最近耄碌したなあと思うのは勢古浩爾76歳だ。「定年バカ」までは良かったが。

普通のサラリーマン出身なのだが、世相批判、社会批判、俗物批判等世の中を縦横に罵倒して小気味いい文章を書くのでほとんどその手の本はほとんど読んだ。その当時からバカを連呼している。

「まれに見るバカ」

「日本を滅ぼす「自分バカ」」

「この俗物が!」「ぶざまな人生」

「自分の力を信じる思想」

「思想なんかいらない生活」

 

また、承認論も面白かった。私にとって他人は「馬の骨」だが、私にとって「私」はかけがえのない人間だ。そこから生ずる諸々のずれ。これは窓口サービスやクレームを考えるうえで参考になった。

「わたしを認めよ」

「人に認められなくてもいい 不安な時代の承認論」

「なぜ、だれも私を認めないのか」

その時書いた書評。

「人に認められなくてもいい 不安な時代の承認論」読書メーター

「秀逸な人間論、日本社会論。ふつうおじさんが書いたのだけど、人間への深い洞察に満ちている。なるほどと思わせる言葉があちこちにちりばめられている。

「人間の関係は「快」のぶつかり合いであり、ゆえに「快」の調整であり、「快」の妥協である。関係の不快とは、自尊心が毀損されることの不快である。」とか。

人間のどうしようもないほどの性(さが)をよくみつめ、そして結論は「結局、自己承認は動揺していいのである。承認欲求は自然意志として確かに存在するが、意図して目指すものではない。ある行為の結果、もたらされるものである」と。」

 

そんな勢古浩爾が定年退職してから、定年後について書き始めた。(私より3歳年上だが、定年もほぼ重なる)

「定年後のリアル」とか「定年バカ」とか「無敵の老後」とか最近は「ただ生きる」など、立て続けに定年後、老後の本を書いている。それなりに売れているんだろうと思う。

定年後の最初期の本である「定年バカ」は切れがあった。定年後にあくせくするなよ、という主張だ。

なので、読書メーターに次のような書評を書いた。しかし、「続・定年バカ」はなんだか力が衰えたようで面白くなくなった。

 

「定年バカ」読書メーター

「定年のバカ」というより、「定年本を書くバカ著者」を斬る、といったほうが相応しい。多くの定年本をなで斬りにして小気味いい。余りに平凡で、通り一遍で、浅くてどうしようもない本ばかりと嘆いている。つまりは定年後についてまともに考察した本はこの世にほとんどないということだ。そういう意味でこれは初めてまともな定年本の出現といえるのではないか。

ここで取り上げられた定年バカにとっては腹の立つ書き方だろうがそんなことはお構いなし。

「何もしないよりはした方がいい」となぜ言えるのか、何もしないことは罪悪なのかと疑問を呈して、出来合いの観念に引きずられずに自分自身の意思によって好きにすればいいと説く。日本男児、定年ごときでなにオタオタしているんだと。

私自身定年後真っ盛りなので、この本に大いに勇気づけられた。定年前と後の違いは何か、私なりに考えてみた。それは手段として生きる世界にいるか、目的しかない世界に住むかの違いではないかと考えた。つまり学校から会社生活まで全てが手段であった。それが定年後に手段としての生活から解放されて戸惑っている姿なのではと。

(引用終わり)

 

衰えた勢古さんなんだけど書くものは次々と出ているようだ。暇があるからアルバイト気分なのかも。

しかし、最近余り読んでないけど面白くない。

最近の「ただ生きる」という本のネットでの解説は次のようなものだ。

「…勢古浩爾さん(75)の最新刊のタイトルが異彩を放っている。『ただ生きる』(夕日新書)。帯でも、余計なことはしない、と言い切っている。

 「私にとっての老いの楽しみとは、何ということのない、ごく一般的な普通の生活のことです」ときっぱりの勢古さん。「生きる意味や意義も、生きがいや目的も、とくに年をとってからは必要ありませんよ」

 勢古さんの一日はこんな感じだ。昼近くに起床して食事を取る。リュックを背負って帽子を被(かぶ)り、自転車で近所の図書館か喫茶店へ。歩いて行く日もある。半日外で過ごした後、きれいな夕日に出合えたらデジカメでパチリ。海外旅行は面倒なので行かないし、友達ともほとんど会わない。

「そんな気の抜けたビールのような生活をして何が面白い、という人がいるかもしれませんが、私は全然気にしません。ただ生きているだけで十分です」

 といっても、無為無気力な生き方ではなく、ほんの少しの前向きな気持ちが伴っている。まさに自分サイズの意欲と言えるだろう。「余計なことをしない。余計なことは欲しない。そして何が余計かは自分の判断」。これが「ただ生きる」の極意だ。」

(引用終わり)

 

「ただ生きる」に書かれている勢古さんの日常よりだらけている私の毎日だが、やはり本を書くなら少しは知的刺激が欲しいが、そんなものは感じられない。

そして勢古の最新刊「バカ老人たちよ!」(夕日新書)。

題名に久しぶりに「バカ」が付いていたので面白そうに思い、書店で立ち読みしたのだが、これはひどかった。まさに耄碌の極みだ。

前書きを少し。

「「バ力老人って何」――

ミもフタもない言い方で申し訳ないことである。

すこしでもミかフタをつけるとするなら、老 人バカというと老人全般がバカという意味だが、バカ老人とはあくまでもその中の一部ですよ、という意味である。

 ああよかった、じゃあおれは入らないんだと、ホッと胸をなでおろしたそこのあなた。残念ながら、たぶんあなたは入りそう。

 

そして当然、わたしも入る。

つまり一部といいながら、ほとんどの現代の老人はバカである。だからバカ老人じゃなくて、老人バカでもいいんだけどね。

というのもほんとうの賢老人を、わたしは養 老孟司以外、見たことがないのだ。もちろん市井のどこかにはいると思うのだが、わたしの身の回りにはいない。

鶴田浩二が左手を耳にあてて(懐かしい)小首をかしげ、“いまの世の中、右を向いても左を見てもバカばっかり、世の中真っ暗闇じゃござんせんか”と「傷だらけの人生」を歌ったのは一九七〇年である。 

バカばっかり、じゃなくて、正確には「ばかと阿呆のからみあい」だが、わたしの記憶のなかでは、「バカばっかり」で定着していた。

いまから五十数年前、歌に歌われるほど世の中はバカばっかりだったわけである。この歌がヒットしたことが、当時かなりの共感を得ていたとみなしていい。 

 もちろん五十年前どころか、人間の世はいつ の時代も、つねにバカばっかりである。バカばっかりとは、言葉の綾ではない。

文字通り、人間はバカである。いつの間にか、バ力老人ではなくて、バカ人間にまで拡張している(バカ老人の元はバカ人間なのだ)。

マクロとしての人間(人類)がバカであることは、いまさらいうまでもない。有史以来、人間がしでかした戦争と殺戮の歴史を見てみれば 一目瞭然である。

わたしは七十歳を超えてはじめて、人間はほ んとうにバカなのだ、ということが骨身にしみてわかったのである。

ミクロとしての人間(個々人)を見てみても、やはり右を向いても左を見ても、バカな人間の存在には事欠かない。

しかしこれには注がいる。

そうはいってもやはり個々人の人間は、圧倒的に善男善女が多い。みなさんが日々体験をしているとおりである。

そうでなければわたしたちは、日々をまともに暮らせるはずがないのである。

だが、バカの存在は強力である。善男善女の存在を帳消しにしてしまうほど、バカ人間の影響力は大きいのである。

ひとりのバカは百人の善良さを打ち消して、不快をまき散らすほどの影響があるといっていい。

人間はだれでも悪をなすことがある、とか、マザー・テレサみたいな神のような人もいる、とか、いいたてれば人間はどうとでもいうことができる。

そんなことはわかっている。わかっていてなお、議論では決着がつかないから、人間はバカであると考えておくのである。

日本人の多くは、やはり基本的かつ相対的には誠実であるといっていい。公平にみて、礼節や気遣いや謙虚さに富んだ良質な国民だと思う。

(中略)

では、なぜバカ「老人」なのか。

バ力老人といって、老人だけがバカなわけじやない。日本人の少なからぬ人間がバカなので あり、バカ老人とはそのバカ日本人のなれの果てである。つまりバカ老人は若い頃からバカだったのだね。

その最大の要因が、団塊の世代として、かつて我が世の春を謳歌した連中(わたしは全然謳歌しなかったが、わたしの世代だ)が、いまや後期高齢者として団塊老人になっていることである。

 自尊心が高い。で、威張る。反省がない。で、威張る。頭がいいと思っている。で、威張る。結果、リベラルバカになるしかなかったが、それが自慢なのだ。

リベラルバカにならないものは、反対に頭の黒い小権力者になってしまった。これがまたタチが悪かったのだ。

タイトルに「バカ」を冠する本を一番最初に書いたのは『まれに見るバカ』(洋泉社新書)である。約二十年前、二〇〇二年の出版だった。

その後、「英語バカ」や「ビジネス書大バ力」や「定年バカ」などについて書き、ここにきてついに「バカ老人」である。

集大成ではない。バカ論に集大成などないし、大成するバカもいない。バカが大成してどうする?

(中略)

コロナが5類になって、世間にはまたぞろ種々雑多なバカたちがうごめきはじめた。そんななか、せめて一服の清涼剤になれば、と頑張ってみた。」

(引用終わり)

 

バカを指摘してくれるのは小気味いいのだが、それはなるほどと思わせるときだけだ。何言ってんのこいつ、なんて思われるようなことを書いたら「バカはお前だろう!」と言われてしまう。

しかし、これまでの勢古の本なら大丈夫、安心して読める、バカ批判を堪能できると、立ち読みながらパラパラとめくった。

こんなのがあった。

 

第2章 進撃のバカ老人

    バカ老人の最高峰はこの男だ

 

当然バカ老人の最高峰はバイデンだと思ったらなんとプーチン、習近平だと。殺人者だの虐殺者だとか。

そしてトランプも性犯罪者だと決めつけている。

世界が認めるバカ老人の最高峰はバイデンだろう。なのに一言の言及もない!

こりゃダメだ、暇なんだから少しはウクライナ戦争について調べろよ。

勢古浩爾も何も学んでないことがばれたよ。勢古は単なるバカ老人の一人だった。

つまり、勢古は新聞とかテレビだけで情報を仕入れて判断しているらしい。

そこらの暇な老人が新聞とテレビしか見ずにプロパガンダの餌食になった哀れなバカ老人と同じなんだ。

これまで結構いい本も書き、沢山の本も読んでいるのだから、マスコミのプロパガンダに晒されても「直感力」ってものがあるだろうに。だから西側勢力はせっせとすぐに嘘がわかるようなニュースを流すんだな。

 

ホントに暇なんだから少しは調べたりしろよ。そして世間様にお金を頂いて本を書くならもう少し勉強してほしいよ。そして本音を。もう世間(会社とか親戚とかご近所とかの)というしがらみは無くなったのだから。

でもなあ、プーチンが虐殺者、トランプが性犯罪者が本音とはねえ。

 

この本、立ち読みで申し訳ないが、この「バカ老人たちよ!」を読んで分かったのは、勢古さん、あんたが一番馬鹿だった、ということだった。ザンネン!!