古代の天皇は大分長生きをしていたらしい。知らなかった。

 

 神武天皇と金鵄(金のトビ)

初代神武天皇は127歳で崩御した。127歳とは知らなかったが、これだけでもう神話の世界の出来事だと分かる。第2代綏靖天皇から第4代までは普通の年齢で亡くなっているが、第5代孝昭天皇から13代まで再びみな100歳以上で亡くなっている。

 

名前の知られている第16代応神天皇、17代仁徳天皇も100歳以上で亡くなっている。

実在していなかったとは言われているが、誰もちょっと長生き過ぎだと思わなかったのだろうか。

恐らく歴史的事実と神話を組み合わせたら天皇の年齢を100歳以上でも辻褄を合わせるしかなくなったのだろう。

 

僧慈円の「愚管抄」を読んでいて気が付いた。巻一は天皇のプロフィールから始まっているのだが、そもそも古代の天皇は仁徳天皇とか天智、天武天皇等は歴史で習うがそれ以前は全く知らない。

私のお袋は大正6年生まれで国民学校しか出ていなかったが、学校で暗記させられたらしく、神武、綏靖(すいぜい)、安寧、懿徳(いとく)…とかなり暗唱できていた。私もつられて神武、綏靖、安寧、懿徳と覚えたっけ。

 

 

この愚管抄の天皇のプロフィールで面白いのは、第2代綏靖天皇即位に際して、兄を矢で射殺していると書いていることだ。今で言えば殺人犯といえる。こんなことをよく記録にとどめたものだ。

愚管抄現代語訳は次のように書かれている。

 

第2代綏靖天皇 五十二歳で即位。御年八十四歳で崩御。

…神武天皇崩御ののち、喪に服する間、第一皇子が世の事を行うこととされたが、この皇子は二人の弟皇子に対してたちまち害心を抱くようになった。綏靖天皇(第三皇子)は兄の心を知って、中の兄に長兄を射殺してしまうようすすめたところ、中の兄は弓矢をとりながらその手がふるえて射ることができなかった。この東宮(第三皇子)はその時、中の兄の弓矢をとって、ねらいあやまたず射殺してしまわれた。事が終わってのち、中の皇子は自分は皇位をつぐべき器量ではないことを述べて弟(第三皇子)に譲ろうとし、東宮は「兄なのだから」と、互いに譲りあって四年の間、即位の事が行なわれなかった。四年の空白が過ぎ、ついに兄のすすめによって、綏靖天皇が即位されたのである。この出来事をよく考えてみると、すべての世のことわりというものは、このように歴史のはじめにみごとに示しておいてあるらしいということがわかってくる。兄を殺すというのは悪のようであるが、この場合は自分が皇位につこうとして兄を殺されたのではなく、世の常の悪を退治しようという御心からなさったことであった。それで末弟である東宮は残った兄に位につくようおすすめになったのである。(後略)

 

古代の事柄、また神話の世界の事柄とはいえ、第二代の天皇から弟が兄を殺して即位するという、もう殺人が行われていたというのはビックリではないか。

 

そして、不思議なことに後代の天皇にも悪王が何人も出て愚管抄にそれが描かれている。

第21代(ネットでは第20代)安康天皇も兄の皇子を殺害し、叔父も殺して天皇に即位している。

そしてその叔父の妻を奪って后としている。しかし即位後3年後に継子の眉輪王に殺されている。

第26代武烈天皇はもっとひどい天皇だったようだ。10歳で即位し18歳で崩御しているが、この若さで愚管抄では「ことばでいいあらわすことのできない悪王があらわれた。」と書かれており、「この天皇はこの上ない悪王で、人を殺すことを遊びとされた。」平群真鳥という大臣を側近と一緒になって殺したとのことである。まるで金正恩みたいな

 

少し時代は下って、平安時代の第57代の陽成天皇だ。

愚管抄

「この陽成天皇は9歳で位におつきになって、16歳の御年まで8年の間、昔の武烈天皇のように並大抵でない、あきれた御方であった。」

そのあきれた行状は国文学者益田勝実の「説話の世界 秘められたできごと」に書かれている。

「八八三年十一月十日、宮中も天皇の住まいである清涼殿で、ふしぎな事件が発生した。「散位従五位の下、源朝臣蔭の男、益、殿上に侍す。猝然格殺さる。禁省の事、秘なり。外人知ることなし。益は、帝の乳母従五位の下、紀の朝臣全子の生むところなり」

にわかに天皇の乳母子が格殺された。手で撃つこと。虎が獲物を撲(なぐ)り殺すように、あっ、という間に一撃ちで殺されたのだ。下手人はだれか。「禁省の事、秘なり。外人知ることなし」。史官は口を滅して語らない。

そのため、十三日の大原野の祭は取り止め。十六日の新嘗祭も取り止め。建礼門の前で大祓いを行い、内裏を清める騒ぎとなった。太政大臣藤原基経は、にわかに宮中に入って、陽成天皇側近の侍臣を追放した。…

正史が殿上の殺人を録して、しかも「禁省の事、秘なり。外人知ることなし」と身をかわす以上、事は当然陽成天皇自身に関係している。果たして3か月後、天皇は退位した。」

 

いろいろ益田勝実氏は書いているのだが、陽成天皇が乳母子つまり養育者を殴り殺したという記録は簡潔ながら、驚かされる。

そして悪い家来がいて陽成天皇に外道の変化の術(妖術か)を教えたようだ。張本人の名は滝口の武士道範(みちのり)。かの男性の逸物が消えうせる術をこの道範が極めていれば、陽成天皇にこの術を掛けて苦しみを与えて、乳母子を殴り殺すことなどさせなかっただろうに、と書いている。

その後益田勝実氏はこの滝口の武士道範の道術について書いていくのだが、それはそれなりに面白いがここでは割愛。

 

つまり、昔の天皇には変な奴がいっぱいいたってことだ。天皇による殺人のオンパレード!政争のなかで殺生をするのはやむを得ないこともあろうが、兄殺しであったり、精神的に異常であったり、は万世一系がこれでは皇室崇敬の気持ちは削がれる。

今の皇室は?ということになる。

愛子様もこういうことを勉強したんだろうか。

 

まあ、これまで何度も書いているが、秋篠宮殿下や眞子様のおかげで皇室からの呪縛から解かれたのだから良しとせねばなるまい。眞子さんに感謝!

 

(トラ注)

歴史にまつわる「なるほど」をこれから気が付いたら書いていきます。