吉村の意図は利益誘導に過ぎない。ゼロ歳児の利益をもたらす政党に投票してほしい。と維新は公費で投票を買おうと試みるのだが、それではわずかに1ないし2票しか得られない。ゼロ歳児に選挙権を与えよ、ということは当然ゼロ歳から17歳まで選挙権を与えよということになる。それだと利益誘導がうまく設計できない。

だから、維新はゼロ歳児のみ選挙権付与と言うならゼロ歳児を親が代理として投票するから2倍以上の得票を誘導できるという目算なんだろう。なんとセコイことか。民主主義の冒涜も甚だしい。

 

 

そして前にも「アタオカ吉村はん」として記事を書いたが、その時は冗談、話題作りと思っていたが冗談ではなかった。維新の衆院選の公約に取り込むという。冗談ではなく「冗談じゃねえぞ」と維新を罵倒したい。

 

 

多数決のみが民主主義の根幹と頭から決めつけているのは橋下徹だが、その弟子である吉村も多数決が欲しいのである。多数決のためならなりふり構わない、つまり、不法移民にも選挙権を与えようとするバイデン民主党と思考が同じなのだ。民主主義を否定して民主主義制度を乗っ取ることが狙いだ。

 

ゼロ歳児に選挙権を与えるのなら「死者」にも選挙権を与えよ、と当然の要求が出てきていいはずだ。

「死者」にも選挙権を与えよといったのは、英国の作家チェスタートンだ。

「我々は死者を会議に招かねばならない。古代ギリシャ人は石で投票したというが、死者には墓石で投票してもらわねばならない。」

 

なお、民俗学者柳田国男も同様なことを言っている。

「国家の政策を、ある側の注文に合わせ、一方の注文に背く場合は少なからずある。こうした場合に、多数者の利益になることが国の利益とし考えてよいというものがあるけれど、それがはたして、国民の多数の希望に合うかどうかを知ることは難しい。また、少数者の利益を無視するいわれもない。…

国家は、現在生活する国民のみを以て構成すとはいいがたし。死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も容れざるべからず。また国家は永遠のものなれば、将来生まれ出ずべき、我々の子孫も国民なり。その利益も保護せざるべからず」。

 

このチェスタートンの死者の民主主義を引きながら民主主義の在り方について、京都大の藤井聡教授は次のように書いている。

死者の民主主義:「庶民の沈黙」を前提とした政治学

藤井聡

4.死者の民主主義

チェスタトンは,20 世紀初頭に出版した「正統とは何か」という著書の中で,民主主義と保守思想とが究極的に融合されうることを主張した,次のような有名な一節を遺している.

 

  チェスタトン

伝統とは、あらゆる階級のうち最も陽の目を見ぬ階級に、つまり我らが祖先に、投票権を与えることを意味する。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いてるというだけで、今の人間が投票権を独占するなどというのは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何ものでもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の下僕であっても尊重する。それが民主主義というものだ。正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する、それが伝統だ。民主主義と伝統、この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。二つが同じ一つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。

我々は死者を会議に招かねばならない。古代ギリシャ人は石で投票したというが、死者には墓石で投票してもらわねばならない

 

この主張は、重大な含意をいくつも含んでいる。

第一に、この主張は、いわゆる「多数決的民主主義システム」の軽薄さを鋭く糾弾するものである。現代人のほとんどが当然のことと見なして疑うこともしない「単にたまたま今生きて動いてるというだけで、今の人間が投票権を独占する」という方法論が、彼に言わせれば、単なる「生者の傲慢な寡頭政治以外の何ものでもない」のである。こう考えれば、多数決的民主主義システムは、「民主主義」の理念において、中途半端な代物にしか過ぎず、民主主義者が糾弾してやまない封建主義や貴族政治等と同様の「寡頭政治」の一種にしか過ぎないのだ、と言わざるを得ないのである。

第二の重要な含意は、リベラルな民主主義思想の対極にあると目されることが多い「伝統主義」や「保守思想」は、実は、「究極的な民主主義思想」なのだという点にある。「伝統」の中には、先人達の思いや知恵がふんだんに埋め込まれている。

(作家でもあった)チェスタトンは「我々は死者を会議に招かねばならない。古代ギリシャ人は石で投票したというが、死者には墓石で投票してもらわねばならない」という全くの不可能事を主張するユーモアを通じて、「伝統」に真摯に向き合うことこそが、生者と死者の全ての人々の意見を公正に踏まえた、究極的に民主主義的な判断を導くための最善の方法であることを主張しているのである。

第三に、「死者」という究極的な「沈黙の民」に光りを当てる事で、様々な種類の「沈黙」に光りを当てる重要性を訴えかけている、という点に重大な含意を見いだすことができる。先にも道路の事例で例示したように、現実的な民主的判断の背後には、膨大な種類の「沈黙の民」が存在している。たまたまその日投票出来なかった者、たまたま行政区域の外側に居住してしまった者、たまたまその時点では未だ生まれては居なかった者、そして、たまたまその時点で死んでしまっていた者、である。これらの膨大な種類の沈黙の民の中でも、最も光りが当たらぬ人々こそ、死者達である。なぜなら、生者ならば何らかの形で文句を言うこともできるだろうし、これから生まれくる子供達もまた、今後発言する機会が与えられる可能性はある。しかし、死者達は今後一切発言することが無く、生者達に一切顧慮されないことすらしばしばある。こうした究極の沈黙の民に、もしも目を向けることが出来る“超包括的民主主義者”が存在するならば、彼は間違いなく、これから生まれくる子供達や、現在沈黙している生者達の沈黙を無視することはなかろう。すなわち、チェスタトンは、「死者の民主主義」の主張を通じて、様々な種類の「沈黙の民」に対する徹底的な配慮の必要性を訴えているのである。 言うまでもなく、発言する生者ですら多様な意見が存在している世の中で、沈黙の民全ての意見や思いをくみ取ることの困難さは想像を甚大なるものである。しかし、その困難を乗り越えて初めて、あるべき民主主義なのだとチェスタトンは主張しているのである。我々にそれをする能力など備わっていない、死者の民主主義をなす精神性を我々は所持していないのだ、と早々にあきらめるとするならば、彼が民主主義そのものを主張すること等一切正当化され得ぬものなのだと糾弾せねばならない民主主義を志すならば、沈黙の民に対する徹底的な配慮と、そして、それら多様な意見を踏まえた上で、唯一の善き決定を志向する強靭な精神性を携えねばならないのである。そうであればこそ、我々の社会の民主主義政体の成否は、死者すらも含めた「沈黙の庶民」にどの様に向き合うのか、という一点に重くのしかかっているのだと理解せねばならぬのである。

繰り返して言おう。我々は、死者を会議に招きうる程の、鋭敏な想像力と強靭な精神力を持たねばならない。そして、それを持たぬ民は民主主義を口にする資格など一切持たぬのだと冷静に認識せねばならないのである.

(引用終わり)

 

「我々は、死者を会議に招きうる程の、鋭敏な想像力と強靭な精神力を持たねばならない。」と藤井聡は述べる。吉村はんはそんな強靭な精神力はない。そもそも吉村は政治に関心があるのか?

しかし、維新は「ゼロ歳児に金をつぎ込むぞ」と公約したら、親は維新にどのくらい投票するかなというアホな想像力はあるんだ。

別に維新は子供のこと、子供将来のことを考えてゼロ歳児に選挙権を、と言っているのではない。維新の得票のみの関心しかない。つまり鎧の下の衣、という比喩があるが、維新はもろに衣(本音、悪意、悪だくみ)を前面に出して、「票をください」と若い親に媚びを売っているのだ。

浅ましい維新。これが維新の正体なんだから、吉村はんもたまにはいいことを言うなあと思うよ。

ついでに死者に選挙権を!と叫んでほしい。保守派が喜ぶと思うよ。