麻生副総裁が上川外相について「おばさん」「そんなに美しい方とは言わない」など女性の年齢や容姿に関する発言を行ったとして、国会の代表質問にまで扱われた。

下らない、どうでもいい麻生氏の発言は国会の代表質問に該当するような問題なんだろうか。立憲議員も真面目にやれよ、国会の品位を落とすなと言いたい。あっ失礼、最近の国会に品位なんか有ったかな?

 

 

そもそも麻生発言は何なのか。

それは地元に帰っての後援者向けあいさつでの「サービス」である。ジョーク、つかみに過ぎない。

麻生氏の演説は私も聞いたことがあるが、通り一遍の話ではなく裏話や解説、自説等々麻生節をうなるのである。こういう話は最近の政治家にはできないので貴重な存在ではないか。

別に政治家でなくても、少し長めの話をするときは、最初はリラックスしてもらうため、そしてスムーズな導入のためにジョークを入れるのが普通なのだ。参加者へのサービスなのだ。みんな知っているし、そう思っているはずだ。

 

上川外相について「おばさん」「そんなに美しい方とは言わない」などは後援会の聴衆とっては、ああ、いつもの麻生節と笑いが起きたに決まっている。そして、これが女性や上川大臣への批判なんて誰も思わない。なぜなら、文脈というものがあるし、そもそも上川大臣は仲間なんである。

 

 

昔、石原都知事が小池百合子に「大年増の厚化粧」といったようだが、これは敵に放ったので悪意が感じられる。

しかし麻生発言にそういう悪意はない。おじいさんがおばさんに、そういう軽口をたたくのは日常だし、ジョークなんだから何の問題はないのだ。

 

しかし、これが何で問題になるのか、いや問題にするのか。

それは「麻生」だからだ。安倍がいない今、野党やマスコミは「麻生」をターゲットとしたくてうずうずしているのだ。昔「未曾有」を「みぞうゆう」と読み間違っただけで大騒ぎするアホなマスコミなのだ。つまり、問題が起きるのを待っているのだが、問題にならないような事柄でも問題にしてしまうのがマスコミや野党であり、政治を重要なことから常に目を逸らそうとしているマスコミの一番下司なところなのだ。

 

もちろん、そんなことが分かっているなら麻生氏も内輪だからといって軽率な発言などすべきでない、という声も上がるかもしれない。しかし、何度も言うが、ジョークであり、聴衆へのサービスなんだし、麻生氏はこんなことで問題が起きたからといってびくつくような政治家ではない。いいたいことは言ってしまう古い政治家なんだ。(なのに昨日謝罪してしまったが。まあ周りの懇願に負けたのだろう)

ルッキズム(外見至上主義)とかで文句をいう奴もいるが、ルッキズムなんかは偏ったイデオロギーでしかないんだから、そんなもので麻生氏のジョークを批判すること自体ずれているのである。

 

こんな大きな問題にしてしまったのは上川大臣だともいえる。つまり上川氏の受け方が下手なのである。ベテラン政治家とはいえないくらい下手なのだ。

「上川陽子外相は30日の記者会見で、自民党の麻生太郎副総裁が28日の講演で上川氏の容姿を「そんなに美しい方とは言わない」などと言及したことについて、「さまざまなご意見や声があることは承知をしているが、どのような声もありがたく受け止めている」と述べたが、直接論評することはなかった。」

どうですか。こりゃダメでしょう。麻生氏への配慮が全く感じられないでしょう。

 

石原慎太郎から「大年増の厚化粧」と罵倒されたとき、小池百合子は何と返したか。

小池はまさに老獪だから「我々はそういうの慣れてるんですよ、逆に。しょちゅうなんですよ、むちゃくちゃひどいこと言われるの」と受け流しているのである。

 

そう受け流すことが大事なのだ。このとき小池が真面目に反発したら、石原からまた2倍にもなって返しがくるかもしれないから。

ムーディー勝山が歌っていたではないか。

 

    ムーディー勝山

「右から何かが来てる 僕はそれを左に受け流す

いきなりやってきた 右からやってきた

ふいにやってきた 右からやってきた 僕はそれを左に受け流す」

 

上川氏も

「ふいにやってきた そんなに美しい方とは言わないという声がやってきた。私はそれを左に受け流す」

ということをすればよかっただけのことだ。

例えば、「麻生さんてそういう方なんですよ。女性にちょっと下品なジョークをね。でもわたしもおばさんですからね、気にしてませんよ」と。

 

それをあろうことか国会質問に答えてさらに意味不明なことをのたまわっている。大関に推挙された訳じゃあるまいし、「一意専心」だなんて。(大関昇進時の3代目若乃花の口上「一意専心」)

 

「初当選以来、信念に基づき政治家の職責を果たす活動をしてきた。…世の中には様々な意見や考え方があることは承知している、やりたいことに向けて使命感を持って一意専心、緒方貞子さんのように、脇目も振らず着実に努力を重ねていく考えだ。」(国会答弁)

 

これも左に受け流しているようだが、麻生がジョークを言ったのだから、上川もジョーク又はユーモアで答えないと面白くない。ただスキを見せたくないという思いだけで答えている。全く政治家としての余裕が感じられない。その点安倍、小泉あたりならもっと余裕をもってユーモアで返したと思うが。

 

しかし、野党もマスコミも政治家から「言葉」を奪って何の価値があるのか。

言葉狩りをすればするほど自民党議員は殻に閉じこもり、当たり障りがない言葉を繰り返す。

その結果が谷川弥一議員の「頭悪いね」発言だ。

 

 

何度も同じ質問を繰り返されれば、いい加減頭にきて「頭悪いね」と言いたくなる。谷川議員は正直なのだ。

(因みに、私の女房はこの谷川正直発言で弥一ちゃんのファンになった!)

しかし、記者たちはキックバック問題で別に実のある答えを得ようとなんて全く思っていない。まさに「頭悪い」質問を繰り返すことで、ぼろを出す発言を待っているのだ。ヤクザやクレーマーと同じじゃないのか、記者連は。

それが出来るのは、記者連に「正義」があると勘違いしているからだ。

 

社会学者大澤真幸氏(元京都大教授)は「私たちの想像力は資本主義を超えるか」(角川ソフィア文庫)という著書の中で、ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」を引いて次のように書いている。

 

 

「…なぜこの小説の話をするかというと、『薔薇の名前』には、善意に過剰な関わり方をせず、善きものであってもそれを少し突き放してみたり、からかったり、少し笑ったりすることが大事、そうした精神を忘れて過剰に善に関わると、悪へと反転してしまうという教訓が描かれているためです。

(中略)

ホルへ(修道院の指導者)は、善き信仰や、正しいものにコミットしようとするとき、人は笑ってはいけないと考えていた。その思想に対して、ウンベルト・エーコは、人間に笑いは必要であり、たとえ信仰の対象であったとしても、時にはからかったりできる距離を持つことが重要なのだと書いたわけです。

 入れ込み過ぎた善や正義、狂信的な信仰というものは、むしろ悪に変わる。信仰する人にとっても、喜劇やユーモアや笑いは必要なのだということが、この小説に込められた思想です。」

 

入れ込み過ぎた善や正義、狂信的な信仰というものは、むしろ悪に変わる。」とは、ルッキズムとかあるべき政治家への狂信的な信仰というものは、むしろ悪に変わるということだろう。

「悪」とは野党政治家のことであり、マスコミだと思う。広くとらえれば共産主義やLGBTなど左翼思想全般にいえることだろう。

 

因みに、この文だけでは意味がとれないと思うので、大澤真幸氏がこの「薔薇の名前」について書いていることをもう少し長く引用しておきます。(ネタバレ注意)

映画「薔薇の名前」のショーン・コネリー

「『薔薇の名前』(ジャン=ジャック・アノー監督、一九八六年)という有名な映画があります。この映画の原作は、二〇一六年に亡くなりましたが、ウンベルト・ユーコという学者としても一流、小説家としても人気という人が書いた同名の小説です。

 エーコは、歴史学者であり、哲学者であり、あるいは記号論という新しい学問の創始者の一人です。彼の歴史小説は、とてもきちんとした歴史考証がなされている。歴史的な背景に、フィクションを入れて、おもしろくするという、そうした小説を書く才能を持つ人でした。 彼の小説『薔薇の名前』は、ヨーロッパの中世を勉強するためにすごくいい内容です。

なぜこの小説の話をするかというと、『薔薇の名前』には、善意に過剰な関わり方をせず、善きものであってもそれを少し突き放してみたり、からかったり、少し笑ったりすることが大事、そうした精神を忘れて過剰に善に関わると、悪へと反転してしまうという教訓が描かれているためです。

主人公は、映画ではショーン・コネリーが演じる中世の修道士、バスカヴィルのウィリアム。彼はフランチェスコ会という、中世の大修道会の一員として、旅をしているのですが、彼が立ち寄った大きな修道院で、連続変死事件が起きる。不可解な状況で、若い修道士が次々と死ぬ事件が起きるのです。

物語は、この事件の謎を解くという探偵小説の構造になっています。しかしそれだけではなく、なぜ若い修道士が死んでいったのか、その理由を考えると、哲学的な意味があって、これがなかなか勉強になるのです。

 当時はまだ印刷出版以前の段階ですから、写本と言って、本は非常な貴重品でした。この本をたくさん持っているのが教会、こうした修道会で、そこのライブラリーには古い本が置いてある。その中の一冊に実は毒が仕込まれていたのです。

大きな羊皮紙のページの左端に毒が塗られていた。そのため、ページをめくろうとして指を舐めると、読んだ人は死んでしまう。

なぜその一冊だけに、毒が仕込まれていたのか。その本は、当時、ヨーロッパに一冊しかない、哲学者のアリストテレスの著作でした。『詩学』の完全版です。これはいわば文学論で、特に演劇について書かれていた。この『詩学』の中の、喜劇について書かれた部分に毒が塗られていたのです。

なぜか。当時中世は、聖書の次にアリストテレスが権威となっていました。「アリストテレスがこう書いている」ということは、聖書に書いてあることの次ぐらいに、心理として信じられていたのです。つまりアリストテレスが言えば、もうそれで決まりです。そのぐらい権威があった。

ところが、この修道院の指導者、老修道士のホルへは、あるとき貴重な『詩学』のある部分を読み、そこに喜劇について書いてあるのを知って、驚愕する。

なぜかというと、彼は厳格な信仰のためには、笑いはいけない、笑いというものは、信仰の敵であると考えていたからです。ところが、あの権威あるアリストテレスが喜劇について「喜劇は人間にとっていいものだ、必要だ」ということを書いていた

それはとうてい我慢ならなかった。彼にしてみれば、本来の信仰には笑いがあってはいけないのです。そこでアリストテレスの記述を秘密にするために、万が一そこを読んだ人は、必ず死ぬように、毒を仕込んでおいた。そうした物語です。
 ホルへは、善き信仰や、正しいものにコミットしようとするとき、人は笑ってはいけないと考えていた。その思想に対して、ウンベルト・エーコは、人間に笑いは必要であり、たとえ信仰の対象であったとしても、時にはからかったりできる距離を持つことが重要なのだと書いたわけです。

 入れ込み過ぎた善や正義、狂信的な信仰というものは、むしろ悪に変わる。信仰する人にとっても、喜劇やユーモアや笑いは必要なのだということが、この小説に込められた思想です。」

(引用終わり)

 

つまり麻生発言に文句を付けた人々は、第一に麻生が嫌いで党利党略で貶めたいという気分が満載だったのだが、一方で女性をジョークでも笑いを取ることは許さない、という「狂信的な信仰」があったのだと思われる。だから、少しのクレームでは終わらせたくなく、国会質問にまで発展させたのだろう。まさに「悪」に変わったのである。

 

本当に上川氏が大人の対応で、笑って済ませ、左に受け流しておけばこんな馬鹿げた騒動にはならなかったと思うんだけど。

因みに上川もアメリカの僕(しもべ)になっているようで、主権国家の外務大臣としての職責を果たしていない。

まあ親分の岸田がアメリカの僕というか奴隷だからしょうがないが。