分一回観ただけではよくわからない映画だと思います。それだけ感情描写が微妙でそして淡い。やっぱりこういうのって日本人的な描写の仕方なのかな?映画の舞台はイタリアなんだけども、、、。