この映画は1930年代のものなのですが、お金がないと世の中で生きにくい、というのは1930年代も現代も同じですね。盲目の少女との
最初の出会いのこのシーン、浮浪者チャップリンが花を買ったのに、少女はお金持ちが花を買ってくれた、と勘違いしてしまいます。チャップリンとしてはこの少女のことが個人的にちょっと気になったという以外にも、ちょっとかわいそうだから、という思いもあったから花を買ってコインを渡したのでしょうが、
このコインを渡すシーンとこの最後の
逆に少女が浮浪者チャップリンにコインを渡すシーンを重ねてみると、なにやら複雑なものを感じます。
最後のシーンで
目が見えるようになった少女は、
目の前の浮浪者チャップリンのことを自分の恩人だとは気付きません。そして
多少さげすんだような表情を見せて、浮浪者チャップリンに
お金を恵んであげようとします。お金がない人にお金を恵んであげるのはもちろんよいことなんですが、相手が例えば浮浪者だったとしたら、やっぱり多くの人の心には、多少なりとも上から見おろすような気持ちがあるのではないでしょうか?この映画に出てくる子供もチャップリンに
いたずら
をして、すなわち弱いものいじめをしているわけですが、現代に住む我々もやっぱり新宿のホームレスの人たちに対して、心の中で多少なりとも見おろしてしまうというのを本当の意味で全く行わない、というのはそれなりに難しいのではないでしょうか?
この映画のよいところは、単に恵まれない立場の人を助ける、ということにとどまっていなくて、そこに愛情があることだと思います。チャップリンは浮浪者なんだけども、目が見えなくて
生活に困っている少女を何とか助けようとします。
家賃の督促状が来てアパートを追い出されそうになる少女を何とか助けようとします。
少女の見えない目をなんとかしてあげようとします。そこにはもちろんチャップリンがこの少女のことを個人的に気に入っているというのもあるのでしょうが、それ以外にも立場の弱い人、恵まれない立場の人、社会的弱者に対する愛情があるのだと思います。これはおそらくこの映画の中だけではなく、現実の世の中での映画監督チャップリン自身のものの考え方や、やさしさがあって、それらがあるからこそこういう映画をチャップリンが作ったのではないでしょうか?
この映画の中では目の見えない少女が貧窮しているだけではなく、チャップリン自身も浮浪者として貧窮しています。さらには億万長者と友達になりますが、彼もまた
人生に絶望
して心に
異常をきたし、そして
自殺を試みます。その億万長者もチャップリンが
自殺しないように助けてあげます。そこにはチャップリンの心のやさしさがよくあらわれていると思います。
でも
やっぱりお金がなくて少女を助けてあげるのは難しい。だから、
少女が病気になったところをみて、これまで浮浪者をしていたチャップリンも
一念発起して働きはじめます。でもやっぱり
クビになってしまって、仕方がないから
ボクシングの試合でお金を稼ごうとしますが、これも失敗してしまいます。結局、
億万長者の友達のお金で少女を助けることになります。だから、チャップリンはいろいろ努力をして、少女に愛情を注いで、助けようとするのだけども、実際に少女が貧窮から救われたのは、その
億万長者のお金によって、ということにこの映画ではなってしまっています。ここらあたり、観る側としては気持ちが複雑ですね。
堀江貴文は「人の心はお金で買える」と本に書いて、世間の顰蹙を買い、逮捕されて起訴されましたが、彼の言っていることが100%間違いかというとそうとも言い切れないところが悲しいです。この映画の中でチャップリンが少女の
花をバスケット全部分買ったのも億万長者のお金で買っています。そしてそのことに少女は「
ご親切ありがとうございました」と言っています。また家賃が払えたのも、
目が見えるようになって少女が立派な店を構えることができるようになったのもこの映画の中では
億万長者のお金によってなのです。
でも大事なことはそういうことではなくて、少女の祖母が「
その方はきっとお金持ちなのね」と言ったときに、少女が「
ええ、でもそれ以上の方よ」と言っていることだと思うのです。やはりチャップリンに盲目の少女に対する愛情や思いやりがあるからこそ、少女の側も単に恵んでもらったと思うのではなくて、
本当にすばらしい方だわ、なんて思っているのではないでしょうか?
浮浪者チャップリンは自分の生計を立てることもできないのに、
病気になった少女のことを思い、がんばって仕事を始めます。少女が
家賃を払えないで困っていることを思い、そして
少女の目が見えないことを思い、
ボクシングの試合をして何とかしようとします。結局チャップリンは少女のためにお金を稼ぐことには失敗するのだけども、そこにはしっかりと思いやりや愛情というものがある。だからこの映画は70年以上たった今でも観られ続けているのではないでしょうか?そしてその思いやりや優しさの大事さをチャップリンは表現したかったのではないでしょうか?
現実世界ではチャップリンは相当のお金持ちだったと思われますが、でも弱い立場にある人への思いやりや優しさに満ちた人だったのではないでしょうか?もしチャップリンが現代日本に生きていたと仮定して、現代日本社会が抱える問題、例えばライブドア問題や村上ファンド問題のことをどう思うのかな?なんて、ちょっと興味があります。
最初の出会いのこのシーン、浮浪者チャップリンが花を買ったのに、少女はお金持ちが花を買ってくれた、と勘違いしてしまいます。チャップリンとしてはこの少女のことが個人的にちょっと気になったという以外にも、ちょっとかわいそうだから、という思いもあったから花を買ってコインを渡したのでしょうが、
このコインを渡すシーンとこの最後の
逆に少女が浮浪者チャップリンにコインを渡すシーンを重ねてみると、なにやら複雑なものを感じます。最後のシーンで
目が見えるようになった少女は、
目の前の浮浪者チャップリンのことを自分の恩人だとは気付きません。そして
多少さげすんだような表情を見せて、浮浪者チャップリンに
お金を恵んであげようとします。お金がない人にお金を恵んであげるのはもちろんよいことなんですが、相手が例えば浮浪者だったとしたら、やっぱり多くの人の心には、多少なりとも上から見おろすような気持ちがあるのではないでしょうか?この映画に出てくる子供もチャップリンに
いたずら
をして、すなわち弱いものいじめをしているわけですが、現代に住む我々もやっぱり新宿のホームレスの人たちに対して、心の中で多少なりとも見おろしてしまうというのを本当の意味で全く行わない、というのはそれなりに難しいのではないでしょうか?この映画のよいところは、単に恵まれない立場の人を助ける、ということにとどまっていなくて、そこに愛情があることだと思います。チャップリンは浮浪者なんだけども、目が見えなくて
生活に困っている少女を何とか助けようとします。
家賃の督促状が来てアパートを追い出されそうになる少女を何とか助けようとします。
少女の見えない目をなんとかしてあげようとします。そこにはもちろんチャップリンがこの少女のことを個人的に気に入っているというのもあるのでしょうが、それ以外にも立場の弱い人、恵まれない立場の人、社会的弱者に対する愛情があるのだと思います。これはおそらくこの映画の中だけではなく、現実の世の中での映画監督チャップリン自身のものの考え方や、やさしさがあって、それらがあるからこそこういう映画をチャップリンが作ったのではないでしょうか?この映画の中では目の見えない少女が貧窮しているだけではなく、チャップリン自身も浮浪者として貧窮しています。さらには億万長者と友達になりますが、彼もまた
人生に絶望
して心に
異常をきたし、そして
自殺を試みます。その億万長者もチャップリンが
自殺しないように助けてあげます。そこにはチャップリンの心のやさしさがよくあらわれていると思います。でも
やっぱりお金がなくて少女を助けてあげるのは難しい。だから、
少女が病気になったところをみて、これまで浮浪者をしていたチャップリンも
一念発起して働きはじめます。でもやっぱり
クビになってしまって、仕方がないから
ボクシングの試合でお金を稼ごうとしますが、これも失敗してしまいます。結局、
億万長者の友達のお金で少女を助けることになります。だから、チャップリンはいろいろ努力をして、少女に愛情を注いで、助けようとするのだけども、実際に少女が貧窮から救われたのは、その
億万長者のお金によって、ということにこの映画ではなってしまっています。ここらあたり、観る側としては気持ちが複雑ですね。堀江貴文は「人の心はお金で買える」と本に書いて、世間の顰蹙を買い、逮捕されて起訴されましたが、彼の言っていることが100%間違いかというとそうとも言い切れないところが悲しいです。この映画の中でチャップリンが少女の
花をバスケット全部分買ったのも億万長者のお金で買っています。そしてそのことに少女は「
ご親切ありがとうございました」と言っています。また家賃が払えたのも、
目が見えるようになって少女が立派な店を構えることができるようになったのもこの映画の中では
億万長者のお金によってなのです。でも大事なことはそういうことではなくて、少女の祖母が「
その方はきっとお金持ちなのね」と言ったときに、少女が「
ええ、でもそれ以上の方よ」と言っていることだと思うのです。やはりチャップリンに盲目の少女に対する愛情や思いやりがあるからこそ、少女の側も単に恵んでもらったと思うのではなくて、
本当にすばらしい方だわ、なんて思っているのではないでしょうか?浮浪者チャップリンは自分の生計を立てることもできないのに、
病気になった少女のことを思い、がんばって仕事を始めます。少女が
家賃を払えないで困っていることを思い、そして
少女の目が見えないことを思い、
ボクシングの試合をして何とかしようとします。結局チャップリンは少女のためにお金を稼ぐことには失敗するのだけども、そこにはしっかりと思いやりや愛情というものがある。だからこの映画は70年以上たった今でも観られ続けているのではないでしょうか?そしてその思いやりや優しさの大事さをチャップリンは表現したかったのではないでしょうか?現実世界ではチャップリンは相当のお金持ちだったと思われますが、でも弱い立場にある人への思いやりや優しさに満ちた人だったのではないでしょうか?もしチャップリンが現代日本に生きていたと仮定して、現代日本社会が抱える問題、例えばライブドア問題や村上ファンド問題のことをどう思うのかな?なんて、ちょっと興味があります。