先日精神科医春日武彦氏の「奇想版 精神医学事典」(河出文庫)から引用して「新「なるほどメモ」その16」という記事を書いたが、今回も同書から引用。

 

 

「記憶」

 電気痙攣療法(トラ注)で通電を受けた瞬間、患者の表情は苦痛に歪む。少なくとも苦痛を感じているように見える。しかし目を覚ましたとき、脳への通電がもたらす逆行性健忘によってその苦痛は忘れ去っている。せいぜい軽い頭痛を訴える程度なのである。

 激しい苦痛を感じたとしても、それが記憶に残らないとしたら、果たしてそれは苦痛として成立し得るものなのだろうか。忌まわしい思い出、辛く不快な体験として個人の記憶に棲みつかなければ、苦痛というものは存在しないのではないか。
 言い換えれば、人間は記憶によって延々と苦しみを背負い込む。記憶こそが人間の苦しみを司っていると考えるのは間違っているだろうか。(春日武彦「奇想版 精神医学事典」より)
(引用終わり)

(トラ注)

「電気痙攣(けいれん)療法」については、この「記憶」の前の「電気ショック」の文の中で扱われている。統合失調症とてんかんの双方を一緒に病む患者はいないという経験的知識から、てんかんと同じようなけいれんを薬剤で誘発させたところ、統合失調症患者の症状が改善された。その後薬剤に代わり、電気ショック療法が開発された。戦前のことである。この療法は現在も使われているらしい。

 

この春日医師の最後の文に触発されて、これまで違和感を覚えていたある事柄に思いが至った。

それは「災害時の記憶を風化させてはならない」という言葉への違和感。そんなツライ記憶、いつまでも覚えていてどうすんのという違和感。

 

 

2年前のある新聞のコラムだが、「災害時の記憶を風化させてはならない」とか書かれている。まあワンパターンなんだが。

震災対策は記憶の風化との闘いだ。実体験のない世代へ命を守る行動を引き継いでいかなければならない。小中高生を対象に「つなぎ手」をつくる人材教育を体系的に実施できないか。地域の企業や大学も講師を派遣するなど協力できることがあるはずだ。」

(日刊工業新聞)

 

日本は災害大国だから、年がら年中日本のどこかしらで災害を記念する行事が行われ、テレビニュースで「災害時の記憶を風化させてはならない」というセリフが繰り返される。

そして、聞く側も皆そうだと違和感を覚えないようだ。

しかし、テレビニュースでこの言い古されたセリフを聞くといつもホントかねという感想を持つ。

 

もちろん震災対策を考えるのが仕事の役所は忘れちゃいかんだろうが、個人はどうなのか?辛い記憶を何時までも持っていたほうがいいのか、風化させるつまり忘れた方がいいんじゃないかと単純に思う。

犯罪の被害者なら忘れたくない(復讐心を絶やしたくない)かもしれないが、自然災害や余りにもツライ思い出は忘れたいんじやないのか?

 

そこで春日医師の文の出番だ。

忌まわしい思い出、辛く不快な体験として個人の記憶に棲みつかなければ、苦痛というものは存在しないのではないか。言い換えれば、人間は記憶によって延々と苦しみを背負い込む。記憶こそが人間の苦しみを司っていると考えるのは間違っているだろうか。」

 

「忌まわしい思い出、辛く不快な体験として個人の記憶」とは「トラウマ」であり、そんなものを持ち続けていたら、むしろその後にさまざまな精神症状を呈するに至るのではないか。

忘れられるものなら、忘れたほうがいいのだ。

 

 

それを「災害時の記憶を風化させてはならない」としつこく言い続けるのは、忘れたい人にとっては酷なささやきじゃないのか。忘れてはいけないみたいな言い方。

 

何度も言うけど、災害対策を講ずる側は忘れてしまっては困る。彼らに対して、「災害時の記憶を風化させてはならない」というセリフは何度も繰り返されるべきだろう。

しかし、様々な思いを抱く個々人、忘れたくない人もいれば忘れたい人もいる。そのような個々人にに対しては、一律に「災害時の記憶を風化させてはならない」なんてことは余りにデリカシーがなさすぎるし、ことさら言う必要はないじゃないかと思うんだが。