2018年2月24日(土)
the café で休憩。
展示スペースから続くブリッジを抜け、さっと視界が広がる眺めのよい空間からは、相模灘を一望。



黄金の茶室
天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したもの。
天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したもの。

次に建物の外を散策。道順がよくわからなかったので、係りの方に案内してもらいました。
本館1階から階段を降りて、ほんの20mほど先が日本庭園の入口。
本館1階から階段を降りて、ほんの20mほど先が日本庭園の入口。


唐門
もと神奈川県大磯町の三井家別邸城山荘内にあったもの。
もと神奈川県大磯町の三井家別邸城山荘内にあったもの。

片桐門 (MOA美術館のHPから)
賤ケ嶽七本槍の一人片桐且元(かたぎり かつもと)は、豊臣家の重臣として諸職を歴任しましたが、天正18年(1590)奈良、薬師寺の普請奉行をつとめました。この大門はその折の宿舎の正門で、奉行職の且元は、馬上のまま出入りしたと伝えられています。その後、奈良、慈光院に移され、ついで昭和16年神奈川県大磯町の三井家別邸城山荘内に移築されていました。
賤ケ嶽七本槍の一人片桐且元(かたぎり かつもと)は、豊臣家の重臣として諸職を歴任しましたが、天正18年(1590)奈良、薬師寺の普請奉行をつとめました。この大門はその折の宿舎の正門で、奉行職の且元は、馬上のまま出入りしたと伝えられています。その後、奈良、慈光院に移され、ついで昭和16年神奈川県大磯町の三井家別邸城山荘内に移築されていました。

光琳屋敷 (復元) (MOA美術館のHPから)
「光琳屋敷」は、尾形光琳が自ら書いた図面と、大工の仕様帖、茶室起し図(いずれも重要文化財)などに基づき、数寄屋建築研究の権威、堀口捨己博士の監修によって復元されたものです。昭和60年MOA美術館開館3周年を記念する事業として「光琳屋敷」の復元が行われました。
「光琳屋敷」は、尾形光琳が自ら書いた図面と、大工の仕様帖、茶室起し図(いずれも重要文化財)などに基づき、数寄屋建築研究の権威、堀口捨己博士の監修によって復元されたものです。昭和60年MOA美術館開館3周年を記念する事業として「光琳屋敷」の復元が行われました。
少し高くなっている茶の庭から屋敷を眺めました。



3畳の茶室は、光琳の号「青々」にちなんで「青々庵」と名付けられ、扁額は日本画家・奥村土牛氏によるものです。

アートと自然を味わいながらリゾート気分でゆっくりと…。でもなく、早々に熱海梅園に向かいました。